葬儀について

 現代は、昔と違い、葬儀に対する考え方に、様々な形が見うけられます。
 家族とごく親しい人のみで行う「家族葬」や、故人の生前の好(この)みを取り入れた、例えば音楽葬などの「自由葬」、または「直葬(ちょくそう)」といって、遺体を火葬する以外は一切の儀式をしない、など様々な形式があります。
 近年の核家族化、少子高齢化、未婚・離婚率増加などの社会的背景や、または個人主義、価値観の多様化によって、故人や遺族の意向による自由な葬儀の形式が流行(はや)っているようですが、「死」という臨終の一大事を、何でも自由な「葬式スタイル」で行っても良いのでしょうか。
 このように葬儀が多様化した原因は、真実の仏法がわからない、三世の生命を知らない、不信謗法が根底にあるからです。
 臨終の大事はもちろん、死後の生命についても、生前の延長線上での考えに執われ、凡夫の浅はかな考えで、それぞれ自分勝手な解釈をしている姿は、従来仏説(ぶっせつ)にのっとって行われてきた葬儀の深意(じんい)を冒涜するものであり、このままでは生死に対する畏敬の念、純粋な気持ちが、さらに薄れていってしまいます。
 葬儀は単なる形式ではなく、本人の生前の人生および信仰の帰結を示すものであり、遺族が一心に故人の即身成仏を願う大事な儀式でもあります。ですから、三大秘法の仏法によってのみ、成仏が叶うという確信を持つことが大切です。
 つまり、表面上の形を整えることよりも、故人の遺徳を心から偲び、導師御本尊の御前において、導師と共に成仏を祈念し、更なる信心倍増と法統相続を誓っていくことが重要なのです。
 その心は、自然に姿・形として表れ、親戚・縁者・参列者の眼に、正宗葬儀の清々(すがすが)しい印象として残ることになるでしょう。
 大聖人様は、『妙法尼御前御返事』に
 「先(ま)づ臨終の事を習ふて後 に他事(たじ)を習ふべし」
       (御書一四八二)
と仰せです。臨終の大事を成仏という一点からとらえ、故人に対し、遺族・親族として、信心の上から、『死』と『葬儀のあり方』をよくよく考えていくべきです。