も の と 心
ある兄弟の話です。
彼は大切に使っていたゼンマイ式腕時計(当時は全部そうでした)を弟からせがまれて、譲(ゆず)ってあげました。愛着のある時計だったので断りたかったのですが「兄貴は二本持っているからいいだろ」と口説かれたそうです。
ところが弟の方は、無理に貰(もら)い受けた割には、大切にする気が無く、扱いもぞんざいで、譲ってから半年もせず、時計は壊(こわ)れてしまったそうです。
兄は「かわいそうな事をした。僕がそのまま持っていれば、きっとまだまだ動いたろう、物にも心があると言うのは本当にその通りかも知れない」と言ったものでした。
仏教では草木や石ころ、身の回りの道具等、心や感情を持たないものを「非(ひ)情(じょう)」と呼び、人や動物を「有(う)情(じょう)」と言います。
私達凡人の目には有情、非情は全く別ものと映りますが、日蓮大聖人様や第九世日有上人様は
・一念三千(いちねんさんぜん)は(有)情・非情に亘(わた)る
(観心本尊抄六四五)
・非情は有情に随(したが)う
(化儀抄一〇九・一一〇条)
と教えられています。仏性はあらゆる所に宿っていて、有情非情の差別は無いという事です。
次の「非情は有情に随う」との教えは、ものはそれを使う人、所有する人の考え方やその善悪に影響を受ける、という意味です。
こんな話があります。
とある大工の名人が現場を引退し、何年も経(た)った後、弟子がその道具箱を開いてみた。長く手入れをされず錆(さび)も出始めているが、その道具からは名人の気迫や品格が立ち昇り「いつでも最高の仕事をしてやる」と身(み)構(がま)えている。並の大工の道具なら三日も放置されればダメになるが、これには驚いた、と。(草思社刊・木のいのち木のこころ・小川三夫)
名人と道具とは既(すで)に一体なのでしょう。
さて、非情であるものが有情に随うという仏様の教えは、現代の我々ととても深い関わりを持っています。
何故ならその延長線上に、私達人間全体と、それを取り巻く環境との一体があるからです。これを仏教では「依(え)正(しょう)不二(ふに)」と言います。依とは依報のことで環境、正とは正報で衆生のことです。大聖人様は
衆(しゅ)生(じょう)の心けがるれば土(ど)もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄(じょう)土(ど)と云(い)ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔(へだ)てなし。只(ただ)我等が心の善悪によると見えたり
(一生成仏抄四六)
と仰せです。
欲と怒りと愚かしさ(貪瞋(とんじん)癡(ち))の三毒に支配された私達人間 ―その家庭でも社会でも国でも― の周囲には、それに見合った現実の環境が出来上がります。
けれど日蓮大聖人様の教えを学び、信仰を持つ人は、必ずや貪瞋癡の鎖(くさり)を解き放ち、自身に具わった花を咲かせ、結果、環境さえも変え得る、と私達は確信しています。そして、共にこの仏道を歩む方が一人でも多からん事を願っています。