妙眞寺 紹介
本地山妙眞寺は、昭和八年一月、前年の十一月六日に創建された豊島区の「妙光院(豊島教会所・現在の妙國寺)」の建立寄進を終えた平山廣生御尊師(一如阿闍梨廣生房日弘大徳)が発願主となり、師匠・有元日仁御尊能化(大慈院日仁贈上人)より御許可をいただき「信行閣」建設のために、目黒区緑が丘に地主の栗山福太郎氏より土地を借り受けました。
そして、同年十月に地鎮祭を豪雨の中、ただお一人で奉修されました。
十一月には総本山第五十九世日亨上人おしたための「信行閣」の御本尊を御安置申し上げ、十二月八日、妙光寺第二代御住職・有元日仁御尊能化の御導師によりまして「信行閣」開堂式が奉修され、八畳一間の本堂を拠点として城南布教が開始されました。寺院の外護においては、仏祖三宝尊の御加護をひたすら願って唱題行に唱題行を重ね、全ての私財をなげうち寺域の拡張に努め、布教の面においては、「南無妙法蓮華経の坊主」と詈られながらも、ただ広布大願・日本国の平和安寧、城南広布に向けて御信徒と共に護持興隆発展へと努められました。
その後,さらに本堂改築のため隣地を借地し、昭和十一年七月から「信行閣」本堂の改築工事が始まり、十一月には上棟式が執り行われました。工事は、妙光寺信徒の石田嶺作氏が山門新築と本堂改修工事を、山門彫刻は仙台・佛眼寺信徒の星野直人氏が施工されました。そののち、星野直人氏は法華講妙眞寺支部・初代講頭となられました。
昭和十五年十一月には、総本山第五十九世日亨上人猊下様の御親修を賜りまして、「信行閣」本堂の改築法要を厳修し、昭和二十二年十二月十一日には、総本山第六十四世日昇上人猊下より「本地山妙眞寺」の山号寺号を賜り、寺号公称をいたしました。翌、昭和二十三年一月に、平山廣生御尊師が、妙眞寺初代住職に就任され、十月十八日には妙眞寺法華講が結成され、妙眞寺の歴史が本格的に動き始めることになりました。
昭和三十七年一月には、妙眞寺信徒・村上行平氏の御尊父・村上公佑氏を棟梁として庫裡の改築工事、五月には渡会弁治氏を棟梁として本堂・客間改築工事がはじまり、同年九月十六日に総本山第六十六世日達上人御親修により、妙眞寺本堂落慶入仏法要が厳修され、日達上人おしたための現在の本堂御本尊様が御安置されました。
昭和三十九年九月には八王子市南大沢に妙眞寺墓苑が開苑され、更に平山廣生御尊師は、この妙眞寺墓苑事務所を寺院にと発願され、現在の大澤山廣妙寺が創建されました。廣妙寺は昭和四十九年十月に新築起工式が行われ、昭和五十年三月十五日に総本山第六十六世日達上人御親修により新築落慶法要が奉修され、初代住職に平山廣篤御尊師が就任され、今日に至ります。
そうしたなか、昭和五十二年四月八日に妙眞寺執事であられた平山憲廣御尊師、そして五十三年十二月十六日には、妙眞寺初代御住職平山廣生御尊師が次々と御逝去あそばされました。
その後を受けまして、翌年の五十四年一月七日に、山口法興氏が妙眞寺第二代住職に赴任しましたが、創価学会の昭和五十二年教義逸脱路線に端を発した正信会問題により、昭和五十五年九月二十四日住職罷免となり、十月十六日に擯斥処分となり、その後三十年間妙眞寺を不法占拠するに至りました。罷免後は、早瀬義寛御尊師(御当代・御法主日如上人猊下),大村寿顕御尊師(常秀院日統上人)、現宝浄寺御住職・舟橋義秀御尊師(舟橋日謙御尊能化)方が、妙眞寺兼務住職を歴任されました。
時は、平成に代わり、二十二年四月十九日に山口法興氏が死去し、妙眞寺第三代御住職として平山信憲御尊師が御住職として就任され、七月二十一日には妙眞寺御宝物・寺院建物等が宗門へと返還され、三十年ぶりに日蓮正宗の末寺に復帰しました。八月三日には、「妙眞寺復帰奉告法要並びに第三代住職入院式」が教区内外の僧侶、信徒総勢三百名を越える参詣を賜り奉修されました。
早速、新たな御住職のもと、日蓮正宗本来の正統な宗教活動が再開されることとなりましたが、平成二十二年八月の役員会におきまして返還後の老朽化した妙眞寺修繕整備を行う必要があること及び檀信徒の参詣の利便性を考慮し、本堂隣接地の居宅を解体し駐車場とすることが決定し、総合整備事業として特別御供養に講員一同が参加させていただきました。
また、同年十二月十九日には数々の修繕整備、完成した駐車場等の報告のため、妙眞寺復帰記念総合整備事業奉告法要並びに妙眞寺初代御住職様の第三十三回忌法要が奉修されました。
平成二十四年十二月十六日には「本地山妙眞寺」寺号公称六十五周年並びに妙眞寺重法虫払法要が奉修され、妙眞寺重宝である、総本山第二十四世日永上人、第二十六世日寛上人をはじめとする御歴代上人おしたための四十幅にわたる数々の御本尊様のお風入れがなされました。
また、平成二十五年十二月十五日には、妙眞寺創立八十周年並びに妙眞寺法華講結成六十五周年法要が盛大に厳修され、記念事業として本堂御安置御本尊の御荘厳直しが施され、平成二十五年七月二十一日の妙眞寺支部総登山の折、奉安堂にて御法主日如上人猊下によりお清めがなされて、当日妙眞寺にお戻りになりました。さらに本堂御安置の宗祖日蓮大聖人、第二祖日興上人の各御影様も御衣替えも施され、十二月七日に妙眞寺に御戻りになられました。八月には山号・寺号額の新調、境内のトイレの全面改修、本堂・客間の修繕整備、什器・備品の新調・修繕が行われました。
その後も、平成二十六年十二月二十日には、初代住職一如阿闍梨廣生房日弘大徳第三十七回忌法要が奉修され、平成二十九年十二月十七日には、信行閣御本尊の御荘厳直し、仏具の新調等の記念事業を行い、妙眞寺寺号公称七十周年記念法要が厳修され、今日に至ります。
一方、妙眞寺法華講結成六十五周年の歴史でございますが、昭和二十三年十月十八日に初代講頭・星野直人氏はじめ信徒二十名により法華講が結成され、今日まで十名の方が講頭に就任され、特に第五代講頭の北原鐡雄氏は、北原白秋氏の実弟であり、妙眞寺大過去帳には北原鐡雄氏の御両親、奥様、御自身の御法名がしたためられており、北原家ゆかりの寺院となっております。過去の資料に乏しいため詳細は不明ですが、宝浄寺様で作られております「正道」によりますと、昭和五十四年当時、妙眞寺は檀信徒が急速に増え、月例の宗祖日蓮大聖人御報恩御講には七百名の方が参詣し本堂、客間に溢れるほどだったそうです。
正信会に与し住職罷免、擯斥処分となった山口法興氏が住職のとき、昭和五十四年第一回東京檀信徒決起大会が妙眞寺で開催され、翌五十五年一月に全国信徒総会が総本山で開催され、七月には法華講連合会を脱退したとのことであります。八月からは「千遍講」という唱題行が独自に行われ、急速に間違った方向へと進んで行ったようです。山口法興氏は、創価学会の昭和五十二年教義逸脱路線に端を発した正信会問題により、住職罷免・擯斥処分となり、妙眞寺の不法占拠を始め、一部の妙眞寺法華講信徒は、昭和五十五年九月二十九日に総本山第六十七世日顕上人の御慈悲により宝浄寺様の預かり信徒となりましたが,そのまま訳も分からず正信会にとどまった信徒もいたようであります。
その後,平成二十二年四月十九日に山口法興氏が死亡するまでの三十年間、妙眞寺の早期明け渡しを目的として、宝浄寺様で正しい信心を学び、温かい御指導のもと信心修行させていただいただきました。
平成二十二年、妙眞寺の日蓮正宗復帰当時七十五世帯・百数十名であった陣容も、現在、二百数十世帯・四百名を越える陣容となり、御法主日如上人猊下様の妙眞寺への御命題として課せられております、「早期に妙眞寺の建替えをしなさい」との御言葉を目標として、令和十五年妙眞寺・創立百周年を念頭に、平山信憲御住職様並びに各総代、齋藤貞雄講頭を中心に僧俗団結して、九十年の歴史と伝統、先人方の並々ならぬ御苦労の賜物である御功績を汚すことなく、折伏のできる妙眞寺、東京第二地方部の先駆けとなれる支部を構築するよう、寺院興隆に精進しております。