御報恩御講住職指導(令和8年2月)
宗祖日蓮大聖人様は、『兄弟抄』に、「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」と仰せであります。
要するに、私たちが信行の実践に励んでいけば、必ずこの三障四魔の用きが競い起こることを大聖人様が訓誡なされており、自身の内外から正法を修することを妨げる用きがあることを常に肝に銘じて仏道修行に精進して行くことが肝要であります。そしてまた、三障四魔とはただ第六天の魔王などの障魔が我が身を襲ってくるのみならず、自身の内面から湧き起こる三毒煩悩の用きや、過去世からの因縁宿習によるものであったり、あらゆる外的要因によって、一生成仏の道を妨げるものであります。よって、まずは魔を魔と見破ることが大事であり、自身の内面からも競い起こる故、ただ漠然と信心を行っているようでは、僅かな隙や油断により魔に魅入られてしまいます。 つまり、着物にほんの小さな綻びがあったならば、すぐさまその部分を修繕すればそれ以上その綻びは進みませんが、それを修繕しなかったり気付かず着用して行けば、みるみるうちにその綻びが広がり、やがては取り返しのつかない状況になってしまうことは言うまでもありません。
よって私たちもいかに信心修行に錬磨していようが、それが大聖人様の御心に適ったものであるかどうか、我意我見の信心になってはいないかどうか、単なるお座なりの信心になってはいないかどうか、ある程度の結果を成じてそれに満足したり慢心を起こしてはいないかどうかを、常に省みることが一生成仏を道を歩む上で非常に大切なことであります。いつも申し上げておりますが、反省なくして成長はありません。それは、私たちが末法愚鈍の衆生であるが故に、僧侶や信徒の立場にかかわらず、誰しもが過ちを犯したり我意我見に執してしまったり、人として周囲の信頼を損ねるような身口意三業の姿を晒してしまうことがあるからであります。
ましてや、せっかく大聖人様の尊い御教えに帰依することができたとしても、人生の最期、臨終を迎え華々しい即身成仏の果報を頂く前に退転してしまったり、創価学会や顕正会、正信会のように、大きく横道に逸れてしまい、本門戒壇の大御本尊様と血脈伝持の時の御法主上人猊下のもとを離れてしまえば、それは大聖人様の御教えから大きく逸脱して、結果的に功徳を積むどころか逆に大きな罪障を積み累ねることとなってしまいます。
確かに大聖人様の教えは仏教の道理において、悪世末法における唯一無二、完全無欠の教えではありますが、大聖人様御入滅以来令和の今日に至るまで、宗祖日蓮大聖人様が第二祖日興上人に受け継がれ、御歴代御法主上人に相承されている秘法である故、その大事を弁え謙虚に誠実に、正しい信仰の姿が無ければ、そもそも信心の根底から捻じ曲がったものになってしまい、決して大聖人様の教えを正しく信心修行していることにはなりません。
ですから、皆様にはその意とするところを充分に心得て頂き、我慢偏執することなく、また人としてしかるべき日々をお送り頂き、今年こそは大いに正義の顕揚を果たすことができるよう、「団結行動の年」に相応しい信行の実践に取り組んで頂きますよう、心よりお願い申し上げます。

