御報恩御講(令和8年1月)

令和八年一月御講             

生死一大事血脈抄(五一五ページ)

文永九年二月十一日  五

 

 相(あい)構(かま)へ相(あい)構(かま)へて強盛(ごうじょう)の大信力(だいしんりき)を致(いた)して、南無妙法蓮華経臨終(りんじゅう)正念(しょうねん)と祈(き)念(ねん)し給(たま)へ。生死(しょうじ)一(いち)大(だい)事(じ)の血脈(けちみゃく)此(これ)より外(ほか)に全(まった)く求(もと)むることなかれ。煩悩(ぼんのう)即(そく)菩(ぼ)提(だい)・生死(しょうじ)即(そく)涅(ね)槃(はん)とは是(これ)なり。信心(しんじん)の血脈(けちみゃく)なくんば法華経(ほけきょう)を持(たも)つとも無(む)益(やく)なり。

 今月拝読の御書は、『生死一大事血脈抄』であります。

本抄は、文永九年二月十一日、大聖人様御歳五十一歳の時に佐渡・塚原三昧堂にて著され、最蓮房に与えられた  御書であります。最蓮房は、元々は天台宗の僧侶だったのですが、なにか理由があって佐渡島に流されていたのです。そして文永 九年二月に他宗の僧侶たちと行われた塚原問答での大聖人様のお姿に感銘を受け、大聖人様のお弟子になった方であります。残念ながら此の最蓮房のことは殆(ほとん)ど不明であり、下された御書についても、御真蹟が残っておりません。その為、賜書についても偽書扱いされております。当家では、真撰として拝しております。最蓮房が大聖人様に、「生死一大事の血脈」について質問しました。その御返事が本抄であります。そもそも、「生死一大事の血脈」とは、どういう意味があるのかと申しますと、「生死」は、私達の命は、三世に亘(わた)って生まれては死に、死んでは生まれることを繰り返すことをいいます。次の「一大事」とは、その繰り返す生死の中で最も大事なこと、人生の究極の根本的解決となるもの、との意味です。仏様は、この世に御出現あそばされ、大きな慈悲をもって生死に迷う人々を救おうとされました。それが「生死一大事」という、仏法にとって最も大事なことです。次の「血脈」とは、「血」は血であり、「脈」は筋道という意味です。またそれは人間の身体で言えば血管のことです。血管があって初めて血が全身を回ることができます。もしこの血脈が閉ざされると、全身に血が回らなくなってしまい、そこから色々な故障が起こってきて大変なことになってしまいます。仏法の立場から申し上げますと、仏法の教えは、師匠から弟子へと受け継がれることを言います。つまり、大聖人様の仏法が御歴代の御法主上人猊下によって七百年以上にもわたって受け継がれていることを血脈と言います。さらに、心臓から毛細(もうさい)血管(けっかん)の隅々(すみずみ)まで血が行き渡るように、仏様から全ての衆生に対して利益を伝え、受けさせて救わんとすることを信心の血脈と言うのであります。本抄には、「日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり」(御書五一四㌻)と仰せられ、具体的にその血脈を受ける信心の在り方は、広宣流布を目指し、異体同心して南無妙法蓮華経と唱えていくことであると御教示なされております。今回の御聖訓は、どのような信心で南無妙法蓮華経を 唱えれば功徳が大きいのかを御教示なされて所であります。

通釈をしてまいりますと、

「相(あい)構(かま)へ相(あい)構(かま)へて強盛(ごうじょう)の大信力(だいしんりき)を致(いた)して、南無妙法蓮華経臨終(りんじゅう)正念(しょうねん)と祈(き)念(ねん)し給(たま)へ。」

(通釈)

 くれぐれも強盛の大信力を起こして南無妙法蓮華経臨終正念と祈念しなさい。

臨終正念とは、死に臨んでも心を乱さず、妙法を唱えつつ成仏を正しく念じることをいいます。

「生死(しょうじ)一(いち)大(だい)事(じ)の血脈(けちみゃく)此(これ)より外(ほか)に全(まった)く求(もと)むることなかれ。煩悩(ぼんのう)即(そく)菩(ぼ)提(だい)・生死(しょうじ)即(そく)涅(ね)槃(はん)とは是(これ)なり。」

(通釈)

「生死一大事の血脈は、これより外にまったく求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とはこのことであります。」

煩悩即菩提とは、煩悩とは心身を煩い悩ませる一切の はたらきを言います。菩提とは悟りの境地のこと。爾前経で説くように煩悩を断じ尽くして菩提に至るのではなく、煩悩がそのまま菩提と開かれる、法華経の功徳のことを 煩悩即菩提というのであります。

また、生死即涅槃とは、生死を繰り返す迷いの苦しみがそのまま涅槃の悟りとなることを言います。これも法華経の功徳によるのであります。

「信心(しんじん)の血脈(けちみゃく)なくんば法華経(ほけきょう)を持(たも)つとも無(む)益(やく)なり。」

(通釈)

「信心の血脈がなければ、法華経を受持しても無益であります。」

このように大聖人様は仰せになり、どのような状況に 置かれたとしても強盛な大信力を起こしてお題目を唱えていきなさいと最蓮房を激励なされました。

それでは、今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。

一つ目は「臨終正念を心得て日々の信行に励もう」ということです。臨終には「多念の臨終」「刹那(せつな)の臨終」の二つの意味があります。多念の臨終とは、平生または臨終の時が予想される中、「臨終ただ今なり」と、常に行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にわたり題目を唱えることであり、「刹那の臨終」とは、最期臨終の時の一念のことです。最期の一念には、それまで積み上げてきた修行の功力が顕れることを知らなければなりません。総本山第二十六世日寛上人は、「心を顛倒(てんどう)せず、錯乱(さくらん)せず、日頃から祈ることが肝心である」(臨終用心抄・日寛上人御述作集三六一㌻・趣意)と御指南なされています。私たちは、勤行・唱題を欠かさず、折伏と育成を常に実践することで、いざ寿命が尽きる、その時に至っても安心して臨終を迎えることができるのです。最蓮房はのちに、病気療養のため山籠もりする許可を大聖人様に願い出ています。大聖人様はその願いを受けつつも、「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」(最蓮房御返事・御書六四二㌻)と、信心によって必ず病気を克服し、一層、妙法弘通に 努めていくよう激励なされています。私たちも、信心修行を怠らず退転しない、正直で誠実な振る舞いを為す、一切を御本尊様に任せて自行化他に励む。この着実な実践が肝要であります。

 二つ目は「大御本尊様を根本とする信心で折伏実践」ということです。今回の御聖訓に「信心(しんじん)の血脈(けちみゃく)なくんば法華経(ほけきょう)を持(たも)つとも無(む)益(やく)なり。」とお示しです。この御文のみが強調され、その大前提となる付嘱伝持の血脈、すなわち、『一期弘法付嘱書』「血脈次第日蓮日興」と仰せられた「法体の血脈」を蔑(ないがし)ろにしてはいけません。本抄において、「釈迦多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給ひて、此の妙法蓮華経の五字過去遠々劫(おんのんごう)より已来(このかた)寸時も離れざる血脈なり」(御書五一三㌻)と仰せのように、法体が付嘱によって伝持されてきたことは明らかです。大聖人様御入滅後は、第二祖日興上人已来、御当代日如上人猊下に至るまで、厳然と相承されているのです。この唯授一人の血脈こそ、戒壇の大御本尊と共に日蓮正宗の根本命脈なのです。この根本の法体を深く信ずることが信心の血脈なのです。第六十五世日淳上人は、血脈相承の大事なる所以を「仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからであつて、即ち魔族が仏法を破るからである」(日淳上人全集 一四四二㌻)と仰せになっています。魔が多く競い邪義が横行する中で、大聖人様の仏法の正義が護り伝えられてきたのも、血脈相承ましませばこそであります。あろうことか現在の創価学会は、この日蓮大聖人の仏法の法体を、末法万年に伝える尊い血脈相承を否定し、血脈御所持の前御法主日顕上人、日如上人猊下に対し奉り、手段を選ばず、あらん限りの誹謗中傷を繰り返しています。このような仏法破壊・三宝破壊の大罪は、堕地獄必定の大謗法であり、まさに創価学会が仏法を破る魔族であることを証明するものです。第六十六世日達上人は、「信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるかということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人のご当体たる 本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります」(達全二―五―五九二㌻)と御指南なされています。本門戒壇の大御本尊様は、唯授一人の血脈相承によって御当代御法主上人に伝持されています。その御法主上人の御指南に随ってこそ、私たちにも「信心の血脈」が流れ通うのです。したがって、ことさらに「信心の血脈」のみを主張し、法体の血脈を否定する創価学会等の信心に功徳がないのは明らかです。大聖人様の願いは一切衆生救済・広宣流布にあります。自分の周りにいる人、お世話になった人、親戚縁者等々、折伏の対象者は数え切れないほどいるはずです。その方々を救えるのは、私達しかいないことを再認識し、力を尽くして折伏を実践してまいりましょう。

 最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。「謗法(ほうぼう)を破折(はしゃく)できるのはだれか。それは我々でしょう。我々しかいないのです。ですから私達は、邪(じゃ)義(ぎ)邪宗(じゃしゅう)の謗(ほう)法(ぼう)に対しては徹底的(てっていてき)に破折(はしゃく)していかなければならないという自覚をしっかりと持つことが大事なのです。」(大日蓮・令和七年二月号)このように御指南なされ、折伏できるのは我々しかいないという自覚をもって折伏していく大事を御指南されました。

「団結行動の年」の新春、決意も新たに一月唱題行に参加しましょう。今年は、四月と九月を折伏強化月間とすることが打ち出されています。今から計画を立て、四月とは言わず、一刻も早く人々を救う折伏を敢行してまいりましょう。とにかく日々に祈り、日々に実践することが肝要です。寒さに負けず、共に精進してまいろうではありませんか。