御報恩御講(令和8年4月)

令和八年四月御講             

曾谷入道殿許御書(そやにゅうどうどのもとごしょ)(七七八ページ)

文永十二年三月十日  五

 

 仏(ほとけ)の滅(めつ)後(ご)に於(おい)て三(さん)時(じ)有(あ)り。正像(しょうぞう)二(に)千(せん)余(よ)年(ねん)には猶(なお)下(げ)種(しゅ)の者(もの)有(あ)り。例(れい)せば在(ざい)世(せ)四十(しじゅう)余(よ)年(ねん)の如(ごと)し。根(こん)機(き)を知(し)らずんば左右(そう)無(な)く実経(じっきょう)を与(あた)ふべからず。今(いま)は既(すで)に末法(まっぽう)に入(い)って、在(ざい)世(せ)の結縁(けちえん)の者(もの)は漸々(ぜんぜん)に衰(すい)微(び)して、権(ごん)実(じつ)の二機(にき)皆(みな)悉(ことごと)く尽(つ)きぬ。彼(か)の不軽(ふきょう)菩(ぼ)薩(さつ)、末(まっ)世(せ)に出現し(しゅつげん)て毒(どっ)鼓(く)を撃(う)たしむるの時(とき)なり。

 本抄は、文永十二(一二七五)年三月十日、大聖人様御歳五十四歳の時に認められた御書であります。大聖人様が身延に入山されてから約十ヵ月ぐらい経過した時の御書でありまして、本抄を賜ったのは曾谷入道殿(教信)と、大田乗明殿の二人であります。曾谷教信殿は、本名を「曾谷二郎兵衛尉(ひょうえのじょう)教信」といいまして、大聖人様からは「曾谷入道」、あるいは「教信御房」等の名で呼ばれることもあったようです。下総(しもうさ)国(のくに)国分村(こくぶむら) 曽谷の邑(むら)主(ぬし)で、大野政清の子息と伝えられます。史伝書に依れば、大聖人が松葉ケ谷法難後、下総富木常忍邸に逗留(とうりゅう)中に大田乗明等と同じ頃の入信と伝えています。終生熱心な信心を続けましたが、『観心本尊得意抄』によれば、迹門不読について考え違いを起こし、大聖人より誤りの指摘を受けています。『法蓮抄』を賜った曽谷法蓮という方がいますが、教信と同一人物か別人かははっきり分かっていません。もう一人の大田乗明殿は、本名を「大田五郎左衛門尉  乗明」といいまして、富木常忍と共に下総地方の有力な檀越です。後に左衛門尉(唐名は金吾)任ぜられたので大聖人様からは「大田金吾」或いは「乗明聖人」等と呼ばれ、「妙日」との法名を賜っています。下総八幡庄(やわたのしょう)中山に住し、鎌倉幕府の訴訟機関である問注所役人の家柄で、曽谷教信と同時期の入信とされています。お二人とも、大聖人が松葉ヶ谷法難後、富木邸に滞在中に入信された古い御信徒であり、大聖人様が鎌倉や佐渡、さらには身延にあっても一心に外護申し上げた信心篤い方々です。また、大聖人様より戴いた御書の多くが漢文体であることから、高い教養の持ち主であったことが窺えます。

 本抄の冒頭には「夫(それ)以(おもんみ)れば重病を療治(りょうじ)するには良薬(ろうやく)を構索(こうさく)し、逆(ぎゃく)・謗(ぼう)を救助(くじょ)するには要法(ようぼう)には如(し)かず」(御書七七七㌻)と示され、末法時代の衆生が謗法の罪によって苦悩する姿は重症患者のごとくであり、その重い病を治すには、釈尊が説いた教えではなく、末法の御本仏・日蓮大聖人様が建立された三大秘法の大良薬でなければならないことを明かされています。この御指南は本抄に一貫する御教示であります。

通釈しますと、「仏(ほとけ)の滅(めつ)後(ご)に於(おい)て三(さん)時(じ)有(あ)り。正像(しょうぞう)二(に)千(せん)余(よ)年(ねん)には猶(なお)下(げ)種(しゅ)の者(もの)有(あ)り。例(れい)せば在(ざい)世(せ)四十(しじゅう)余(よ)年(ねん)の如(ごと)し。

(通釈)「仏の滅後に三時ある。正法時代・像法時代の二千余年には(過去世に)下種を受けた者がいました。たとえば在世四十余年(の衆生)のようなものです。」

根(こん)機(き)を知(し)らずんば左右(そう)無(な)く実経(じっきょう)を与(あた)ふべからず。

(通釈)「衆生の機根を考えないで、むやみに実経を与えてはならないのです」。

「今(いま)は既(すで)に末法(まっぽう)に入(い)って、在(ざい)世(せ)の結縁(けちえん)の者(もの)は漸々(ぜんぜん)に衰(すい)微(び)して、権(ごん)実(じつ)の二機(にき)皆(みな)悉(ことごと)く尽(つ)きぬ。」

(通釈)「今はすでに末法時代に入り、釈尊在世に結縁した者は次第に少なくなり、権実の二機の衆生は悉くいなくなりました。」

「彼(か)の不軽(ふきょう)菩(ぼ)薩(さつ)、末(まっ)世(せ)に出現し(しゅつげん)て毒(どっ)鼓(く)を撃(う)たしむるの時(とき)なり。」

(通釈)「末法という時代は、彼の不軽菩薩が出現して毒鼓を撃つ時なのです」。

 このように大聖人様は仰せになり、曾谷入道殿と大田 乗明殿に対して今後も令法久住のため、広宣流布のために一層精進するよう激励なされたのが今回の御聖訓です。

 それでは、今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。

 一つ目は「諦めることなく正法を伝えきろう」ということです。今回の御聖訓では、末法の世について「不軽(ふきょう)菩(ぼ)薩(さつ)、末(まっ)世(せ)に出現し(しゅつげん)て毒(どっ)鼓(く)を撃(う)たしむるの時(とき)」と仰せです。毒鼓の縁とは、謗法の衆生に仏との結縁の相を表す言葉でありまして、毒を塗った太鼓の音は、聞こうとしない者の耳にも入ると説かれます。聞こうとしない者にも法華経を説き聞かせることは、却(かえ)って法華経に縁する故に成仏の因となることで、逆縁とも言います。『涅槃経』第九に、「毒薬を以て用いて太鼓に塗り、大衆の中に於いて之を撃ちて声を発(いだ)さしむるがごとし・聞かんと欲する心無しと雖(いえど)も、之を聞けば皆死す」とあり、法を聞信(もんしん)せずと反対しても、やがて煩悩を断じて得道できることを毒鼓(毒を塗った太鼓)を撃つことに喩えているのです。一切衆生には皆仏性が具わっているおり、正法を聞き、発心修行することによって逆縁の衆生であっても法を聞かせることによって正法と縁を結ばせ、将来必ず 救済することが出来るとの御教示であります。私たちの折伏も、勇気と確信を持って仏法を語るとき、それは必ず相手の心に、命に届き、正法との縁になるのです。大聖人様が「此の娑婆世界は耳(に)根(こん)得道の国なり」(一念三千法門・御書一一〇㌻)と仰せのとおり、仏法を自ら「聞く」こと、そして他の人に「聞かせる」ことが成仏得道の因となります。したがって折伏の際、相手がすぐに入信に至らなくても、また反論してきたとしても、それは決して折伏の失敗ではありません。正法を語り聞かせた瞬間に、成仏への尊い縁が結ばれるのです。ただし、縁をさせたことに満足してしまったり、話を  聞こうとしない折伏対象者を逆縁の人だからと、すぐに 諦めてしまってはいけません。相手の反応に一喜一憂せず、謗法の誤りをきちんと破折し、南無妙法蓮華経だけを信受するよう、慈悲の心をもって丁寧に何度でも話をしてまいりましょう。「この縁によって必ず相手は救われる」との確信に立ち、堂々と正法を伝えていくことが大切であります。

 二つ目は「何者をも恐れぬ信心で折伏実践を」ということです。「不軽菩薩」について大聖人様は、『聖人知三世事』「日蓮は是(これ)法華経の行者なり。不軽(ふきょう)の跡(あと)を紹継(しょうけい)するの故に」(御書七四八㌻)と仰せになっています。つまり、末法の今日、不軽菩薩のように順逆二縁を問わず、折伏を行ずる人が真の法華経の行者であり、まさにご自身こそ、その人であると示されているのです。大聖人様は、『御義口伝』「心無所畏(しんむしょい)とは今日蓮等の類南無妙法蓮華経と呼(よ)ばはる所の折伏なり」(御書一七七九㌻)と仰せです。「心無所畏(しんむしょい)」とは「何者をも恐れぬ心」であり、南無妙法蓮華経と唱えて折伏を行ずる私たちの姿であると説かれています。大聖人様の弟子檀那である私たちは、身命を賭して折伏を行じられた大聖人様と同じく、不自惜身命の信念を持って、いよいよ破邪顕正の折伏に立ち上がろうではありませんか。

 最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。「今時(こんじ)末法においては、摂受(しょうじゅ)を行ずるのではなく、折伏を行ずることによって、私ども一同、それぞれ内在(ないざい)する仏性が開かれ、成仏の輝きを増すのであります(中略)このことを銘記(めいき)され、講中一結・異体同心して、いよいよ敢然(かんぜん)として下種折伏していくことが肝要であります。そのためには、全員が、「異体(いたい)同心(どうしん)なれば万事を成ず」(御書一三八九㌻)との御金言を拝信し、講中が一致団結して折伏を行じ、もって妙法広布へ向けて逞しく前進していくことが大事であります。」(大日蓮・令和八年二月号)このように御指南なされ、異体同心して折伏していく 大事を御指南なされました。

 今月は宗旨建立の月であり、折伏強化月間です。『開目抄』「強盛の菩提(ぼだい)心(しん)ををこして退転せじと願じぬ」(御書五三九㌻)とあります。これは、宗旨建立にあたり、あらゆる障魔が競っても、けっして怯まず退かず、死身弘法に生涯を懸けていくことを誓われたお言葉です。私たちは、こと折伏においては「一歩も退かない、妥協しない」と覚悟し、今月は必ず一人が一人以上の折伏を成就すると固く心に決めて精進し、支部の誓願達成に向け、皆で力強く歩みを進めてまいりましょう。