令和7年度 御会式布教講演

 本日は、宗祖日蓮大聖人御会式奉修、誠におめでとうございます。皆様方には、本日の御会式を契機に、志新たに本年残す日々を、より有意義により尊い信行実践の日々をお送り頂き、折伏誓願目標達成へ向け、更にまた、明年に繋がるような弛まざる御精進を心よりお祈り申し上げます。
 さて、本年も例外なく気候不順・自然災害が全国各地を襲い、多くの方々が被災され、尊い人命が奪われ財物等を失い、避難生活を余儀なくされております。去る九月十一日には、妙眞寺があります目黒区緑が丘に1時間に一三四ミリという未曽有の記録的短時間豪雨が襲い、妙眞寺は多少の雨漏りで済みましたが、近隣のスーパーや飲食店がのきなみ浸水被害にあい、閉店に追い込まれる店舗や未だに再開できない状況が続いております。
 このように、今日起きている災害や事件事故は、常に私たちのすぐそばで起きており、そうした災禍に巻き込まれるか否かは正に紙一重であること、日頃の信心、我が身の徳分如何にかかっていることを決して忘れてはなりません。
 こうした最中私たちは、巳年である本年、その意義を弁えるべく蛇がその時々に脱皮し新たな姿を現すように、反省のない人生は成長し正しく前進することはできないと心得、残す二ヶ月余りの日々をいかに過ごべきであるか、今年やり残したことはないか、自身を省みて変えなければならないことはないか、年頭に誓った祈りや願いが成就できているかどうかを再確認して頂きたいと存じます。
 世の中の大凡の人は、平穏無事なる日々にあぐらをかき、自ら正法を求めることもなく、何か自分にとって不都合なことが起きたりつまらないこと、嫌なことが起きたら人のせいにしたり、逆に良いこと嬉しいことがあれば自分を過大評価したり慢心を起こす姿はないでしょうか。特に不幸の果報を迎えた時、何の因縁によってそのような結果を迎えたのかも解らず、その打開の道も知らず、途方に暮れるばかりであることは世の常であります。
 ましてや、自身の寿命が尽きた時成仏得道を無事果たせるか否かも考えずに、ただ根拠無き自信や油断により、福徳を失い罪障を積み累ねる日々を送れば、当然その科によって三悪道四悪趣の境界に没落し、また世間の垢に染まりその渦中に巻き込まれて、自ら不幸な人生を招いてしまうことを、私たちは慈悲行の極みたる折伏弘教をもって、世の人々に訴えていくべきことが私たちの使命であり責務であります。そして、あらゆる方々をこの法に帰依せしめ、幸せにして行くごとに、自らの不幸の因縁を一つ一つ消し去って頂くことができると肝に銘じて頂きたく存じます。
 大聖人様は『松野殿御返事』に、「魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は多くさけども菓になるは少なし。人も又此くの如し。菩提心を発こす人は多けれども退せずして実の道に入る者は少なし。都て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり」と仰せになられております。
 要するに、人として生を受け値い難き正法に帰依したとしても、最後臨終を迎えるまでまことの信心を貫き遂げる人の少なさを訓誡なされております。実際、創価学会や正信会、顕正会の前身たる妙信講といった謗法団体の派生と破門をはじめ、個々においても、折角入信したにもかかわらず、世間の悪縁や自身の三毒煩悩に屈してしまい、途中で退転してしまったり信心が疎かになってしまい、本来臨終に至るまで一生成仏の大果報を求め続けるべきところ、途中で頓挫し最終的に悪道に陥ってしまう方々も決して少なくありません。
 更に、法統相続が確立されておらず、生前は真剣に仏道を行じていたところ、いざ臨終を迎えた後、邪宗謗法にて葬儀を執行されてしまう方もいれば、これは実際昨年の話でありますが、とある未入信のご婦人の父親が亡くなられ、故人の生前における日蓮正宗の信心を慮って、菩提寺がわからない為縁あってか妙眞寺を探し出し、葬儀を願い出られ、通夜・葬儀・初七日忌法要を無事私が導師を勤めさせて頂いたという事もあります。
 よって、御自身はもとより、一家和楽の信心にて異体同心一結団結して、大聖人様が『上野殿御返事』に、「抑今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」とのように、皆様の信心も法統相続も、その流れを絶やすことがないよう、末代に至るまでこの正法を子孫へと継承し、切磋琢磨して信行に励まれて頂きたいと存じます。
 今月の妙教にも紹介されておりますが、私が住職として御奉公させて頂いている妙眞寺は、後に妙眞寺初代住職となる、私の祖父・平山廣生師が一宇建立を志し、師匠である妙光寺第二代御住職・大慈院日仁贈上人を開基として、昭和八年十二月八日に「日蓮正宗信行閣」として開堂し、昭和二十二年十二月十一日には、第六十四世日昇上人の御慈悲により「本地山妙眞寺」と寺号公称し、その翌年の昭和二十三年十月十八日、法華講妙眞寺支部が結成されました。
 とにかく初代住職は、私財をはじめ、売れるものは全て売り払い、境内の荘厳に当て、南無妙法蓮華経の坊主と詈られながらも、戦時国家であった我が国の世情を鑑み、城南広布の為に、そして日本の平和安穏の為に、筆舌に尽くしがたい苦労をものともせず、今日の妙眞寺の礎を築いてこられました。
 そしてその頃、妙眞寺の厚隆発展に御尽力頂いた方の中に、法華講講頭や総代を務められた北原鐡雄氏がおります。この方は、かの有名な歌人・北原白秋氏の実弟であり、北原家はもともと九州・柳川の地で浄土宗専念寺を菩提寺としておりましたが、度重なる不幸が続き、その後黒住教や金光教といった新興宗教に入信しておりましたところ、品川・妙光寺御信徒の西尾喜三郎氏の教化を受け、昭和九年三月に鐡雄氏夫妻と、父・長太郎氏、母・シゲ氏や、実弟の義雄氏夫妻が入信されました。
 この時、父・長太郎氏は高齢で両眼も失明状態でありました。しかし、朝夕の勤行と壱万遍の唱題を毎日欠かさず続け、同年夏には総本山大石寺に登山参詣し御開扉を受けられました。こうした熱烈なる信仰の結果、長太郎氏の視力は奇跡的に回復し、その敬虔なる信仰体験に心打たれた白秋氏も入信され、翌年の昭和十年正月二日に白秋氏が、翌三日に北原家御一同が総本山に登山参詣され、四日の御開扉に臨まれました。
 北原白秋氏は「信心」と題する歌を詠まれており、その内容を要約して申し上げますと、「信心強盛な父親は、朝起きて日の光を感じることができずとも、口を漱いでから朝五千遍、午後三千遍、夕方お風呂に入り灯明を点けて二千遍、合計一万遍のお題目を、欠かすことなく唱え続け、その厳然たる信心は、国のため、先祖のため、子供のため、孫のためであり、子である自分は、その親心に感涙抑えがたいものである」と綴られております。
 常日頃から妙眞寺法華講衆は、こうした北原氏を初めとする偉大な先輩方の信心を継承し、特に北原長太郎氏が光を失ってしまった眼を開かしめるべく、毎日一万遍のお題目、時間にして毎日五時間以上の唱題を、日々怠ることなく唱え続けられた信心を鑑として、折伏に、所願成就に、諸難困難の打開へと、何事も決して諦めることなく、一つの結果が出るまでお題目を唱え続けて行くことの大切さを噛み締めて精進しております。
 ここで少々話は変わりますが、この度明年三月十五日に総本山大石寺において開催される第六十二回法華講連合会総会において、全国各地方部鼓笛隊の中学生の各隊員によって鼓笛隊選抜隊が結成され、総会内における『広布の青嵐』の合唱の伴奏演奏をさせて頂くことになりました。
 毎年夏に総本山で行われてきた全国鼓笛隊コンクールもコロナ禍によって、今年卒隊を迎えた中学三年生が小学三年生の年に参加した令和元年を最後に、六年間中止を余儀なくされてきました。しかし、形は違えど本門戒壇の大御本尊様在す総本山において、御法主日如上人猊下の御前で演奏させて頂く、妙音を御供養させて頂く貴重な機会を設けて頂き、誠に有り難く思うところであります。
 東京第二地方部各支部から、今日まで非常に多くの鼓笛隊員が輩出され、卒隊後も後進の育成に寄与している方々もおられると存じます。そして、コロナ禍であっても、たとえコンクールが開催されない中でも、その活動を休止することなく続けてきた鼓笛隊員やスタッフの皆さんの尊い姿があったからこそ、今回地方部鼓笛隊より総勢二十一名に及ぶ中学生がこうした機会に恵まれ参加させて頂くという結果となり、実に感慨深いものであると共に、いかに歴史と伝統を後世にまで絶えることなく継承していくことが大事なことであるかを改めて感じるものであります。
 故に、日蓮正宗七百五十年の歴史は尚更であります。宗祖日蓮大聖人様が第二祖日興上人様に御相承された御一期の御化導とその御教えを寸分の濁りも誤りもなく、令和の今日まで時の御法主上人に受け継がれている歴史と伝統を、今日の創価学会や顕正会、正信会は安易に捨て去ってしまったことにより、むしろ大聖人様とは縁もゆかりもない、立正佼成会や霊友会と同様、単なる新興宗教に成り下がってしまったのであります。
 こうした姿を拝した時、私たちはいま、正しく日蓮大聖人様の教えを行ずることができることがいかに有り難く尊いことであるか、御歴代御法主上人や御先師方の御指南や御指導を拝して、より深く教学を学び化儀を学び歴史を学ぶことができることに、御報恩の誠を尽くしていかなければならないと拝するものであります。
 さて、御先師日顯上人は「すべての存在が常に幸福で安楽でいられることを願いつつ、より強く、より正しい命の実現に向かって進んでいくところに、人間として生まれた本当の意義が存すると思うのであります(中略)自分はどのような意味からこの世に生まれ、どのような意義において自分の使命があるのかということを自覚すること、そしてその自覚の上から、さらにその使命をしっかりと遂行していくことが大切であります」と御指南されております。
 この御指南を拝した時、いかに私たち自身が世間の謗法の人々と同じような日々を送ることがないように、身心共に何か痛い思いをして後悔する前に自身を戒め不信心な姿を改め、唱題一つとっても唱題が唱題で終わらぬよう、広布への志を立てて進んで信行の実践に励んで行かなければならないと感じるものであります。例えば、一年に一回でも多く総本山へ登山参詣し、一ヶ月に一日でも多く寺院に参詣し、真心を込めて御本尊様に御供養をお供えし、先祖供養を心の及ぶまで修すること、そして一人でも多くの方に下種血縁せしめて折伏成就に奔走していくことを、皆さん一人ひとりが常に銘記され、実践して行くことが肝要であります。
 特に日頃の寺院参詣について、日々世間の垢にまみれ、三毒煩悩の悪風吹きすさぶなかで、自然とそうした毒気を身に付けてしまう私たちは、常に我が身心を浄化矯正する為にこそ、日頃の寺院参詣が必要不可欠であります。どうか、寺院行事に参加するだけではなく、日頃から進んでお寺に参詣して、朝夕の勤行に参加したり、唱題を行じて福徳を増進して行こうと心掛けて頂きたいと思います。
 そして、人として恥ずべき姿がないように、謙虚実直にして周囲の方々からの信頼たり得る所作振舞、発言行動を心掛け、信行実践の日々を送るところにこそ、真の幸せたる御本尊様から賜る法悦に浴し、その悦びを一人でも多くの方々と分かち合うことができるよう、自行化他にわたる行業を修して行くことが大事大切なことであります。
 大聖人様は、『日女御前御返事』に、「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす」と仰せになられております。要するに、日々の信行の実践において最も大切なことは、御本尊様を寸分たりとも疑うことなく、どこまでも信じ抜いていくということになります。当然、日常生活の中で様々な出来事があると思いますが、その一つ一つが私たちの宿世の因縁であり深い意義があり、特に苦しい時辛い時こそ御本尊様にお題目を唱え尽くして行くことが肝要であります。時には、信心をしても状況が一向に良くならない、なかなか病魔を克服できない、折伏が成就できないと思うことがあるかもしれませんが、大事なことはそこをどう打開して行くか、自分には、いったい何が足りないのかを深く見極めていくかであります。
 そして、自分自身、本当に大聖人様が仰せのような信行に励んでいるかどうか。特に大聖人様は『御義口伝』に、「七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり。又云はく、頭上の七穴なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは有七宝の行者なり」と仰せになられ、信仰して行く上で心に七つの宝を具えるべく、「正法を素直に聞き、深く信じ、正法を護る心を起こし、謗法の心や誤った心を戒め、お題目を唱えて心を安定させ、信心に励む心を起こし、あらゆるものへの執着を捨て、常に自分を省みて正しい心根を持ち続けることの大切さ」を築き挙げ、また「頭上の七穴」、つまり目・耳・口・鼻の七つの穴から日々入り込んでくる様々な情報を、適切に正しく判断できるようになることの大事を説かれています。
 更に皆さんが一つの結果を出す為の指針として、毎月発行されている大白法や妙教等に掲載されている体験発表を読みつつ、例えば折伏を成就する為にはどのようなことに取り組むべきか、病魔や経済苦等の諸難困難をどのように乗り越えたかを学び取り、自身の信行に当てはめて頂くことも大事なことであると思います。そして、我意我見に執われた信心にならないよう、自分勝手な信心の姿にならないように、大聖人様の御教示を胸に、時の御法主上人猊下の御指南を拝して、油断怠りなき信心修行に励んで頂きたく存じます。
 以上色々と申し上げましたが、要は皆さん一人ひとりが、それぞれの立場で如何に広布へ尽力することができるか、菩提寺の護持興隆発展に寄与することができるかを心得、日蓮正宗七百五十年の歴史と伝統を護り、大聖人様御在世当時の御信徒方、日蓮正宗史にその名を刻む檀越方の信心を仰ぎ奉り、名ばかりの信心、形ばかりの折伏にならないよう銘記して頂きたいと存じます。どうか本日御参集の皆様には、混沌とする我が国の世情を憂慮し、自身の現状に満足することなく、飽くなき求道の一念を持って限りなく境涯を開き、憂国の志士としてその勤めを果たすべく、決意新たに御精進の誠を尽くして頂きたく存じます。その為にも、大聖人様の御金言の一文一句、御法主上人猊下の御指南を心肝に染め、世間の動きに一喜一憂して、その流れに振り回されることがないよう、いよいよ広布大願に向かって信行倍増福徳増進され、『活動充実の年』を悔いなく過ごされ、無事故無障礙にて無事本年の大晦日をお迎えすることができますよう心より御祈り申し上げ、本日の話とさせて頂きます。