御報恩御講(令和6年6月)
令和六年六月度 御報恩御講
『上野殿御返事』 建治四年二月二十五日 五十七歳
抑(そもそも)今(いま)の時(とき)、法華経(ほけきょう)を信(しん)ずる人(ひと)あり。或は(あるい)火(ひ)のごとく信(しん)ずる人(ひと)もあり。或は(あるい)水(みず)のごとく信(しん)ずる人(ひと)もあり。聴聞す(ちょうもん)る時(とき)はも(燃)へた(立)つばかりをも(思)へども、とを(遠)ざかりぬればす(捨)つる心あ(こころ)り。水(みず)のごとくと申(もう)すはいつもたい(退)せず信(しん)ずるなり。此(これ)はいかなる時(とき)もつね(常)はたいせずと(訪)わせ給(たま)へば、水(みず)のごとく信(しん)ぜさせ給(たま)へるか。たうと(尊)したうとし。(御書一二〇六㌻一四行目~一二〇七㌻一行目)
今月拝読の御書は、『上野殿御返事』であります。
本抄は、建治四年(一二七八)二月二十五日、大聖人様御歳五十七歳の時に身延において認められた御手紙です。与えられたのは上野の地頭・南条時光殿です。本抄は別名『蹲鴟(いものかしら)御消息』とも称されています。御真蹟は現存しませんが、第二祖日興上人・第四世日道上人の写本が総本山大石寺に厳護(げんご)されています。
本抄お認(したた)めの前年、建治三年は、大変な旱魃(かんばつ)で、雨がほとんど降らず、農作物が収穫できない年でした。そのため、人々は食べ物が少なく飢餓(きが)に苦しんだのです。そのような食物の大変乏しい中で、南条時光殿から大聖人様の元に蹲鴟(いものかしら)(里芋のこと)・串柿(くしがき)(干し柿)などの食べ物が御供養として届けられたのです。大聖人様は早速筆を取られて、御礼の御手紙を書かれたのが本抄であります。
また、当時の南条家は、飢饉(ききん)もさることながら、富士郡(ふじぐん)熱原郷(あつはらごう)(現在の静岡県富士市)において日興上人陣頭指揮による折伏弘教が進み、信徒が急激に増加していました。富士郡は、北条得(とく)宗家(そうけ)の直轄地なんです。すると、それを快く思わない滝泉寺(りゅうせんじ)院主代・行(ぎょう)智(ち)等、謗法の徒による迫害も激しさを増していったのです。南条家もその影響を受け、より生活が困窮する最中での御供養だったのです。
大聖人様は本抄のなかで、インドの阿育王の前世である 徳勝童子の故事を引かれ、時光殿の御供養の功徳が絶大であることを示されました。そして、どのような状況であっても変わらない時光殿の信心姿勢は、たとえば水が絶え間なく 流れる不退の信心姿勢だと賛嘆なされています。
本文を拝しますと、「抑(そもそも)今(いま)の時(とき)、法華経(ほけきょう)を信(しん)ずる人(ひと)あり。或(あるい)は火(ひ)のごとく信(しん)ずる人(ひと)もあり。或(あるい)は水のごとく信(しん)ずる人(ひと)もあり」(通釈)「そもそも今の時、法華経を信ずる人がいます。あるいは 火のように信ずる人もいれば、あるいは水のように信ずる人もいます。」
「聴聞(ちょうもん)する時はも(燃)へた(立)つばかりをも(思)へども、とを(遠)ざかりぬればす(捨)つる心(こころ)あり。」(通釈)「(火のように信ずる人は)仏法を聞いた時には、火が点いたように感激し、盛んに信心に励みますが、時が経つにつれて火が消えたように信心しなくなり、信心を止める心を起こしてしまいます。」
まさに「熱しやすく冷めやすい」信心です。
「水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」(通釈)「水のように信心するというのは、いつも退せず、変わらず信心することです。」
水のような信心とは、川の流れが変わることなく滔々(とうとう)と 流れていくことを譬えて、水のような信心といわれているのです。
「此(これ)はいかなる時(とき)もつね(常)はたいせずと(訪)わせ給(たま)へば、水(みず)のごとく信(しん)ぜさせ給(たま)へるか。たうと(尊)したうとし。」(通釈)「このことは、(時光殿は)いかなる時も常に退することなく(日蓮のもとを)訪ねられるので、水のように信じておられるのでありましょう。まことに尊いことであります。」
このように大聖人様は仰せになり、南条時光殿の信心を 賛嘆され、益々信心に励むよう御教示なされています。
それでは、今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。
一つ目は「火の信心、水の信心」ということです。
大聖人様は今回の御聖訓において、法華経を信仰する人の中には「火のごとく信ずる人」と「水のごとく信ずる人」がいることを御教示されています。ここで言う、火のごとき信心とは、仏法を聴聞した時は燃え立つほどの信仰心を起こしても、時が経つと仏法を捨てる心を起こしてしまうことです。例えば、入信後しばらくは勤行・唱題、折伏を熱心に行っても、いつの間にか信心の歩みを止め、やがて退転してしまうことがあります。このような信心では自他の成仏は叶いません。一方、水のごとき信心とは、御聖訓の御文に「水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」と仰せられ、『御講聞書(おんこうききがき)』には「水は昼夜不退に流るゝなり。少しもやむ事なし」(御書 一八五六㌻)と示されるように、滔々(とうとう)と流れる川のように、少しも止まることのない不退転の信心のことです。常に正法を求めて大聖人様のもとへ参詣し、志をもって 御供養する時光殿の姿勢は、まさに水のごとき信心と言えます。
大聖人様は『聖人御難事』に「月々日々につよ(強)り給へ。少しもたゆ(弛)む心あらば魔たよりをうべし。」(御書一三九七㌻)と仰せです。私たちも、大聖人様からお褒めいただけるよう、御本尊様を固く信じ、怠りなく自行化他の信心を積み重ねていくことが大切です。
二つ目は「命を躍動させて折伏に挑戦しよう」ということです。
「水五訓」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 戦国時代、豊臣秀吉の知恵袋といわれた黒田官兵衛(黒田如水)の教えで、水というものを通して、人間としての生き方を教えてくれる言葉です。
一.自ら活動して他を動かしむるは水なり。
「率先垂範せよ」ということです。水は自らが動くことで周りのものを動かし、運んでいきます。人間も、自らは何もしないままで、「ああしろ、こうしろ」と言っても、誰も動くはずがありません。自ら模範を示すことによって周囲を牽引(けんいん)する人になってください。
二.常に己の進路を求めて止まざるは水なり。
「自ら考えて道を拓くことを心がけよ」ということです。水はどんな環境の中でもその流れを止めることなく動いていきます。何か失敗をした時に、周りのせいにしていませんか?自ら考え、努力することで道を切り拓いていく人になりましょう。
三.障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり。
「あきらめることからはなにも生まれない」ということです。順調な水の流れもダムのような壁によって、流れをさえぎられることもあります。そんな時は、その力を満々と内に蓄えます。蓄積された力があるからこそ、解放された時に巨大なエネルギーを発揮できるからです。困難に直面して、自分の可能性をあきらめてしまってはいけません。苦しい時もじっと耐えて努力を続けていけば、大きな力となってかえってきます。
四.自ら潔(いさぎよ)うして他の汚れを洗い清濁(せいだく)併(あわ)せ容(い)るるは水なり。
「人を追いやることをせずに共に頑張ろう」ということです。学校や社会にはさまざまな価値観を持つ人が集まっています。感覚、リズム、方法、価値観の合わない人を排除するのではなく、「長所をみつけてそれを生かす」ことをまず考えましょう。川は、脇から濁った水が注がれてきても、「入ってくるな」とか「出ていけ」とは言いません。さまざまな水を一つにまとめ、大きな目的に向かって集約してゆくような、そんな度量を持つ人になって行きましょう。
五.洋々として大洋を充(み)たし発(はっ)しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰(あられ)と化ししては玲瓏(れいろう)たる鏡となりたえるも其(その)性を失はざるは水なり。
「常に自然の理にそって物事を考えよ」ということです。水は温度の変化、器の形によって次々と自らの形を変えます。しかし、その本質は一切変化することがありません。我々人間もまた、変化に対応するのに常に柔軟でなければいけません。与えられた環境の中でいかにして最大の努力を行えるかが大切です。これから先、色んな困難にぶつかり、迷うことや立ち止まることがあるでしょう。そのときにはこの「水五訓」を思い出しましょう。
また、「老子」は、「上善は水の如し」(老子八章『中国古典名言辞典』三一九㌻)と説いています。お酒の銘柄にも有りますね。上善とは、最も理想的な生き方を指す言葉です。一、水は極めて柔軟である。どんな形の器にも逆らわず、器なりに形を変えていく。二、水は誠に謙虚である。自分を主張すること無く、自然に低いところに流れていく。水は静かな流れの中にも、 巨大なエネルギーを具えている。柔軟さ、謙虚さ、秘めたるエネルギー、この三つを身につければ、人間も理想の生き方ができるのだと説いています。 老子の言う水とは、「河」と理解して良いわけですが、日本人と中国人とはそのイメージに違いがあると思います。日本人は、川と言えば、さらさらと流れるせせらぎを思い浮かべると思いますが、中国人は大河を思い浮かべるそうです。その典型が、長江(揚子江)と黄河であります。大河は、遠くから眺めると静かな流れに見えます。ところが近くで見ると、流れが渦を巻き、ものすごいエネルギーを感じさせます。水の流れには、大きく二種類の特徴を見出すことができます。一つには、本抄にお示しのように、絶え間なく流れ続ける、ということです。そしてもう一つは、急流ともなれば崖を削り、硬い岩石をも打ち砕くほどの強さを生み出す、ということです。
私たちは、重要な場面や頑張りどころ、とりわけ折伏に当たっては、積極果敢な行動を取るべきです。大聖人様が「力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよ」(聖愚問答抄・御書四〇三㌻)と仰せの折伏の姿であります。
それについて総本山第五十九世・日亨上人は次のように御指南なされております。「欲を言えば火の信仰を水の信心に続かせたい、即ち熱湯の信仰と言うべきであろうか」(『聖訓四題』二十八㌻) さらに総本山第六十七世・日顕上人は次のように御指南なされています。「火の信心という意味の信心も大切である、と思います。つまり、水は相対的に静かでありますが、火はボーボーと燃えますから、命が躍動しておるということがいえるわけでありまして、善を勧める場合、あるいは悪を正していく場合には、火のような心をもつことも大切であるということであります」と仰せになっています。
水というと冷たいイメージがありますが、折伏前進の年の信行は熱湯や火のように熱のある信行が求められます。講中で〝今こそ折伏の時〟〝本年こそ誓願目標を達成しよう〟などの声を掛け合い、折伏に動こうとしているときに、〝折伏は機会を見て、私はいつも通り〟との姿勢では、異体同心の和を築くことができません。私たちは、勤行唱題を欠かさない、絶対に謗法を犯さない、という常に変わらない信行を心掛けて自らを磨き、しかるべきときには命を躍動させ、岩をも砕く情熱をもって折伏行に挑戦してまいりましょう。
最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。「唱題こそ、一切の仏、一切の法、一切の菩薩(ぼさつ)をはじめ九法界の衆生など、一切衆生の心中の仏性を「唯(ただ)一音(いちおん)」によって喚(よ)び顕(あらわ)す、計り知れない功徳を存しており、その仏性(ぶっしょう)喚起(かんき)の功徳はまことに大きく無量(むりょう)無辺(むへん)であります。よって、この広大無辺なる功徳と歓喜をもって折伏を行ずれば、折伏に当たって必要な あらゆる力が具わり、いかなる困難も障害も乗り越え、誓願を達成することができるのであります。(大日蓮・令和六年五月号)このように御指南なされ、無量無辺の功徳をもつ唱題行を実践して折伏をする大事を御指南されました。私たちは、本年後半に向けて、御本尊様に対する絶対の信仰心を基に、自行の実践として真剣に勤行唱題を重ね、講習会登山に積極的に参加して教学研鑚にも大いに努めましょう。そして化他の実践として〝私たちの手で広宣流布を〟との情熱をもって折伏戦を展開していくこと。これこそ、私達が進むべき成仏への直道と捉え、共に力強く前進してまいりましょう。
私たちは、本年後半に向けて、御本尊様に対する絶対の信仰心を基に、自行の実践として真剣に勤行唱題を重ね、講習会登山に積極的に参加して教学研鑚にも大いに努めましょう。そして化他の実践として〝私たちの手で広宣流布を〟との情熱をもって折伏戦を展開していくこと。これこそ、私達が進むべき成仏への直道と捉え、共に力強く前進してまいりましょう。