御報恩御講(令和5年6月)

 令和五年六月度 御報恩御講

 『教行証御書』(きょうぎょうしょうごしょ)      建治三年三月二十一日   五十六歳
 今(いま)末法(まっぽう)に入(い)っては教の(きょう)み有(あ)って行(ぎょう)証(しょう)無(な)く在(ざい)世(せ)結縁(けちえん)の者(もの)一人(いちにん)も無(な)し。権実(ごんじつ)の二機(にき)悉(ことごと)く失(う)せり。此(こ)の時(とき)は濁悪た(じょくあく)る当世(とうせい)の逆謗の(ぎゃくぼう)二(に)人(にん)に、初(はじ)めて本門(ほんもん)の肝心(かんじん)寿量品(じゅりょうほん)の南無妙法蓮華経を以(もっ)て下(げ)種(しゅ)と為(な)す。「是(こ)の好(よ)き良薬(ろうやく)を今(いま)留(とど)めて此(ここ)に在(お)く。汝(なんじ)取(と)って服(ふく)すべし。差(い)えじと憂(うれ)ふること勿(なか)れ」とは是(これ)なり。(御書一一〇三㌻一三行目~一一〇四㌻三行目)

【通釈】今、末法の時代に入ってからは(釈尊の)教法のみがあって修行と証果はなく、釈尊在世に結縁の者は一人もいない。権教や実教で成仏する二つの機類は悉くいなくなった。この(末法の)時は濁悪である当世の五逆罪と謗法の二人に、初めて本門の肝心である寿量品の南無妙法蓮華経をもって下種するのである。(法華経に)「是の好き良薬を、今留めて此に在く。汝取って服すべし。差えじと憂うること勿れ」とあるのは、このことである。

□住職より

 本年も上半期最後の月となり、コロナ禍による生活様式も徐々に元に戻りつつあります。しかしながら、未だ終熄には至らず更に本年も寒暖の差が激しい異常気象や、大地震や台風の被害などが顕著となっております。こうした時節を鑑み、今成すべき信行の実践において、心掛けるべき大事の一つを拝してみます。大聖人様は『観心本尊抄』に、「未だ六波羅蜜(ろくはらみつ)を修行する事を得ずと雖(いえど)も六波羅蜜自然(じねん)に在前す」とあります。つまり、私たちが妙法を受持信行するところ、六波羅密の修行を成就することができると言うことであります。
 この六波羅密とは仏教に説かれる菩薩衆の修行であり、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しようじん)・禅定(ぜんじよう)・智慧(ちえ)の六つの修行を言います。「布施」とは財物を分け与える財施、法を説いて聞かせる法施、恐怖を取り除き安心を与える無畏施(むいせ)の三つを言い、「持戒」とは、仏教に説かれる一切の戒律を持つこと、「忍辱」とは、あらゆる迫害や災難、困難を耐え忍ぶこと、「精進」とは、他の五つの修行に精進すること、「禅定」とは、自らの心を乱さず鎮め深く思惟し真実を見極めること、「智慧」とは、一切の邪見を打ち払い、真実を見極める智慧を得ることを言います。そして、私たちが御本尊様を信じ行じていくところに、これら六つの修行の功徳を成就することができるのであります。このなかでも、「布施」における「無畏施」についてを詳しく拝して見たいと思います。
 無畏施は更に七つに分けられ、財物やあれこれと手を尽くす必要がないことから、「無財の七施」とも言われます。その七つとは、一つに「眼施(がんせ)」、人とと話す時は優しい眼差しで、相手の目を見て話し接することを言います。「目は口ほどにものを言う」とも言いますので、自分自身の心根が自ずと目つきに顕われることから、常に相手を思いやる尊い慈悲の心を持って、相手に接することが肝要であります。二つに「和顔施(わがんせ)」、私たちの心根は顔つきにも如実に顕われます。『方便品』の十如是の経文にも「如是相」とありますように、私たちの境界そのものが、目つき顔つきに必ず顕われ、決して隠すことはできません。ですから、常に菩提心、慈悲の一念心を忘れることなく、自然と柔和な笑顔、功徳溢れんばかりの尊い相であることを実現できるよう心掛けたいものです。三つには、「言辞施(ごんじせ)」、言葉の一つ一つに配慮し、また言葉とは「言霊(ことだま)」とも言われますように、言葉には己の魂が込められ、自らの境界からその言葉が発せられます。その言葉がまた相手の心に響き届くわけでありますから、充分気をつけるべきであります。四つに「身施(しんせ)」、思いたったらすぐ行動に移すこと、特に目の前で困っている人がいたならば、積極的に手を差し伸べ動くことであります。五つに「心施(しんせ)」、我意我見に凝り固まった我執(がしゆう)を破し、妙法の信行によって心を磨いて浄化矯正し、その尊い慈悲の心を持って、あらゆる方々に接すること、この妙法の教えに帰依せしめる「心施」こそ、一番肝心なことであります。六つに「床座施(しようざせ)」、その座を譲ること、乗り物のみならず、あらゆる場面場所で、臨機応変して快く席を譲り、その場を和やかにすることであります。七つに「房舎施(ぼうじやせ)」、すなわち宿を提供することを意味します。令和の今日においては、宿泊場所の整備によりあまり必要性はありませんが、かつて宗門では御法主上人をはじめ、僧侶や御信徒が赴いた際には寺院や信徒宅に宿泊して頂きました。こうしたことを心得て頂くことも大事なことであります。
 以上の七つが「無畏施」、「無財の七施」を意味するのでありますが、これらは、たとえお金が無くても物が無くても学が無くても、相手に喜んで頂ける道があることを説いています。更に、私たちが真剣に仏道修行に精進して、御本尊様から賜る功徳には、六波羅密の果報が全て内含されているのでありますから、どうか、日々心穏やかにして清らかに、人としての所作振る舞い、発言行動が御本尊様からの御仏智に満ち溢れたものであり、尚かつ折伏に繋がるような尊いものであるように、縁する全ての方々に対し慈悲に充ち満ちた接し方であるよう、かくありたいものであります。そして、その方途が妙法唱題行にあることを拝し、より一層真剣な唱題行を修して頂きたいと念願いたします。