頭の良い僧侶と在家の妹(令和5年5月)
頭の良い僧侶と在家の妹
(道理と行動)
令和5年5月 若葉会御講
むかし、甲斐(かい)(現在の山梨県)の国に厳融房(げんゆうぼう)という頭の良い僧侶がいました。その秀才ぶりは、他の僧侶が集まって学問を教えてもらうほど有名でした。しかし、厳融房は短気で怒りっぽい性格の持ち主でした。例えば食事の際、弟子の修行僧が厳融房にお茶を出すにも、お湯がぬるくても熱くても怒り、持ってくるのが遅くても早くても腹を立てるので、その頃合を見ようとして障子(しようじ)の隙間(すきま)からのぞいてみると、「何を見ているんだ」と怒るので、弟子たちはいつもビクビクしていました。しかし、厳融房は勝れた僧侶なので弟子たちは我慢して仕(つか)えていました。
この厳融房には一人の妹がいましたが、その妹は最愛の息子が亡くなりひどく悲しんでいました。近所の人が心配になり、妹の家を訪ねてなぐさめていましたが、兄の厳融房は一度も訪ねたことがありませんでした。妹が「私がこんなに嘆き悲しんでいるのに、僧侶である兄は一度も私のところへ見舞いに来て、話も聞いてくれない。よその人さえ心配して訪ねて来てくれるのに、本当に薄情な兄上だわ」と口にしたことを、弟子の修行僧が耳にしたので、「妹さんが悲しみ恨んでいらっしゃいますよ」と、師匠の厳融房に告げると、「まったくどうしようもない奴だ。法師の妹であるならば、普通の在家の人と同じようではいけないのだ。生老病死(しようろうびようし)の四苦を避けられない、この世の中に住んでいながら、愛別離苦(あいべつりく)の悲しみに嘆き悲しんでばかりいたらダメなのだ。まったく情けない。妹のところへ行って教えてやろう」と言い、さっそく妹の家に出かけました。
厳融房は、「お前は息子が亡くなったことで、私が見舞いにも来ないと言って恨んでいるというのは本当か」と妹に尋ねると、妹は「そうですよ。だって、どうしようもないくらい悲しく寂しいのですから」と答えました。すると厳融房は、「法師の妹でありながら仏法の道理を理解せず、いつまでも嘆いてばかりいるとは、なんとも情けないものだ。命あるものは必ず臨終があり、会えば必ず別れがあるのは決まっていることで、この世は老少不定(ろうしようふじよう)なのだ。だから、親子どちらが先に死ぬにせよ、母と子の別れというものは、この世では当然あることなのだ。今更いつまでも嘆き悲しむことではない。まったく情けないヤツだ」と叱りつけました。妹はこの言葉に対し、「はい、理屈ではもちろん分かっていますよ。でも、我が身を分けて産まれた子供が、私よりも先に亡くなったのですよ。理屈や道理では考えられません。ただただ悲しいのです」と言って泣くので、厳融房は、「道理を知りながら、それでもなお、嘆き悲しんでいるとは何と愚かなことよ」と、ますます声を荒げて妹を責め立てました。
しばらくして妹は涙をぬぐって、「そもそも、仏法の上において、人が腹を立てて怒ることはかまわないことなのですか。それとも罪になるのですか」と、厳融房に尋ねました。厳融房は、「それは、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒といって、主な煩悩の中の一つであるから、疑うまでもなく、瞋(いか)りは大変恐ろしい罪である」と答えました。すると妹は、「それなら何故(なぜ)、兄上はそれだけよく仏法の道理を知っておられるのに、そんなに短気で怒りっぽいのですか。言っていることと、やっていることが違うのではないですか」と言うと、厳融房は、ぐっと返事につまり、言うべきことがみつからず、「そんな屁理屈(へりくつ)を言うくらいなら、勝手にしなさい。もう知ったことか」と言って、更に腹を立てて出て行ってしまいました。
物事の道理、仏法の道理を知ることと、知っている通りに行動するのは別のことで、「物事の道理を知っていても、それを正しく実行することが難しい」ということです。自分の過ちに気がついたなら、それを素直に改めていくことも大切なことです。つまり、道理をわきまえて、道理に従っていける人を賢人(けんじん)と言うのです。しかし、いくら様々な物事を知る博学で偉い人であっても、自分に少しでも過ちがあったならばそれを改めなければ、その知識も活(い)かされませんし、かえって知らない人よりも人として劣ってしまいます。
厳融房は、このことをわきまえることができず、ただ仏法の教えの知識だけを学び、人を思いやり助けるという、慈悲の心がない故に行動に移せなかったのです。ですから、在家の身である妹に言い負かされてしまったのです。これは、厳融房が修行の志を立てて、あらゆる仏法の道理や知識を学んでも、人を思いやる気持ちに欠け、自分の過ちを反省せず他人の過ちばかりを見ていたから、自分の過ちと矛盾(むじゆん)に気付くことができなかったのです。仏法の道理を学ぶことは大切なことですが、その時その時の状況によって仏法の道理に照らし合わせて、今何が必要であるかを考えて、優しさと思いやりの心を持って人に接していくことが一番大切なことなのです。
また、日蓮大聖人さまは、「修羅道(しゆらどう)とは、止観の一に云はく『若(も)し其(そ)の心念々(ねんねん)に常に彼に勝(まさ)らんことを欲(ほつ)し、耐(た)へざれば人を下し他(た)を軽(かろ)しめ己(おのれ)を珍(たつと)ぶこと鵄(とび)の高く飛びて視下(みお)ろすが如(ごと)し。而(しか)も外には仁(じん)・義(ぎ)・礼(れい)・智(ち)・信(しん)を揚(あ)げて下品(げぼん)の善心を起(お)こし阿修羅(あしゆら)の道(どう)を行ずるなり』」と仰せです。これは、「修羅界の心とは、中国の天台大姉が『摩訶(まか)止観(しかん)』に、『常に他人より優位に立つことをのぞみ、自分以外の人を見下し、自分が偉(えら)いとうぬぼれる心、慢心(まんしん)を起こしている心を言い、その姿はあたかもトンビが空高いところから下を見下ろすようなものです。しかも、普段は五常(ごじよう)という仁・義・礼・智・信といった人徳のあるような振る舞いをして、実際は本性を隠しているのが修羅界の命なのです』」という意味です。
皆さんは、こうした人を見下したり、バカにしたり、自分は他の人たちよりも優れているなどと思う人はいないと思います。しかし、世の中にはそうした人たちがいること、特にそういう大人の人たちが多いことに注意して下さい。私たちは大聖人さまの教えを学びながら、あらゆる人たちに優しさや思いやりの心を持って接することが大事ですし、仏教の教えでは厳しいことも説かれていて、その教えを実行していくことも大事なことです。そして、これから小学生は中学生、中学生は高校生、大学生や社会人となり、成人していくことになります。そのように成長していくなかで、色々な経験を積んだり学んだりしたとしても、決して途中で満足したりしないように、一つの目標を立てて、そのゴールにたどり着いたとしても、新しいゴールに向かって進み続けることができるように、常に向上心を持って有意義な毎日を送って下さい。