御報恩御講(令和5年3月)
令和五年三月度 御報恩御講
『諸経と(しょきょう)法華経(ほけきょう)と難(なん)易(い)の事(こと)』
弘安三年五月二十六日 五十九歳
弘法(こうぼう)・慈(じ)覚(かく)・智証(ちしょう)の御(おん)義(ぎ)を本(もと)としける程(ほど)に、此(こ)の義(ぎ)すでに日(に)本(ほん)国(ごく)に隠没(おんもつ)して四百(しひゃく)余(よ)年(ねん)なり。珠(たま)をもって石(いし)にかへ、栴檀(せんだん)を凡木(ぼんぼく)にうれり。仏法(ぶっぽう)やうやく顚倒(てんどう)しければ世(せ)間(けん)も又(また)濁乱(じょくらん)せり。仏法(ぶっぽう)は体(たい)のごとし、世(せ)間(けん)はかげのごとし。体(たい)曲(ま)がれば影(かげ)なゝめなり。幸ひ(さいわ)なるは我(わ)が一門(いちもん)、仏(ぶっ)意(ち)に随っ(したが)て自(じ)然(ねん)に薩(さ)般(ば)若(にゃ)海(かい)に流入(るにゅう)す。苦(くる)しきは世(せ)間(けん)の学者(がくしゃ)、随(ずい)他(た)意(い)を信(しん)じて苦(く)海(かい)に沈(しず)まん。(御書一四六九㌻八行目~一一行目)
【通釈】弘法・慈覚・智証の邪義を根本とするうちに、この義(法華経だけが随自意の正法であること)が日本に没して四百余年が経った。これは珠を石に替え、栴檀を凡木として売るようなものである。(このように)仏法が次第に逆さまになったことによって、世間も同じように濁り乱れてしまった。仏法は体であり、世間はその影のようなものである。体が曲がれば影は斜めとなる。幸いなのは日蓮の一門は、仏意に随って自然に仏の深い智慧に入る事が出来る。(それに比べて)苦しいのは世間の学者であり、随他意の権教を信じて苦悩に沈んでしまうのである。
【拝読のポイント】
〇破邪顕正の信心
釈尊一代五十年の説法には順序次第があり、そこには厳然たる勝劣が存します。はじめ四十二年間の説は、衆生の機根に随って説かれた(随他意)権りの教えであり、後八年の法華経は、仏の意に随って説かれた(随自意)真実の教えなのです。しかし、真言宗の弘法は「真言第一・華厳第二・法華第三」(曾谷殿御返事・御書一三八五)を主張し、法華経は大日経より三重も低い教えと下し、真言の教えこそが真実と述べています。このことを大聖人は、拝読の御文に「珠をもって石にかへ、栴檀を凡木にうれり」と誡められているのです。こうした邪義がはびこることにより、真実の教えである南無妙法蓮華経が覆い隠されてしまうのですから、私達はこのことを看過してはなりません。今こそ、破邪顕正の折伏に立ち上がるべきです。
〇仏法は体、世間は影
大聖人は、仏法の顚倒によって世間が混乱していくことを「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」と述べられ、仏法の正邪がそのまま社会の興廃を決する道理を教えられています。
事実、謗法の害毒により、コロナ禍をはじめ、戦争や災害等が現れて、世界中の人々が苦しんでいるのです。このような時、私達は幸いにも御本仏大聖人の仏法に縁することができ、しかも御聖誕八百年という大佳節を迎えることができました。まさに「幸ひなるは我が一門」であります。
大聖人は「日蓮生まれし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし。此の法華経の題目を弘めんと思ふばかりなり」(上野殿御返事・御書一三六一)と仰せの如く、衆生救済のため、正法広布・折伏弘教に終始された御一期でした。私達は大聖人の弟子・信徒として、この尊きお振る舞いを拝し、他の人々の苦しみを人ごととせず、一刻も早く救おうとの慈悲心を旺盛にすべきです。広布が一日遅れれば、人々の苦しみが一日長く続いてしまいます。本年「折伏躍動の年」、この年間方針に沿った信行を尽くすことこそ、時に適った最も肝要な仏道修行であり、一生成仏の直道なのです。
○日如上人御指南
一人ひとりが断固たる決意と破邪顕正の信念のもと、「誰人にても坐せ、諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音(こえ)も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」との御金言の侭に一天広布を目指し、講中一結・異体同心して勇猛果敢に大折伏戦を展開し、以って夫々が一生成仏を果たされますよう心から念じます。
(大日蓮・令和五年一月号)
□まとめ
いよいよ今月から「宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年慶祝記念総登山」が始まりました。この登山を真に意義あるものとするため、これまで入信に導いた同志はもちろんのこと、出来る限り早いうちに一人以上を折伏して、その新しい法華講の仲間とともに慶祝記念総登山に参加してまいりましょう。この実践こそが真の御報恩の姿であることを銘記し、全身全霊で精進してまいろうではありませんか。
□住職より
今月4日より、待望の宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年慶祝記念総登山が始まりましたが、未だコロナ禍の終熄も見えず、トルコでは前代未聞の大地震が起こり、国内でも強盗事件など、様々な事件が起きております。このような世情のなか、私たちはこうした事象を決して「対岸の火事」と思ってはいけません。少なくとも私たちは、いつの時もあらゆる事件と隣り合わせにおり、大善行の徳をもって、こうした人生の障礙とも言うべき事象から免れるよう、また大地震やあらゆる自然災害から命を守るべく、御本尊様からの御冥加や諸天善神の御加護を頂くことができるような信行の実践に励むことが肝要であります。
ましてや私たちは過去世の因縁宿習によって、あらゆる果報を受けることを覚知しているわけであります。故に、いかに今生現世の受けるべき果報をより尊く、より有り難き善報を受けることができるよう、悪報の原因、すなわち自らの罪障消滅宿業打開のために、信行の実践に励むことが大事であるかを考えた時、大聖人様は『新池御書』に、「れしきかな末法流布に生まれあへる我等、かなしきかな今度此の経を信ぜざる人々。抑人界に生を受くるもの誰か無常を免れん。さあらんに取っては何ぞ後世のつとめをいたさゞらんや」と仰せになられ、更に「一切衆生も亦復是くの如し。地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし」と仰せになられているように、限りある人生を人として生を受け、値い難き仏法に巡り値うことができたことに感謝し、後世の一生成仏と日々の幸福の源ともいえる功徳利益を積み累ねていくことが肝要であります。
時には、「何故毎日勤行しなければならないのだろう」、「何故唱題に励み、折伏をしなければならないのだろう」と思う方もいるかもしれません。しかし、世の中でも、一つの大事を成し遂げた偉人賢人は、そこに必ず「努力・忍耐・継続」を積み累ねて、筆舌に尽くしがたい苦労の末に一つの結果を成し遂げたのであり、尚更私たちの信心はそれ以上に、人生そのものをより良きものへと変えていくことができるのであります。
大事なことは、自分の祈りや願いが叶わない、物事が上手くいかないと思うことがあったならば、今一度御自身の信仰姿勢を省みて下さい。具体的には、無始以来の罪障消滅のため、年に1度でも多く総本山へ登山する志があるかどうか、日々自ずと我が身心を染めてしまう、三毒煩悩渦巻き五濁爛漫たる娑婆世界の垢を払い落とすよう、月に一度でも多く寺院に参詣する志があるかどうか、平穏無事な毎日の始まりと終わりを御本尊様と共に送るべく、朝夕の勤行を実践しているかどうか、何か物事を成就するために真剣な唱題行を実践しているかどうか、成就するまで努力精進を継続しているかどうか、そして不幸な人生、迷いの姿、縁ある人々をこの正法に帰依せしめるべく、率先して下種折伏を行っているかどうか、これら全てのことを万遍なく行っていれば、必ず御本尊様からの御仏智を頂き、御自身の豊かな日々の生活を整えることができると思いますが、そこに油断や怠りがあったならば、思うような結果をもたらすことはできません。よって、大聖人様が『富木殿御書』に、「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」と仰せのように、後に後悔すること無きよう、まずは自分自身の生活を省み、それこそ大きく境涯を変えたいならば、大病を患いその克服を願うならば、憂いなき日々を送りたいならば、それ相応の信行の実践がその鍵となります。
宗祖日蓮大聖人日蓮大聖人御聖誕八百年慶祝記念総登山、妙眞寺創立九十周年という大慶事を迎えた今、「好事魔多し」とも言われますように、様々な三障四魔などの障礙の用きが我が身を襲うこともあるかもしれませんが、決して臆すること無く怯むこと無く、皆様方にとって自らの人生の岐路に立たされていると拝し、大きく境涯を開く一年にして頂きたいと心より念願いたします。