慈しみ寄り添うことの大切さ
今、世間はコロナ禍によって濁乱の極みを見せておりますが、誰しもが令和の今、なぜ、こうした疫病の災禍(さいか)が全世界を襲っているのかと思っていることでしょう。しかし、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様は『上野殿御返事』に、「慈悲(じひ)なければ天も此の国をまぼらず、邪見(じゃけん)なれば三宝(さんぼう)にもすてられたり。又疫病もしばらくはやみてみえしかども、鬼神かへり入るかのゆへに、北国も東国も西国も南国も、一同にやみなげくよしきこへ候」と仰せになられております。
要するに世の中、慈悲の心なき邪(よこしま)な心、不正直な心を持つ邪見の人々の科(とが)によって、諸天善神も人々を守護することなく国を捨て去り、逆に悪鬼、邪鬼といった鬼神が国に入り込むことにより疫病の災禍が起こり、ましてや仏祖三宝尊(ぶつそさんぼうそん)様にも見捨てられ、人々がより苦しむ様相(ようそう)を御教示されております。
この『慈悲(じひ)』という言葉、深い慈しみの心を意味し、『抜苦与楽(ばっくよらく)』という意味でもあります。この世の中、人を慈(いつく)しみ寄り添い、身を粉(こ)にして世のため人のために尽くされる方が、どれだけいるでしょうか。大凡(おおよそ)、世間の人々は、自分自身の欲求満足を追い求めて無(む)為(い)に奔走(ほんそう)する姿、あらゆるものに執着し本来求むべきものを見失う姿、真の幸福がいかなるものであるかを知らず、求めようともしない姿を呈しているのが現状であります。
ましてや、間もなくお盆休みを迎えるに当たり、どれだけの方が先祖供養の志を立て、塔婆供養やお墓参り等、その誠を尽くす方がいるでしょうか。父母のもとへ帰省して御実家のお墓参り等に詣でるならまだしも、やれレジャーであるとか、海外旅行であるとか、日本における古来よりの慣習を忘れて、本来成すべき大事な事を蔑ろにしてはいないでしょうか。
大聖人様は『聖愚問答抄』に、「我(われ)釈尊の遺(い)法(ほう)をまなび、仏法に肩を入れしより已来(このかた)、知恩をもて最とし報恩をもて前とす。世に四恩あり、之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす」と仰せになられ、『新池御書』には、「畜生すら礼を知ること是くの如し」と仰せられております。すなわち、父母、祖父母等御先祖方に対する知恩報恩、尊敬の念を忘れた者は人倫道義の道を忘れた不知恩の輩であり、畜生にも劣ると苦言を呈せられております。私たち日蓮正宗の僧俗たる者、盆彼岸等は是非とも先祖供養の大事を忘れぬべきであります。
さて、大聖人様は『顕謗法抄(けんほうぼうしよう)』に、「因果をしらぬ者を邪見と申すなり。世間の法には慈悲なき者を邪見の者という。当世の人々此の地獄を免(まぬが)れがたきか」とも仰せになられておりますように、仏法で説かれる正しい因縁因果の道理を弁え、その因縁宿習(いんねんしゆくじゆう)を心に留めて日常生活を送ることがいかに大事なことであるか。でなければ生き地獄のような苦しみを味わうことを説かれております。よって、邪見の命を捨て去り慈悲の一念を持って、世の中のありとあらゆる方の悩み苦しみを抜きさり、安楽な境(きよう)涯(がい)に至らしめることができるよう、正法正義に則(のつと)り本来の慈悲の姿を示すことが非常に大事大切なことであり、尚かつそれが本来の正しい意味での慈悲の一念で無ければ無益なことになってしまいます。
幸いにも、私たちは受け難き人として生を受け、値い難き正法に巡り合うことができた身であるからこそ、日頃の信心修行によって御本尊様から賜(たまわ)る大慈大悲の功徳利益をもって、大聖人様が『総(そう)勘文抄(かんもんしよう)』に、「因縁和合して自在神通(じざいじんずう)の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞(おどこお)り有るべからず」との御聖訓を肝に銘じ、今こそ真剣に折伏弘教の大切さを心得ていかなければならない時を迎えております。すなわち、疫病の災禍の原因が世の中の慈悲無き邪見の人々の科である限り、私たちはどこまでも慈悲の一念を持って世間の人々と相対(あいたい)することが肝要であり、その心根が滞ることのないようありたいものであります。また、あらゆる縁した人々に対し、この正法に帰依せしめようと折伏を決意し、お題目にお題目を累ねて功徳充満する時、御本尊様から頂く不可思議偉大なる自在神力の力が漲り、必ず折伏成就の道が開けてくることを確信して頂くことも肝要であります。
あとは、誇り高き広布への思いと世界の平和安穏の方途として、私たちの正法広布という使命感を肝に銘じて、縁する誰かしらを幸福な境涯にせしめんとする、皆さんの勇気ある一歩こそが、コロナ禍を終熄させるための大きな一歩となります。そして、大聖人様が『聖愚問答抄(しようぐもんどうしよう)』に、「慈悲を一切衆生に与へて、謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす。汝(なんじ)実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ。是(ここ)を以て章安大師(しようあんだいし)云はく「寧(むし)ろ身命(しんみよう)を喪(うしな)ふとも教を匿(かく)さゞれとは、身は軽く法は重し身を死(ころ)して法を弘めよ」と。此の文の意は身命をばほろぼすとも正法をかくさゞれ。其の故は身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなり。悲しいかな生(しよう)者(じや)必(ひつ)滅(めつ)の習ひなれば、設(たと)ひ長寿を得たりとも終(つい)には無常をのがるべからず」と仰せのように、生者必滅、はかなき人生であるからこそ、その一生をいかに有意義に過ごすか、不幸の因縁を断ち切り何事にも動じない強靱な精神力を培い、本来、人としてのあるべき姿をもって、身軽法重(しんきようほうじゆう)・死身弘法(ししんぐほう)の訓誡を身に体し、その精神をもってコロナ禍の終熄を願いつつ、末法唯一無二の慈悲の教えである大聖人様の御教えを顕揚するためにも、今こそ折伏すべき時であると鑑み、行動に移すことができるよう、また御自身の信行倍増福徳増進をもって、勇猛果敢にコロナ禍を乗り越えることができるよう、酷暑極まる今、いよいよの御精進を心よりお祈り申し上げます。