本年の掉尾を飾るためには!
本年も残すところ2ヶ月余りとなりました。10月、11月は日本乃至全世界の日蓮正宗の各末寺において、宗祖日蓮大聖人御会式法要が行われ、総本山大石寺においては11月20日、21日の二日間に亘り、宗祖日蓮大聖人御大会法要が、御法主日如上人猊下の大導師によって奉修されます。特に本年は、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の年ということで、いつにも増して末法の御本仏様、宗祖日蓮大聖人様への報恩感謝の念を強く抱くものであります。
こうしたなか我が国の世情を察するに、新型コロナウイルスの感染状況は、世界各国に比べ下火となっており、こうした状況を見るに、末法の御本仏様御出現の地である故か、将又(はたまた)日本守護の善神たる天照大神(てんしようだいじん)、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の守護なる御故かと拝察するところであります。今後再び感染爆発するのか、このまま終熄に向かうかは、ただ唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)乃能究盡(ないのうくじん)なる御本仏様の御仏意(ごぶつち)によるところであり、私たちの凡眼凡智(ぼんがんぼんち)には到底計り知れないところであります。
但し、よくよく今日の世界の状況を拝すると、新型コロナウイルスワクチンの接種状況や、感染拡大が小康状態になったと同時に、すぐさまマスクの着用をやめた諸外国において、再び感染拡大している状況を見るにつけ、日本人特有の「みんなそうしているから」、「○○しなければ非国民」という風潮が、多くの国民のワクチン接種状況や、現今のコロナ禍が小康状態である中でも、誰一人マスクをはずさないように、その風潮が良い面で出ていることも、コロナ禍終熄への大きな足掛かりになるものと信じます。
さて、本年も11月となり、妙眞寺支部で掲げた『福徳増進の年』として最後の2ヶ月、その増進された福徳を大きく展開して頂きたく願います。すなわち、残りわずかとなった本年の折伏誓願目標の完遂成就はもとより、1人ひとりが本年の大佳節を名実共に寿(ことほ)ぎ奉る為にも、今こそ勇猛果敢(ゆうみようかかん)に御精進の誠を尽くして頂きたく存じます。
平成22年以来本年に至るまで、妙眞寺支部におきましては妙眞寺檀信徒の皆様の不撓不屈(ふとうふくつ)の自行化他に亘る御信心により、多くの方が入信入講され、その陣容も3倍ほどとなりました。そうした中でも、毎年折伏成就を成されている方々の姿として、『①日蓮正宗の僧俗としての誇りと自覚を抱き、日常生活においてもその発言行動が、万人より慕われ信頼に足る、しかるべきものであるかどうか。②「謙虚」、「正直」、「誠実」、「我執を破す」、「求道の一念」の五つを心得、信行の実践に励んでいるかどうか。③妙法広布への責務を持ち、日々勤行唱題を励行し、足繁く寺院参詣しているかどうか。④姿形、口ばかりだけでなく、真実の慈悲の境界に立てているかどうか。⑤全身全霊をもって唱題行に徹し、心の及ぶまで唱題行に励んでいるかどうか。』の五点をそれぞれ、我が身の指針として信行の実践に励まれていることと存じ上げます。これは、私たちが末法の御本仏大聖人様の御遺命たる広布大願に向かって、皆さん一人ひとりが折伏を成就する為に心得るべき五点であるとも思います。
まず第1に、人として生を受け、末法唯一無二の値い難き仏法に巡り値えた自身の福徳を噛み締め、その誇りを胸に日蓮正宗僧俗としての自覚を持って日々生活を営んでいるかどうか。「初心不可忘(しよしんふかぼう)」という言葉もあるように、常に初心に立ち返り己(おのれ)の福徳を感じつつ、信心を基軸としたより有益な日常生活をお送り頂く事が肝要であります。また、世間出世間において、慕われ愛され、信頼されるような所作振る舞い、妄語綺語のない発言、失礼や不快な思いをさせない発言を心掛けているかどうか。大聖人様は『崇峻天皇御書』に、「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という」と仰せであります。仏道修行を志す者、末法唯一無二の正法正義を行ずる私たちは、その自覚と責務を深く身に体し、発言行動には人一倍責任を持ち、その人徳、人格から自ずと折伏に繋がるような所作振る舞いを心掛けるべきであります。
第2に、日蓮正宗の僧俗たる者、その人生における日々の生活において、御本尊様御照覧のもと、嘘、偽り無く、謙虚実直でなければならないことは当然のこと、あらゆる物事への執着や、長年の信心によって積み積まれた信心に対する我意我見や慢心を捨て去り、ただ一心に一生成仏を願いつつ、より豊かに明るく前向きな人生を築き上げることが肝要であります。大聖人様は『新池御書』に、「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし」と仰せであります。誰人も入信した当初は、理由はどうあれ必死に信行の実践に励むことでしょうが、祈りや願いが叶ったり、諸難困難を克服したり、信心が長くなればなるほど、ついつい慢心を起こして本来の正法の受持信行の姿から外れてしまうようになってしまいます。正に、「正信会」や「創価学会」、「顕正会(妙信講)」がその最たる例であります。江戸時代にも「三鳥派」や「堅樹流」などの異流義を唱える存在もありました。ですから、いつの時代もいかに私心無く、正しく信仰を全うすることが難解であるかを知るべきであります。どうか、皆様には邪見、慢心を起こしてしかるべき道を踏み外すこと無きよう心して信心を全うして頂きたく存じます。
第3に、極度に悪化した世情の浄化矯正のため、微力なりとも広布へのお役に立てるよう心掛け、毎日、朝夕の勤行・唱題を励行することがいかに大事なことであるかを考えてみて下さい。大聖人様仰せの幸福実現の為には、日ごろの信行の実践による功徳利益がその源となります。そして、その功徳利益を我が身に具えるには、当然仏道修行を成ずることが必須であります。
特に、朝夕の勤行は毎日明確な時間を決めて、日々怠りなく行ずることが大事であり、唱題行も思い立ったらすぐ実践することが大事であります。日常生活においてもそうでありますが、何事かを思いつき、後でやろうと思ったら最後、結局やらずじまいに終わってしまうことはないでしょうか。
ですから唱題行は、寺院に参詣して行うにも、寺院参詣しようと思ったら、あれこれ考えずすぐさま準備支度をして家を出ること、自宅で行うにも、やろうと思ったらすぐ実践に移すことが大事であります。とにかく、私たちには三毒煩悩が常に纏(まと)わり付いているわけですから、時間を空けたらその毒気に遮(さえぎ)られてしまいます。ですから、何事も思い立ったらすぐ行動に移し、後回しにしないことがスムーズに物事を進める秘訣であります。
第4に、私たちの信心において、お座なりの信心であってはならないことは充分御承知のことと存じますが、長年信心をしていると無意識のうちに、自分勝手な信心の解釈や、自分に都合の良い信心、我儘(わがまま)な信心になりがちであります。しかし、宇宙法界森羅万象、私たち一人ひとりの身心に至る全てを、御本仏様が御照覧されているわけでありますから、大聖人様が『土篭御書(つちろうごしよ)』に、「法華経を余人(よにん)のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法(しきしんにほう)共にあそばされたるこそ貴(とうと)く候へ」と仰せのように、私たちの真実本懐たる慈悲深い境界に至ることこそが、大聖人様が私たちに求める色身二法に亘る信心の姿であります。
第5に、我が支部では平成22年、妙眞寺の宗門復帰以来、『心奮わす唱題行に万感の思いを込め 勇気と思いやりをすべての人に』との標語を立て、僧俗一致異体同心して信行に励んでおります。
つまり、建長5年4月28日、宗祖日蓮大聖人様が唱え始められた唱題行が全ての始まりであり、基本であります。そして、常に「正直」と「唱題行の大事」を私たち僧俗に御指南遊ばされてきた御先師日顕上人は、「お題目を唱えることこそ一番の楽しみであり、喜びであるということを真に感じて頂きたいと思うのです」と御指南され、「かぎりなく 境涯ひらく 題目を 常にとなえつ 広布目座さん」、「一切を開く鍵は唱題行にある」と御指南遊ばされました。
私が総本山第六十七世日顕上人を師範として出家得度したのが平成元年の3月28日でありました。ちょうど中学1年生になる時期であり、早朝5時30分からの勤行、掃除、そして朝食をとった後、地元の富士宮市立上野中学校や、中学卒業後は各県立高校へと登校し、午後4時に下校して、夕方午後4時30分から夕勤行、そして午後5時30分から夕食をとったのち入浴を済ませて、午後7時から中講堂で、中学1年生から高校3年生の全学年揃っての勉強会、午後9時に最終点呼を行い、就寝という規則正しい生活のもと、特に土曜日、日曜日には様々な作務や御開扉の御法主上人へのお供、全学生12班に分かれ、12日に1回、午前2時30分からの丑寅勤行の御法主上人のお供といった基本的な修行を、総本山大石寺大坊内の学生寮で同期生28名と共に6年間寝食を共にしてきました。その中で、12日に1回の丑寅勤行のお供の際には、丑寅勤行終了後、御師範日顕上人より、それぞれの勤行態度や太鼓の叩き方を事細かに御指南賜り、更に日ごろから「とにかく正直に、そして唱題行をしっかり行っていきなさい」と御指南賜ってきました。
ですから、毎日午後9時の点呼終了後には、その御指南のままに時間の許す限り法衣に着替え、六壷で唱題行をさせて頂く毎日であったと記憶しております。それは、富士学林大学科へ入学し、東京都足立区の本修寺在勤になった後も、自ずと寺院閉門後に、30分程唱題行をしていたと思います。そのお陰もあってか、今まで人生を揺るがす大過無く、仏道を全うさせて頂くことができ、御師範日顕上人には感謝の念絶えない次第であります。
御先師日顕上人の『すべては唱題から』の最後、『六十一、生死の絆を切り本覚の寤に還る』には、「『総勘文抄』に、『此の度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤に還って生死の紲を切るべし』と説かれている。この「生死の夢を覚まし」とは、どういうことか。思えば、人々の生活は皆、生死無常のものである。その現実が夢であると言われるのは、生と死に挟まれた毎日の生活において、本理に基づく人生の正しい目的を弁えず、五官の楽しみや権勢、名誉等の自我中心の生活に明け暮れることが、いわゆる酔生夢死であり、夢中の生活だからである。ならば、人生の目的とは何か。それは自己の欲望のために生きるのではなく、根本的な法理を元として、他を幸福に、また他を救うために、自らの尊厳の自覚をもって、楽しく清らかに生活の各方面に勇往邁進しきっていくことである。これが三世常住の勇猛心であり、「本覚の寤に還る」とはこのことである。この尊い人生が、巧まずして自然の形で表れる唯一の秘術は、ただ妙法を受持することである。次の「生死の絆を切る」とは、過去・現在・未来にわたり、妙法の人生としての自覚に立った生命となることであり、そこに今生のみに執われた自我の煩悩による生死の絆を切り、三世常住の本覚の寤を得る。故に、妙法の唱題こそ大切である」と御指南であります。
さぁ皆さん、どうでしょう。今生における生死の縛(ばく)を切り、本覚の境界を得るほど唱題行の実践はできていますか?全身全霊を込めて、真剣に唱題できていますか?大聖人様は、『弥源太殿御返事』に、「日蓮法華経の文の如くならば通塞の案内者なり。只一心に信心おはして霊山を期し給へ。ぜにと云ふものは用にしたがって変ずるなり。法華経も亦復是くの如し。やみには灯となり、渡りには舟となり、或は水ともなり、或は火ともなり給ふなり。若し然らば法華経は現世安隠・後生善処の御経なり。(中略)能く能く諸天にいのり申すべし。信心にあかなくして所願を成就し給へ」と仰せであります。
この大聖人様の有り難い御教示にありますように、先が見えないほど道が塞がるような状況を打破して下さる大聖人様の広大無辺不可思議偉大なる御仏智を賜るには、信心に油断怠りなく、御本尊様の御照覧をたのもしくも畏怖の念を持って、諸天善神の御加護を頂けるような尊く強盛な信心に深く住し、折伏を成就できる境界となり、自我への執着を捨て去り、三世に亘り自由自在の境界に成り得るより他にありません。どうか、こうしたコロナ禍の今こそ意を決して更なる信行倍増を志して、罪障消滅宿業打開に邁進し、もって無事、50余日の残された日々を無事故無障礙にて終え、無事本年の掉尾を飾ることができますよう、今後の信行における道を大きく開き、折伏において万能なるお力を御本尊様から賜ることができますことを心よりお祈り申し上げます。