指導教師指導⑦
皆さん、こんばんは。今夕は青年部広布推進会に当たり、各支部青年部の皆様方には、それぞれお忙しいなか夜分において、また明日は多くの支部におきまして支部総登山を控えるなか、深く尊い御信心もっての御参集、誠にご苦労様でございます。
いよいよ来月1日、新天皇が即位され令和元年がスタートし、新時代の幕開けとなります。本年、日蓮正宗におきましては、『勇躍前進の年』と銘打たれ、私たち1人ひとりが今までの信仰の姿を顧み、志新たに勇躍し前進すべき年であり、国としても日蓮正宗としても、一つの過渡期になるのではないでしょうか。皆様もこの時を鑑み、いよいよ意を決して勇躍前進して頂きたく心より念願致します。
さて先般、安倍首相は新たな元号について、「この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。(中略)厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定致しました」と説明されました。
この説明を聞いて、『開目抄』の「仏法を壊乱するは、仏法の中の怨なり。慈無くして詐り親しむは、是れ彼が怨なり」の御文を思い浮かべた方もいるのではないでしょうか。当然、日本国民がいくら親しく心を寄せ合ったとしても、世の中、そう簡単には変わりません。むしろ今後も、国は邪義邪宗謗法の害毒や、貪・瞋・痴の三毒煩悩に犯された「毒気深入失本心故」の人びとによって、益々五濁爛漫し、混迷の一途をたどるやもしれません。
実際、平成の30年余り、まずもって、邪教と化した創価学会問題が勃発し、平成3年11月28日には、創価学会並に創価学会インターナショナルこと、SGIが日蓮正宗より破門されました。そして、一連の創価学会問題の果報とも言うべく、時を同じくしての雲仙普賢岳の噴火、そののち、阪神淡路大震災、東日本大震災をはじめ、数々の自然災害が国土を襲い、こうした天変地夭ともいえる自然災害に加え、オウム真理教による地下鉄サリン事件、東京メトロ日比谷線やJR福知山線の脱線事故、飛行機やバス等のハイジャック事件など、人災が全国各地で頻発し、突如として起こったありとあらゆる災いに、国中の多くの方々は、命を失い家を失い財産を失い、深く心を痛めてきました。
国外でも、平成当初、東西ドイツの統一、東西冷戦の終結に始まり、ソビエト連邦の崩壊によるロシア共和国の建国、争いの絶えない中東地域ではイラクのクウェート侵攻により、国連によって編成された多国籍軍によるイラクとの湾岸戦争の勃発など、世界を揺るがす様々な出来事が起き、日本のみならず世界中が激動の時代となりました。
正に『諸経与法華経難易事』の「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり。幸ひなるは我が一門、仏意に随って自然に薩般若海に流入す。苦しきは世間の学者、随他意を信じて苦海に沈まん」と仰せの如くであります。
平成の当初、多くの有識者は、物質文明が限り無く発展している新時代は、「心の時代になるでしょう」と声高に熱弁を奮っておりました。たしかに世の中は「心の時代」になりましたが、それは「年を追うごとに心が荒む時代」になっていったといっても過言ではありません。これらのことを考えますと、今後、安倍首相が言うところの「令和」とは、まったく裏腹、真逆の時代になるのではないかと心底危惧するところであります。
そして、平成の30年間余りが終わろうとしている今、先般行われた、日本の最高峰たる東京大学の入学式において、東京大学名誉教授の上野千鶴子氏は、「世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください」と、新入学生に対して祝辞を述べられ、話題となりました。
今日の世情を察すれば、正に上野氏の言葉の如く、今の世の中、不正・不公平は陰に陽にまかり通り、努力してもその努力が報われない、という人は当たり前のように存在し、ましてや最初から努力することをあきらめ、逃げ出してしまう人も決して少なくはないというのが現実であります。しかし、私たち日蓮正宗の僧俗は、こうした世情をしっかりと目に焼き付け心に刻み、信心の上から全てを達観して正直を旨とし正義を貫き通し、今こそ自行化他の信心に深く住していかなければなりません。そして、令和3年・宗祖日蓮大聖人御聖誕800年の大佳節に向かい、日頃の唱題行の功徳を以て崇高な境界に立ち、世の中のありとあらゆる方々との仏縁を結び、また自分が変われば周りも変わる、すなわち自分自身の境界を変えてゆけば、必ず周囲の方々に多大な影響を及ぼすことを覚知するべきであります。これは、家庭においても、地域社会においても、職場においても、学校においても同様であります。縁する全ての方々の仏性を開かしめ、混迷を極めている世情の浄化矯正のため、その志を高く持ち、一遍一遍のお題目に万感の思いを込め、自他共に幸福な人生を歩めるよう、努力精進することが、まずもって大切なことであります。
たとえ努力が報われないといわれる世の中であったとしても、私たちの信ずる本門戒壇の大御本尊様は、私たちの信力行力によって、等しく仏力法力の御徳を具えさせて頂き、仏さまの尊い智慧、すなわち御仏智を賜り、広大無辺不可思議なる果報を必ずもたらして頂き、たとえ自らの過去遠々劫の罪障や宿業、三障四魔の用きが惹起し、諸難困難を迎えたとしても、信心に対する疑いの心を抱き、肩を落とすことなく、しっかりと魔を魔と見破り罪障消滅宿業打開の機会であることをよくよく理解し、御本尊様への絶対的な確信のもと徹底的に立ち向かう心根をしっかり持って臨んでいただきたいと願います。
先月度の御報恩御講において、『妙一尼御前御消息』の「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を」との御書を拝せられたと思います。
この御文について、御隠尊日顕上人猊下は、「この宇宙法界の移り変わりのなかにおいて春・夏・秋・冬等のあらゆる姿がありますが、これはやはり一つの深い因縁果報の姿でありまして、冬からさらに春が来るということが一つの必然的な法理、法則であります。この妙法の当体を深く信じて南無妙法蓮華経と唱えていき、そのところに一年の抱負や願業を考えつつ実践していくところに必ずその道が開けてくる。いわゆる、その人その人の身に応じての正しい筋道と幸せが必ず開けてくるということが、蓮華が開くように必ずそこに存することを大聖人様が種々の点から御指南でございます」と仰せになられております。更に日顕上人は、「正しく御本尊を信ずる者は、我が一心即法界なる故に、自由自在の境界をおのずと開かれ、心が広く豊かで、自然に喜びの心があふれてきます。(中略)対人関係においてもおのずから人々の姿をゆとりを持って正しく見るようになる。また不平・不満や暗い苦悩の生活が、いつとなしに喜びと希望に変わっていく。そこからまた、折伏の心、人を本当に思いやる心が出てまいります。しかし、その元はすべて妙法受持の信心でなければ本物ではありません」とも仰せになられております。是非とも、私たちは、日々このようにありたいものであります。
ただ、気をつけなければならないこともあります。それは正しい信心の姿、信仰姿勢を見失ってしまうことであります。大聖人様は「相構へ相構へて心の師とはなるとも心を師とすべからずと仏は記し給ひしなり。法華経の御為に身をも捨て命をも惜しまざれと強盛に申せしは是なり」と仰せになられておりますが、この信心もいつしか我意我見の心が強くなり、正信会や創価学会がそうであったように、本来の日蓮正宗僧俗としての信仰の在り方、求む可きところを誤ると、結果として不幸な人生へと転落してしまうことをよくよく肝に銘じ、日頃から御法主日如上人猊下の御指南を拝読し、各指導教師の御指導をよく心に留め、謙虚にして正直な信心を心掛けて頂きたく存じます。
御隠尊日顕上人猊下は、「一つのポイントがあるのです。すなわち、身命を捨てて法のために生きようという信心と決意であります。この中心がはっきりあると、そこからずれていくことがないと思うのですが、このポイントがずれておると、一生懸命やっているつもりでもなかなかうまくいかないし、また、そのうまくいかない原因も判らないのであります。こういうことからも唱題が大事なのです」と仰せになられております。このように、日頃の唱題行をもって、しっかりとした信仰の筋道を整え、特に折伏成就への一つのポイントとして、まずは縁ある人たちの話によく耳を傾け最後まで聞くことであります。人は親身になって自分の話をしっかりと聞いてもらえると、その方を信頼し徐々に本心を開いてゆくものです。そして、いざ時を迎えたとき、この宗祖日蓮大聖人さまの御教えをわかりやすく事細かに話し、謗法の破折をしっかりできるようになるためにも、大白法や妙教、その他、教学を研鑚すべき書物を熟読し、確実にこの正法に導くことができるよう、折伏に活きる教学を学んでおくことが大事なことであります。
折伏は誰にでもできます。ただ、実践するかしないか、その志次第で、当然毎日の信心修行の姿も変わっていきます。周りにいる、あの人やこの人を救いたい、というその大切な思いをもって、お題目を唱え続けて行くと、知らず知らずにいつしか自分自身が尊い慈悲の境界へと生まれ変わって行き、否が応でも折伏すべき人が目の前に現れ始めます。その千載一遇の機会を決して無為にすることのないよう、日蓮正宗の信徒として、宗祖日蓮大聖人さまの弟子檀越、令和の法華講衆としての誇りを胸に、日々信行の実践に錬磨して勇気と希望をもって未来への道を自ら切り開き、思いやりの心を育くんで、2年後に迫った、宗祖日蓮大聖人御聖誕800年の大佳節に向け、御精進の誠を尽くして頂きたく存じます。
最後に、大聖人様の御金言を拝して、本日の指導とさせて頂きます。
『最蓮房御返事』に曰く、「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」。御静聴誠にありがとうございました。