唱題の実践が鍵

 私達は現実として、私利(しり)私欲(しよく)に執着(しゆうちやく)し、名聞(みようもん)名利(みようり)に明け暮れ、縁に触れて一喜(いつき)一憂(いちゆう)した生活を送っています。
 気が付くと、いつしか信心が観念(かんねん)的になり、唱題もしなく、愚痴(ぐち)をこぼすことが多くなっていませんか。
 確かに人生は、幸・不幸、悲喜(ひき)こもごもです。しかし大聖人の仏法を信心する者は、たとえ逆境の中にあっても、信仰の功徳によって苦難にも勇敢(ゆうかん)に立ち向かい、諸難(しよなん)を乗り越えていけるのです。
 仏法では、不幸の一番の原因は自分自身の生命(いのち)が濁っているからであると説いています。
 日蓮大聖人は
「妙とは蘇生(そせい)の義なり」
とお示しのように、この濁った生命を、正しく清らかで、力強い本来の姿に蘇(よみがえ)らせるのが唱題の目的です。
 更に大聖人は
「口に妙法を呼び奉れば我が身の仏性(ぶつしよう)も呼ばれて必ず顕(あら)われ給ふ」
と仰せられ、唱題することにより、自身の生命に具(そな)わる仏性が顕(あらわ)れ、煩悩(ぼんのう)に執(とら)われることなくコントロール出来る力強い生命力によって、知らず知らずの内に自分の境涯(きようがい)が変化していく事に気が付くはずです。
 御法主上人猊下は
「信仰とは何か。信仰とは観念(かんねん)ではないんです(中略)手を合わせて御本尊様を見つめ、南無妙法蓮華経と唱える実践なんです」
と、信心は観念でなく実践行であると御指南されています。

「祈りとして叶わざるはなし」
の実証を示していくには、御本尊様に祈りきるという、つまりひたむきな唱題の実践によって、不可能を可能にする、何事も唱題によって成し遂げていくという強い確信が鍵です。
 第五十九世日亨(にちこう)上人は
「お題目の唱え方は、身に油断怠(おこた)りなきよう、意(こころ)に余念(よねん)雑念(ざつねん)なきようにありたい(中略)そして身体中が歓喜(よろこび)で踊踊(ぞくぞく)するようにありたい。御本尊と吾等(われら)と一体(いつたい)不二(ふに)に成るまで励まねばならぬ」
と御指南のように、真剣な唱題に励むことが大切です。

「一切を切り開く鍵は唱題行にあり」
唱題は信心の実践修行であり、真の幸福を獲得(かくとく)するための鍵です。