心の鏡 (平成29年7月)

皆さんは毎日、鏡で自分の顔や姿を見ていますか?

朝起きて顔を洗う時や歯をみがく時、多くの人が自分の顔を見ていることでしょう。
また、家の中だけでなく、世の中には色々な場所に鏡があります。

大きさも、手鏡のような小さなものから、姿見という大きなものまであります。

皆さんのまわりには当たり前のようにあって、毎日使っている鏡ですが、もしも鏡が無かったら私たちは自分の姿を見ることはできませんから、とても大切な道具であると言えます。

 

中国・唐(とう)の時代の『貞観政要(じょうがんせいよう)』という古い書き物には、「人を以て鏡と為す」という言葉があります。

これは、「銅を鏡とすれば、自分の姿を映して服装を正すことができる。また歴史を鏡とすれば、国が栄えたり、衰えて滅んだりしたことを知ることができる。そして人を鏡とすれば、自分の長所や短所、欠点を見つけることができる」

とあり、人の振る舞いや発言を見て、自分の発言行動を正しくする鏡にすることができることを教えています。

このように鏡は、人の心や模範とすべきものに譬えられることもあります。

 

日蓮大聖人さまは、
「鏡は色や形を映すことができるが、仏法の鏡は過去世の宿業(しゅくごう)を映し出すことができる」と教えられています。

仏法では、過去の行為の積み重ねが原因となって、現在の結果として現れ、また現在の行為が原因となって未来の結果を招くと教えられています。

したがって私たちは、自分の過去の行いを知ることはできませんが、仏法の鏡をもって見れば、現在の自分の境遇や結果などによって、過去世にどのような行為を積み重ねてきたかを知ることができるのです。

また日蓮大聖人さまは
「日蓮の教えを信じて南無妙法蓮華経と唱える人は、明かな鏡がすべてを映し出すように、あらゆることを知ることができる。その明かな鏡とは御本尊様である」
と教えられています。

このことについて、御法主日如上人猊下(ごほっすにちにょしょうにんげいか)さまは、
「御本尊様は『鏡』のようであると言ったりもします。あくまで、これは一つの例でありますけれども、つまり我々の顔をそのまま映すということであります。疑わしき顔で御本尊様を拝していますと、その顔がまるまる映ってくるのです。だから、しかめっ面をして勤行をしていてはだめなのです。本当に心から、心身ともに御本尊の功徳を信じ奉り、そして本当に肚(はら)の底から題目を唱えていくと、我々自身が変わってくるのです」

と仰せられ、すべてを映し出す明鏡(めいきょう)である御本尊様を疑うことなく、心から信じて真剣にお題目を唱えなければならないと御指南されています。

 

日蓮大聖人さまは、
「私たちの迷いの心は、磨いていない鏡のようなものである。これを磨けば必ず明かな悟りの鏡となる。深く信心をおこして、日夜、朝夕におこたらず磨くべきである。どのようにして磨けばよいのか。それは、ただ御本尊様を信じて、真剣に南無妙法蓮華経と唱えていくことが、その鏡を磨くということなのである」と仰せられ、

また
「鏡に塵(ちり)がつもっていれば、姿を映すことはできないが、きれいになればすべてのものを明らかに映すことができる。塵を取り除くには、磨かなければならない。鏡に姿を映すためには、ただ磨くしかない。私たちの真剣な修行によって磨くしかないのである」
と教えられています。

 

このように私たちは、御本尊様を信じ、真剣にお題目を唱えていくことによって、心の鏡をみがき、物事を明らかに映し出していくことができます。

そうすることができれば、すべての物事も発言や行動も、正しく清らかなものとなって、幸せな人生を送ることができるようになります。

ようするに私たちは日頃から、朝夕の勤行や唱題をしっかり行い、間違ったものを正しく判断できる心、勉強やお父さんお母さんのお手伝いほか、今やるべきことを理解できる心、友だちに思いやりや優しい心をもって接すること、あいさつや礼儀正しい行為を行うことができるように、自分の心を磨いていくことが大切であるということです。

皆さんのすべての行いや発言は、皆さんの心から生じるものです。

ですから、毎日御本尊様に勤行や唱題を行い自分の心を磨き、正しい行動ができるように、立派な大人になれるように頑張っていきましょう。