嗟来(さらい)の食 ( 平成26年1月)
今日は、中国の昔、春秋(しゅんじゅう)時代の斉(せい)という国のお話です。
嗟来(さらい)とは、失礼な言葉や態度で人を呼びつけることです。
ある年のこと、斉の国では日照りが続き、食べ物が育たず全国で大変な飢饉に見舞われていました。
その為、食べ物が足りなくなり、多くの人が困っていました。
町のあらゆるところで、飢えてやせ衰えた人がいっぱいいました。
そんな中で、人だかりのする場所がありました。
それは町中で、とても金持ちな黔敖(けんごう)という人が、荷車の上に座って、荷車に積んできた食べ物や飲み物を飢えて困っている人達にくばっていました。
しかし、黔敖の態度は、だんだん偉そうになっていきました。
人びとが頭を下げて、「ありがとうございます」と手を合わせると、自分がえらくなったと勘違いしてしまったのです。
そこへボロボロの着物を着たおじいさんが杖をつきながらやってきました。
もう今にもたおれそうです。
黔敖は大声で、「おい、じいさん。さぁ、こっちにきて食べな」と言って、食べ物と飲み物を差し出しました。
黔敖は、きっとおじいさんが泣いてよろこぶと思ったのです。
ところが、おじいさんは腰を伸ばして姿勢をただし、黔敖を見て「予、嗟来の食は食わず」と言いました。
「私はどんなにおちぶれても、あなたのような礼儀を弁えないような人の施しは受けません」と言い切って、その場を立ち去りました。
黔敖は、棒で頭をなぐられたようなショックを受け、すぐに自分の傲慢な態度を反省し、おじいさんを追いかけました。
「私がおろかでした。どうぞ召し上がって下さい」とあやまりましたが、おじいさんは施しを受け取ることなく、しばらく歩いてついに倒れ、そのまま亡くなってしまいました。
日蓮大聖人様は『食物三徳御書(しょくもつさんとくごしょ)』に、
「食には三つの徳あり。一には命をつぎ、二にはいろをまし、三には力をそう。
人に物をほどこせば我が身のたすけとなる。譬へば人のために火をともせば我がまへあきらかなるがごとし」と、人に食べ物を施せば、相手が寿命をのばし、顔色もよくなり、生命力がつくように、自分も徳を増すのであると、仰せです。
それは、ちょうど暗い夜道で相手のために照らした明かりで、自分も安全に歩くことができるのと同じことです。
ようするに、人の為に何かをするということは、自分の為にもなるということです。
御法主日如上人猊下(ごっほすにちにょしょうにんげいか)様は、
「信心の上から、もてなすとはいかなることを言うのか。そもそも、もてなすという語には『大切にあつかう』『大事にする』『歓待する』『ご馳走する』『もてはやす』などといった意味があります。
つまり、相手に喜んでもらうことが、もてなすということになるのであります。
我々の信心に立って言えば、御本尊様に喜んでいただくということであります」と言われています。
どうか猊下様のお言葉を忘れることなく、「おもてなし」の心、御本尊様に喜んで頂く心、多くの人に喜んでもらえるような心を大事にしていきましょう。
また、人から物をもらった時、食べ物や飲み物をご馳走になった時は、
「ありがとうございます」、「いただきます」、「ごちそうさまでした」と言うと思いますが、その言葉の意味には、相手の真心に感謝する心と、物を頂く感謝の気持ち、相手が色々と準備してくれたことに対する感謝の気持ちが含まれています。
特に食べ物を頂く時は、自分の生命を養って頂く感謝の気持ち、お母さん達がご飯を作ってくれる感謝の気持ちをしっかりと込めて、「頂きます」と言えるようになりましょう。