御報恩御講住職指導(令和8年6月)
大聖人様は『転重軽受法門』に、「涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をうる事の候」と仰せであります。この御教示は、過去世の悪業による深い罪障が尽きることなく、未来永劫に苦しみの境界を受けなければならないところを、今生現世に正法を信受し、進んでさまざまな難にあうことによって、未来永劫の重い宿業・罪障を転じて、今生一世において軽く受け尽くし、消滅しきっていくことができ、更に四悪趣の因果を離れ、人・天乃至三乗・一仏乗の益を受けることができるとの「転重軽受」の御法門を説かれております。
そもそも正法を受持信行するということは様々な功徳を積むことであり、苦悩の生命が幸福へと向かって回転向上し、精神的・物質的安楽を適えるものであります。しかし、三世の因果の理法により人それぞれありと、あらゆる宿業乃至罪障を己の命に刻んでいるのも事実であり、その悪業を今生現世に召し出だして消滅せしめ、現世安穏・後生善処の境界を得ることこそが現当二世に亘って願うべきものであります。そのためにも、この転重軽受の御法門による、過去世の悪因による重い苦しみの果報を今生にて軽く受け尽くし、未来世に土産として持参せぬよう信行に励み、またその因縁を深く拝受することが肝要であります。
さて、この転重軽受には「智慧の力」「修善の功徳」「護法の功徳力」の三義が説かれています。一に「智慧の力」とは、崇高なる智慧ある人は自身の智慧をもって、定業として定められた地獄極重の果報を現世において不定業として軽く転じ、愚癡の人は、逆に不定業として定められた軽き業の果報を定業に転じ、地獄界において極重の苦しみを受けるということです。二に「修善の功徳」とは、身口意三業による善業を修することにより、それが善因となり本来受けるべき地獄の果報を転重軽受しうることであります。そして三に「護法の功徳力」とは「正法を護持興隆発展せしめる功徳」により、あらゆる罪報を軽く受けることができるということであります。この三つの中でも大聖人様は特に第三の「護法の功徳力」に重点をおかれています。
重い宿業であれば重い報いを受けることは仏法の因果の法理からして当然でありますが、その地獄極重の果報も「護法」つまり正法を信じ護持興隆していくところに、仏法の功徳として転重軽受の果報が必ず顕れてくるのであります。
そもそも大聖人様の文底下種仏法は、末法の一切衆生即身成仏ならしめる唯一無二の正法であり、この正法を受持信行すれば物質的・精神的安楽と幸福が得られるはずであるのに、いざ信仰がはじまると人それぞれ千差万別ではありますが、何らかの苦悩に遭遇することが多々あります。仮にそれが病気やケガであり、経済苦であり、人間関係、そして死であるかもしれません。
御先師日顕上人は、「正法を受持したことが縁となって、様々の苦難が現れるのではあるが、それは自らの過去の謗法の業因によるのであり、むしろ現在の正法信仰の功徳によって、軽く受けて罪障を消滅する因縁が生じていることを知って喜ばなければならない。これが大聖人の仰せの転重軽受の功徳である」と御指南されています。
『椎地四郎殿御書』に「大難来たりなば強盛の信心弥々悦びをなすべし」と、あらゆる難が出来し魔が競いおこることこそ、唯一無二の正法であるが故に、それを安楽と心得、法悦として受け止めることが大事大切であり、又転重軽受の果報であることを覚知することが肝要であります。そして何よりも、今日の自分を形成する業の果報は身に覚えがなくとも、三世を貫く自分自身の過去の行業や、先祖菩提が積み累ねてきた邪宗謗法の害毒等の惡因の最たる結果であり、その今ある現実を自身の向かい合うべき宿業としっかり受け止めて、その宿業による果報によって耐え難い苦悩がおきようとも、又三障四魔のはたらきに驚かされようとも、強盛なる信心によりそれを乗り越える心根を持つことが、現当二世にわたって安穏なる境界を確立する方途であると堅く信ずるべきであります。

