御報恩御講(令和7年10月)

令和七年十月御講             

 内房女房(うつぶさにょうぼう)御(ご)返(へん)事(じ)  (一四九二ページ)

弘安三年八月十四日  五十九歳

 

 妙法蓮華経の徳(とく)あらあら申(もう)し開(ひら)くべし。毒薬(どくやく)変(へん)じて薬(くすり)となる。妙法蓮華経の五字(ごじ)は悪(あく)変(へん)じて善(ぜん)となる。玉泉(ぎょくせん)と申(もう)す泉(いずみ)は石(いし)を玉(たま)となす。此(こ)の五字(ごじ)は凡(ぼん)夫(ぶ)を仏と(ほとけ)なす。されば過去(かこ)の慈父(じふ)尊霊(そんりょう)は存生(ぞんしょう)に南無妙法蓮華経と唱(とな)へしかば即身成仏の(そくしんじょうぶつ)人(ひと)なり。石(いし)変(へん)じて玉(たま)と成(な)るが如(ごと)し。孝養(こうよう)の至(し)極(ごく)と申(もう)し候な(そうろう)り。

 さて今月拝読の御書は、『内房女房御返事』であります。

 本抄は、弘安三(一二八〇)年八月十四日、大聖人様御歳五十九歳の時に身延に於いて認められ、駿河(するが)国(のくに)庵原郡(いはらぐん)内房(うつぶさ)の住人・内房(うつぶさ)の女房殿であります。

 内房女房殿の名前は、建治二年の『三沢抄』にも登場致します。

 現代語訳して申し上げますと、

「内房の尼御前のことは、お年をめされてお越しになり、気の毒に思われたけれども、氏神へ参詣するついでということであったので、お目にかかるならば必ず罪業が深くなるでありましょう。そのゆえは、神は家来であり、法華経は主君であります。家来のところへ行くついでに主君を訪ねるというのは、世間でも恐れ多いことです。そのうえ、尼の身になったからには、まず仏を先とすべきであります。あれこれの過(あやま)ちがあったので、対面しなかったのであります」

(一四八九㌻一八行~一四九〇㌻五行)

と、仰せになっています。「年老いた尼」、即ち内房の尼御前が、氏神に参詣したついでに身延の大聖人様の元に訪れたのです。此れはこの尼御前一人に限ったことではありません。その他の人々も、下部(しもべ)の湯のついで、という者を数多く追い返しております。下部(しもべ)の湯というのは現在の山梨県南巨摩郡(みなみこまぐん)身延町(みのぶちょう)下部(しもべ)にある温泉です。富士川の支流である常葉(ときわ)川(がわ)に流れこむ下部(しもべ)川(がわ)沿いの地にあり、富士川を挟んで、身延の大聖人の草庵からおよそ北東七キロの位置にあります。

 尼御前は親のようなお年齢であり、お嘆きのことについては心が痛んだけれども、この法義をお知らせしたいために、逢わずに返した。これは大聖人様の御慈悲だったのであります。

 第一には、尼御前が氏神への参詣のついでに身延の日蓮大聖人を訪ね、面会したいと申し出たことについて、その本末をわきまえない不心得を正し、法華経(御本尊)を根本とする信心の基本姿勢を教えるために面会しなかったことを述べられています。

 第二には、「御とし(年)よ(寄)らせ給いて御わたりありしいた(痛)わしくをもひまいらせ候いしかども」と仰せのように、大聖人からみれば「をやのごとく」なる高齢の身で、訪ねてきた内房の尼に対し、それが氏神参拝のついでであったことから、そのまま対面したならばかえって尼の謗法の罪を重くするとの御配慮から、まことに気の毒とは思われながらも会わずに帰されたのです。

 その理由は、第一に「神は所従なり法華経は主君なり」と仰せのように、仏法では神は独立した信仰の対象ではなく、法華経並びに法華経の持者を守護する働きをいうのです。

つまり主君である法華経に対して、神は家来の立場であり、家来のついでに主君を訪ねるというのは、世間の道理にも背くことになるからです。

第二に「尼の御身になり給いては・まづ仏をさき(先)と」しなければならないゆえであります。

尼御前はすでに仏門に入って修行に励む身であり、当然のことながら仏を根本とすべきなのに、神を本とし仏をおろそかにするという本末転倒した信心の狂いをそこに見抜かれ、教誡されたのであります。 大聖人様の御本意は「此の義」すなわち法華経(御本尊)が第一であるという正信の筋道を教えようとされたことにあります。

 信心とは人生の根本の依処(よりどころ)を定めるところから出発します。そこを誤るならば、正しい信心とはいえないし、  正法の御本尊を受持していても、二の次に考えているようでは成仏することは難しい。大聖人様は、尼御前の成仏を願われてこそ、このように厳しい態度をとられたのであります。

 なお、此の『三沢抄』では示されていませんが、『立正安国論』に、神天上の法門をお示しのように、一国謗法の  日本の神社には神はおらず、悪鬼・魔神の住処となっているのであります。したがって、尼御前が神社に参詣するということは、それ自体、自らに不幸を招く悪行となるのであります。

 当時まだ内房(うつぶさ)尼だけでなく、多数の弟子檀那が神社参詣を公然としている様子であり、五老僧らが、大聖人の教えを正しく知ることができず、我見を吹き込んでいたことが推察されます。このことがやがては大聖人滅後、地頭の波木井実長の謗法につながっていくのであります。日興上人が『遺誡置文(ゆいかいおきもん)』で厳格に神社参詣を戒められている背景がここにうかがわれるのであります。

 信心には厳格な気風で臨(のぞ)まれながらも、大聖人に会えずに下山した尼御前の落胆、消沈する心情を慮(おもんばか)られる御本仏の大慈悲が惻々(そくそく)として伝わって参ります。尼御前は、寂しく、空しく、大聖人様の元を引き下ったと思われます。しかし、大聖人様の御教示を真摯(しんし)に受け止め、惰性に流されていた我が身を深く省(かえり)みたであろうことは、想像に難(かた)くないのであります。

 少し長くなりますが、もう一つは、此の内房女房という方は、正式には中臣(なかとみ)氏という立派な家柄です。中臣(なかとみ)氏と申しますと「大化の改新」を思い出されたことと思います。

 大化の改新とは六四五年の飛鳥時代に起きた政治改革のことです。聖徳太子が亡くなった後、勢力を強めた蘇我氏に対して、蘇我氏を討つことで天皇中心の政治体制を目指した改革を行いました。その中心人物が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣(なかとみの)鎌足(かまたり)の二人です。大化の改新によって日本は天皇による 中央集権国家・律令国家となり日本の原型が出来上がりました。

 そして中臣(なかとみの)鎌足(かまたり)は藤原氏という姓を賜り、藤原氏は引き続き政権を担うことになります。その他の中臣氏は主に 朝廷の祭祀(さいし)を司る神官となりました。

 このように長い歴史をもつ内房(うつぶさ)家は旧来の邪宗を捨てて大聖人様に門に帰依し、父親をも立派に霊山浄土へと送った様子が、本抄から拝することが出来ます。

 弘安三年八月頃、内房女房より、亡き父親の百箇日忌の追善供養を願い出るため、大聖人様へ御供養とともに願文が届けられました。

 

 その願文には、法華経一部並びに方便品・寿量品の読誦、そして五万遍の唱題をもって父親の追善に供えたことが 記されていました。これに対し大聖人様は、先祖の菩提を弔うため法華経を読誦する人は多いが、五万遍もの唱題を行ったことは前例がないとして、その功徳の大きさを本抄で説かれています。

 

 このことを、よくよく念頭に置きながら、いつものように通釈をしてまいります。

 

「妙法蓮華経の徳(とく)あらあら申(もう)し開(ひら)くべし。」

(通釈)

「妙法蓮華経の功徳をおおよそ申し上げ明らかにいたしましょう。」

 

「毒薬(どくやく)変(へん)じて薬(くすり)となる。妙法蓮華経の五字(ごじ)は悪(あく)変(へん)じて善(ぜん)となる。」

(通釈)

「『大智度論』には「毒薬変じて薬となる」と説かれています。妙法蓮華経の五字は悪を善に変えるのです。」

 この妙法を受持信仰すれば、成仏の因果を同時に得て、 煩悩〔毒〕そのものが菩提〔薬〕となり、成仏の境界を開くことができるという意味であります。

 

「玉泉(ぎょくせん)と申(もう)す泉(いずみ)は石(いし)を玉(たま)となす。此(こ)の五字(ごじ)は凡(ぼん)夫(ぶ)を仏と(ほとけ)なす。」

(通釈)

「玉泉という泉は石を玉にするそうです。(同じように)この五字は凡夫を仏にするのです。」

 

「されば過去(かこ)の慈父(じふ)尊霊(そんりょう)は存生(ぞんしょう)に南無妙法蓮華経と唱(とな)へしかば即身成仏の(そくしんじょうぶつ)人(ひと)なり。石(いし)変(へん)じて玉(たま)と成(な)るが如(ごと)し。

(通釈)

「ですから、亡くなった慈父尊霊は、生前に南無妙法蓮華経と唱えたので即身成仏の人であります。石が変じて玉となるようなものであります。」

 

「孝養(こうよう)の至(し)極(ごく)と申(もう)し候な(そうろう)り。」

(通釈)

「(このように親を妙法へ導くこと)この上ない孝養というのであります。」

 

 このように大聖人様は仰せになり、内房女房殿に対して益々精進をするよう御教示なされています。

 

 それでは、今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。

 一つ目は「この信心は変毒為薬の大功徳がある」ということです。

 今回の御聖訓には「毒薬変じて薬となる」とあり、妙法の功徳を「変毒為薬」と示されています。

 衆生の命は、本来、貪瞋癡などの煩悩に覆われており、これによって苦悩の人生を送らなければなりませんが、この煩悩を断ずることなくそのまま悟りの境界へと変えていけるのが、妙法の力用で、不可思議な力なのです。

 このことを大聖人様は、『始聞仏乗義』

「毒と云ふは何物ぞ、我等が煩悩・業・苦の三道なり。薬とは何物ぞ、法身・般若・解脱なり。『能以毒為薬』とは何物ぞ、三道を変じて三徳と為すのみ」(御書一二〇八㌻)

と仰せられています。

 ただし、この功徳は、『当体義抄』

「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる」(同六九四㌻)

とあるように、一切の執着・謗法を捨てて、正法たる南無妙法蓮華経を受持信行するところにあるということです。

 この信心を、疑いを持たず強盛に実践するならば、いかなる苦難にも翻弄されず、力強く堂々と人生を切り開いていけるのです。

 二つ目は「折伏実践により自他共に成仏していこう」ということです。

 総本山第六十六世日達上人は次のように御指南なされました。

「内房の女房は、この南無妙法蓮華経、大聖人さまを自分の父のために紹介したものである。今あなた方が折伏して間違った人を折伏してお寺に来ることは、大聖人さまを紹介してあげている、その大聖人さまのお題目でその人々は救われる(中略)説く人も説かれる人も共に即身成仏の本懐を遂げるのが南無妙法蓮華経の大きな功徳」(達全二-二-五二四)

と御指南され、折伏こそ最善の孝養であり、自他共に成仏する最高の仏道修行であると教えられています。

 私たちが折伏を実践する際、「自分は悩みを抱えている」「難しい教義を知らない」等の心配は無用です。私たちに必要なのは、「必ず幸せになれる」との御本尊様への絶対の確信と、相手の幸せを心から願える慈悲、そして行動する力です。これらが揃ったとき、自然と道筋が示されるのです。

 

 本日参詣の皆さんが、勇気を持って立ち上がり、一人でも多くの方を寺院にお連れして、折伏を進めてまいりましょう。

 最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。

「折伏をすると、折伏された人が幸せになります。同時に、折伏した人も幸せになれるのです。過去遠々劫(かこおんのんごう)の様々な罪障(ざいしょう)、これが折伏によってみんな消えていくのです。折伏によって人を救うということは、仏様のなされることを、今、我々が仰(おお)せつかって行っているのでありますから(中略)このことにはすばらしい功徳(くどく)がありまして、折伏によって多くの人達を救うことは即(そく)、自分自身の過去遠々劫の罪障を消滅していくことになるのであります。」(大日蓮・平成二十四年五月号)

 このように御指南なされ、折伏は折伏をした私たちも、折伏を受けた相手も幸せになれることを御指南されました。

 本抄には、父親が亡くなる前、病身にもかかわらず遥々(はるばる)身延の大聖人のもとを尋ねられ、妙法の題名つまり御本尊を授与された事を記載されています。恐らく内房女房は 身延から戻られた父親から、大聖人の威徳と法華経の偉大さを伝え聞いたと思われ、そのことが父の死後百日間で 妙法蓮華経一部、方便寿量品三十巻、自我偈三百巻、妙法蓮華経の題名五万返を唱えるという行に向かわせたのだと思われます。現代人の多くが失ってしまった後生善処の考えを、内房女房の行は改めて思い起こさせてくれるような気がいたします。

 本年も早やお会式の季節となりました。大聖人様の御化導は〝立正安国論に始まり立正安国論に終わる〟と言われるように、一切衆生救済のため、破邪顕正の折伏を貫かれたものでした。

 九月には「折伏強化月間」としての活動を行いましたが、折伏がこれで終わったわけではありません。意義あるこの十月、私たちは大聖人様の広宣流布の大願を決して忘れることなく、御法主上人の御指南のまま、広布実現を目指して折伏を実践し、大聖人様への真の御報恩を尽くしてまいろうではありませんか。