御報恩御講住職指導(令和7年10月)
先月の折伏強化月間においてどれくらい下種・折伏に励まれたでしょうか。総本山第二十六世日寛上人は『如説修行抄筆記』に、「常に心に折伏を忘れて四箇の名(みょう)言(ごん)を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」と仰せになられております。要するに念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の四箇の格言や、邪宗謗法の害毒の恐ろしさを銘記し、身口意の三業相応した自行化他の亘る信行の実践に励むことが、謗法を離れ我が身を浄化矯正する唯一の方途であることをよくよく知るべきであります。
また日寛上人は『序(じょ)品(ほん)談(だん)義(ぎ)』に、「もし自らの犯した罪悪を悔いる懺(さん)悔(げ)をすれば、地獄へ落ちないことが定まるのだから、懺悔ということが大切である。その懺悔はどのようにするのか。もし謗法の悪心が起こったならば、地獄の業因が起こるのはあさましいことであるから、三大秘法の南無妙法蓮華経を唱えなさい。もしまた貪り惜しむ心が起こったならば、餓鬼道の業因が起こるのはあさましいことであるから、本門寿量の南無妙法蓮華経を唱えなさい。もし、善行を修せんとの心が起こったならば、一層喜んで南無妙法蓮華経と唱えなさい。善悪どちらであっても、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え申し上げると、すべての罪は霜や露のように消え失せ、本来の仏心・仏界となり、善根はますます増長する。たとえある時は世間の勤めに妨げられ、またある時は世間の出来事に妨げられて仏前に向かわないとしても、手に数珠を持たないとしても、ただ、常に絶え間なく南無妙法蓮華経を心に忘れないことがとりわけ肝要である(趣意)」と仰せであります。
このように如何に信心修行に励んでいるとしても、十四誹謗や三毒煩悩の悪心が起こったならば、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕すべき業因を作ることになるからこそ、常に我が身の反省懺悔を心掛けることが肝要であります。もし日常生活において俗世間の価値観や無益なことに喜び楽しむ姿に感化され、そうしたことに執してしまい、時間を浪費したり人倫の道を踏み外したり、法を犯したり嘘詐りの姿があったならば、更に過去世からの悪報の科(とが)によって悩み苦しむ姿や、妙法唱題もままならず自身の祈りや願いがなかなか思うように叶わずして不信謗法を起こしたとして、自身の信仰姿勢や日常生活を反省懺悔しなければ、これまた三悪道四悪趣の境界に陥る結果となってしまいます。
そして、自分はしっかり大聖人様の仰せにしたがって信行の実践に励んでいると思っていても、それがただの自己満足や我意我見に過ぎない軽々しいものであったならば詮無いことであります。そもそも仏さまの教えとは私たち衆生が人として生を受け、如何に一期の人生を送るべきかを説かれた法であり、大聖人様が説かれた教えは正に、「上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄へ給ふべき鎮護国家の大白法なり」と仰せの通りであります。
つまり正法弘通によって国家国民が安寧して悦びに浸る姿こそが真の悦びであり、信行の実践による悦びこそ唯一無二、最善無上の悦びと心得るべきであります。そのためには、まずもって皆さん一人ひとりが法悦に浸り、功徳利益をもって我が身心を飾り上げ、人望・信頼・信用といった人徳を身に付けることが大事大切であり、令和の法華講衆として恥じなき不遜極まりない発言や行動無きよう留意して、日々お過ごし頂くことが大事なことであります。
最後に、近年多くの人たちがスマホ片手に無為な時間を過ごしてはいないでしょうか。当然、連絡手段として便利ではありますが、必要以上にスマホに依存している姿が垣間見えます。それこそ私たちはこうした世俗の姿に迎合することなく、時間を作ってお題目を唱え、朝夕の勤行を欠かさず行うことを最優先事項とし、夜出来る限り早く就寝して翌朝に備え、充実した1日を送れるように精進すべきであります。また、活字を読むことも肝要であります。特に若い方々は、折伏のためにも、また人とのより良きコミュニケーションをとるためにも、語彙を増やし正しい日本語、敬語を話すことが大事であります。是非本をよく読むこと、プロが書いた書物を読んで、それこそ分からない文字や単語があればスマホで検索するよう、脳や目に決して良いとは言えないスマホの正しい使い方を心得て頂きたいと思います。

