御報恩御講(令和7年7月)
令和七年六月御講
一生成仏抄(御書 四六ページ) 建長七年 三十四歳
只今(ただいま)も一念(いちねん)無明(むみょう)の迷心(めいしん)は磨(みが)かざる鏡(かがみ)なり。是(これ)を磨(みが)かば 必(かなら)ず法性(ほっしょう)真如(しんにょ)の明鏡(みょうきょう)と成(な)るべし。深(ふか)く信心(しんじん)を発(お)こして、日(にち)夜(や)朝暮(ちょうぼ)に又(また)懈(おこた)らず磨(みが)くべし。何様(いかよう)にしてか磨(みが)くべき、只(ただ)南無妙法蓮華経と唱(とな)へたてまつるを、是(これ)をみがくとは云(い)ふなり。
さて今月拝読の御書は、『一生成仏抄』であります。本抄は、建長七(一二五五)年の御書ですから、大聖人様が建長五年に宗旨を建立されてから、大聖人様御歳三十四歳の時に、鎌倉・松葉ケ谷の草庵にて認められ、下総中山の (千葉県北西部)の富木常忍殿に与えられた御書と伝えられています。
御案内の通り、大聖人様は建長五(一二五三)年四月二十八日、安房・清澄山嵩(かさ)が森にて宗旨の建立を宣言せられました。その後大聖人様は、故郷を後にされ、末法万年の一切衆生を救済すべく、当時の政治の中心地鎌倉へと向かわれたのであります。そして、まもなく折伏弘教の拠点として鎌倉・松葉ケ谷に草庵を結ばれると、その後布教に努められる中で、後に入道して常忍と称した富木五郎胤(たね)継(つぐ)殿が入信したのです。
富木殿は、信行学の錬磨に努め、後に入信した曽谷教信殿、太田乗明殿、四条金吾殿らの中にあって中心的な役割を果たしました。
特に『観心本尊抄』『法華取要抄』『四信五品抄』などの 重要御書をはじめ、四十余篇にわたる御書を賜っていることは、下総・若宮の領主として地域社会に堅固な基盤を 有する富木殿に対する大聖人様の厚い信頼を窺(うかが)い知ることができます。富木殿も大聖人様の信頼に能くお応えし、御書の散逸を防ぎ、格護保存を厳格に行ったのであります。
それでは、本抄の大意を簡単に申し上げます。『一生成仏抄』は、題号の如く、「一心に御題目を唱え、一生の中で成仏の境界を得るよう勧誡」された御書であります。
まず成仏するためには、衆生に本来具わっている妙理を観ずるところにあるとされ、それは妙法蓮華経を唱えることであると明かされています。
次に、いかに妙法を持つとも、自己の心の外に妙法があると思うことは方便権教の間違った教えであって一生成仏は叶わないとされています。
続いて、衆生の心が汚れれば住む国土も汚れ、心が清ければ国土も清くなるとの依正不二の道理を示され、また 衆生といい仏というのも同じことで、迷う時を衆生と名付け、悟る時を仏と名付くと教えられています。
そして本日拝読の御聖訓では、煩悩に覆われた凡夫の心を磨き、悟る方法として、南無妙法蓮華経と唱えていくことを勧められている御文であります。
通釈しますと、
「只今(ただいま)も一念(いちねん)無明(むみょう)の迷心(めいしん)は磨(みが)かざる鏡(かがみ)なり。」
(通釈)
今の私たち凡夫の「一念無明の迷心」深い煩悩に覆われた迷いの心は、ちょうど磨かない鏡のようなものである。
「是(これ)を磨(みが)かば必(かなら)ず法性(ほっしょう)真如(しんにょ)の明鏡(みょうきょう)と成(な)るべし。」
(通釈)
これを磨いていくならば必ず法性真如の曇りなき悟りの明鏡となるのである。
「深(ふか)く信心(しんじん)を発(お)こして、日(にち)夜(や)朝暮(ちょうぼ)に又(また)懈(おこた)らず磨(みが)くべし。」
(通釈)
深く信心を発して昼となく夜となく、朝晩に懈らず磨いていくべきである。
「何様(いかよう)にしてか磨(みが)くべき、只(ただ)南無妙法蓮華経と唱(とな)へたてまつるを、是(これ)をみがくとは云(い)ふなり。」
(通釈)
どのようにして磨けばよいのか、それはただ南無妙法蓮華経と唱えていくことを、これを磨くというのである。
このように大聖人様は仰せになり、御本尊様を深く信じて妙法を唱えれば、一生成仏は疑い無いことをご教示されています。
それでは、今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。
一つ目は「濁り曇った心を唱題で輝かせよう」ということです。
この『一生成仏抄』は、極めて重要な御法門の一つである、「一心法界の旨」を説き明かされた御書だといわれています。
本抄の最初の方を拝読致しますと、
「所詮一心法界の旨を説き顕はすを妙法と名づく。故に此の経を諸仏の智慧と云ふなり。」(御書四五頁)
とありまして、その意味は、
「要するに、大事大切な一心法界の旨を説き顕す経であるから、仏はこの経を、凡夫の思慮をはるかに超え、言葉にも 尽くせないという意味で〝妙法〟と名づけられ、諸仏の智慧と言われているのです」
という意味になろうかと思います。
それでは、その「一心法界の旨」とはどういう事なのでしょうか。それは、
「一心法界の旨とは十界三千の依(え)正(しょう)・色心・非情草木・虚空(こくう)刹土(せつど)いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収めて、 此の一念の心法界に遍(へん)満(まん)するを指して万法と云ふなり。此の理を覚知するを一心法界とも云ふなるべし」(御書四十六頁)
と、あります。
ここに仰せの「十界三千の依(え)正(しょう)・色心・非情草木・虚空(こくう)刹土(せつど)いづれも除かず、ちりも残らず」というのは、この宇宙法界とも、十界三千の諸法とも、あるいは森羅万法などともいいますが、それが私共のわずかな心の中に全て納まっている……。
また、この心が遍(あまね)く法界に充ち満ちているのを指して 森羅万法ともいい、これを悟られた仏様がその状態を表現されたのが「一心法界」という意味だというのです。おそらく何を言っているのか分からないと思います。
私たちの心というものは移ろいやすく定め無きものでありまして、自在に十界の命を顕すことはできません。ただ、御本仏は法界に自在を得ておられますので、久遠元初の修行を末法の今日、御本尊として再現あそばされました。ですから、私達は、私達のためにお示し下された御本尊様を信じて、題目を唱えることによって、この仏様のお命に近づくことができるのであります。
此のことについて、かつて日顕上人猊下様が、青年部を前にして御指南くだされたことがあります。
「さて皆さん、御本尊の中央、南無妙法蓮華経の直下(ちょっか)に日蓮在御判と示し給うのは、大聖人様の一身一念が法界に遍(あまね)く充満する妙法蓮華経の境界、いわゆる久遠元初の自受用身即末法下種の御本仏日蓮大聖人の、究竟の悟りのお姿であります。すなわち、法界を自身と開く大聖人即宇宙法界、法界即大聖人の境地を示された御本尊として、我々日蓮正宗の僧俗は無二の信心をもって拝し奉るべきであります。
要するに、仏道の根本的な悟りとは何か。それは一心即 法界と開く悟りであります。そこには、他に肩を並べる何物(なにもの)も無い大人格が存するのであります。ゆえに妙楽大師は、『成道の時此の本理に称(かな)ひて、一身一念法界に遍し』(御書一○六頁)と喝破しております。
また大聖人様は、『所詮、一心法界の旨を説き顕すを妙法と名づく』(御書四五頁)と仰せられ、さらに『御義口伝』に寿量品自我偈の文について、『法界を自身と開き、法界自受用身なれば自我偈に非ずと云ふ事無し。自受用身とは一念三千なり』(御書一七七二頁)と、御本仏究竟の悟りを御指南であります。」(平成十二年四月二十三日・全国青年部大会の砌)
と、御本尊様には何が顕されているのか、その意味を端的にお示しくだされました。
そしてこの後に、私たちがこの御本尊様に対し勤行をし、題目を唱えることの意義とは如何なるものかを、懇切に御教示下さっております。大事なことですから少し長いですが、申し上げます。
「これから申し述べることこそ、皆さんの信心生活にとって大切なことと信ずるのであります。我々のような凡眼凡智ではなかなか信じがたいことですが、人々の一人ひとりの命、その一念に本来、法界に遍満する自由自在な妙法の性を具えております。ただし、多くの人は無始以来、無明という煩悩に覆われて、この悟りを全く知らず、低い境界にさ迷っているのであります。
ゆえに、無二に御本尊を信じ奉り、一身一念即宇宙法界と開かれた大聖人様の御法魂に対し奉り真剣に題目を唱え、我が一身一念もまた、御本尊と境智冥合の大利益を蒙り、法界に遍満する広大な心なり、と信ずることが即身成仏の直道であります。ー乃至ー
このように正しく御本尊を信ずる者は、我が一心即法界なるゆえに自由自在の境界をおのずと開かれ、心が広くて豊かで、自然に喜びの心が溢れてきます。境界が一転すれば、 あらゆる人や物に対する見方が変わるのです。恐ろしかった人が急に幼く見えたり、今まで気づかなかった人の値打ちを新しく感ずる等、対人関係においても自ずから人々の姿を、ゆとりをもって正しく見るようになる。また、不平不満や暗い苦悩の生活が、いつとはなしに喜びと希望に変わっていく。 そこから又、折伏の心、人を本当に思いやる心が出てまいります。しかし、その元はすべて妙法受持の信心でなければ本物ではありません。かくて、すべての人に妙法の功徳を語りつつ、共に幸せになっていく仏法の上の修行こそ、広宣流布の要諦であります」(平成十二年四月二十三日・全国青年部大会の砌)
と、御指南なされました。
せっかく御本尊様を受持し南無妙法蓮華経と唱えていても、一切法は己心の外にあるという思いから脱却できずにいるとしたら、これは最早(もはや)妙法とは申せません。それは、麁法(そほう)という、いわゆる不完全な教えである、ということになってしまいます。
それが麁法(そほう)ならば、これは法華経ではない。法華経の教えでなければ方便の教えであり、権門(ごんもん)という仮の、人々の一時の気休めのために説かれた教えとなります。方便・ 権経という仮の教えであるならば、これは成仏の直道ではない、成仏の直道でなければ、これから多生曠劫(たしょうこうごう)という、気の遠くなる期間をいくども生まれ変わって修行をして、その未来の果てに成仏するというのですから、一生の内に成仏するということは、決して叶わないことになってしまいます。それですから、妙法と唱え蓮華と読まん時は、私たちの一念を指して仏は「妙法蓮華経」とお名付けになったのである、と深く信心を起こすべきなのです。
もし、私たちの心の外に道を求めて、膨大(ぼうだい)な修行と善根を積み重ねようとするものは、譬えて言えば、貧しさに困窮(こんきゅう)している人が、どんなに一生懸命昼夜を問わず隣の家の財産を数えても、半銭も得分が無い、自分の得るものが無いようなものなのです。ですから、天台大師が解釈された書の中にも、「もし、心性を観ぜざれば重罪滅せず」とあって、もし心がいかなるものか観るということが、仏法の修行の根幹であることに視点を置かなければ、たとえ真剣で純粋な志による長年の修行であったとしても、ことごとく無量の苦行……、つまり、すべては徒労に終わる、と判釈されているのです。
本抄の中で大聖人様は、
「又、衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によるとみえたり」(御書四六頁)
と仰せになっていますが、「心けがれる」人とは、『新池御書』(御書一四五八頁)に、
「心けがれたると申すは法華経を持たざる人の事なり」
と、法華経を信ぜず、あまつさえ誹謗悪口をなす謗法の人たちのことであると仰せです。
このような人たちが国土にあふれれば、その国にはあらゆる災いが起こり、地獄や餓鬼、それに畜生や修羅さながらの世界になってしまうのです。
その反対に「心清ければ土も清し」とは、三大秘法の御本尊を信ずる人が国に満ちれば、常寂光土のように、荘厳にみちて、災いが無い国土となっていくのです。しかし、浄土というも穢(けが)れたる世界の穢土(えど)も、決して別に存在するわけではありません。ただ、そこに住まう人たちが御本尊を信ずるか否か、つまり「我等が心の善悪」で、穢土となったり、浄土と変じたりするのです。しかも、もともとは「常在霊山の床の上は寂光にあらざるは無し」で、寿量品という仏の極説によれば寂光浄土なのです。
次の御文に、
「衆生と云ふも仏と云ふも亦此の如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」(御書四六頁)
と仰せになり、衆生といい仏というのも、別個のものではない。迷う時は衆生と名づけ、悟る時を仏というのです。
『当体義抄』に、
「妙法蓮華の当体とは、法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身これなり」(御書六九四頁)
とお示しの御文は、時の御法主上人の御指南に信伏随従して、三大秘法総在の御本尊様に南無妙法蓮華経と唱え奉るものは、妙法蓮華経の当体であると信解する時を「仏」と名づけ、これに迷っている時を衆生・九界の凡夫と称するのです。
拝読の御文には、
「譬へば闇(あん)鏡(きょう)も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今(ただいま)も一念(いちねん)無明(むみょう)の迷心(めいしん)は磨(みが)かざる鏡(かがみ)なり。是(これ)を磨(みが)かば 必(かなら)ず法性(ほっしょう)真如(しんにょ)の明鏡(みょうきょう)と成(な)るべし。」
この箇所は、ただ単に、御本尊様にお題目を唱えるのは心を磨くことだ、ということではありません。鏡のはたらきを例えて、一心法界の旨をお示しになっているのです。
すべての衆生は、大聖人様の妙法によって救われます。それはいかなる悪人でも、また悩みや苦しみから逃れられない人であっても、その心中には仏様と同じ清く尊い生命が内在しているからです。
しかし、総本山第二十六世日寛上人は『序品談義』に
「私達の心は本来、明鏡のように妙法蓮華経の当体であるが、心が煩悩の塵で覆われているために仏心を顕せないのである。煩悩で真っ黒に曇っている鏡でも、信力・行力を奮い起こして題目を唱え磨くなら、たちまち明らかな鏡となる。これは 偏に鏡を磨く修行による」(歴全四-七五趣意)
と教示されています。明鏡たる妙法の仏心は、煩悩の塵によって黒く曇り覆われていますから、御本尊様に向かって唱題を重ね、その曇りを磨き取らねばなりません。
私たちは、入信当初の発心や仏法聴聞の歓喜をいつしか忘れ、惰性に流されたり、懈怠の心が生じて、仏道修行が疎かになりがちです。御聖訓に、「深(ふか)く信心(しんじん)を発(お)こして、日夜(にちや)朝暮(ちょうぼ)に又(また)懈(おこた)らず磨(みが)くべし。」とあるように、一生成仏とは 常に懈怠の心を誡め、篤き信心を奮い起こして、仏道修行を重ね、心を磨いていくことが肝要なのです。
御本尊様は御本仏日蓮大聖人のお心という明鏡に、法界三千の諸法が具わっていて妙法蓮華の当体であることが 図顕されています。
私たちも同じ鏡を持っていますが、いかんせん、煩悩の塵が覆い尽くしていると教えてくださっています。ですから、速やかに信心の心を出して題目を唱え、目の前の御本尊のように、否、御本尊様の相貌たる十界三千の諸法を 我が己心の鏡に写して、妙法蓮華経の当体としての用(はたら)きを存分に発揮し、すべてを変毒為薬して、かけがえのない人生を妙法流布に共々に生きてまいろうではありませんか。
二つ目は「自行化他の実践に邁進しよう」ということです。
『御義口伝』に
「南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり」(御書一七六〇頁)
と示されるように、そもそも大聖人様の南無妙法蓮華経は、自行と化他に亘るものです。したがって御本尊様を信受する私たちは、自身の勤行唱題だけでよしとするのではなく、他者のために祈り、折伏を実践し、この正法を伝え弘めるべきです。
大切なことは、日を置かず、時を無駄にせず、日々に折伏を実践することです。この信行の実践によって初めて、成仏という最高の境界に至ることができるのです。
御法主日如上人猊下が常々〝動けば必ず智慧が涌く〟と仰せられる通り、御本尊様に縁して信心に基づく正しい行動を起こしていけば、自然と智慧が表れてきます。とにかく行動し、その継続の先に折伏成就があると心得、共々 自行化他にわたる唱題を実践してまいろうではありませんか。
最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。
「折伏に当たっては、まず、しっかり唱題に励むことが肝要(かんよう)であります。御本尊様に祈り、相手を思う一念と強い確信(かくしん)が 命の底から涌(わ)き上がってきた時、その確信に満ちた言葉は、 必ず相手の心を揺さぶらずにはおかないのであります。すなわち折伏は、相手の幸せを祈り、不幸の根源である邪義邪宗の謗法を破折(はしゃく)し、この妙法を至心(ししん)に信じていけば、必ず幸せになれることを誠心誠意、伝えていくことが大事なのであります。」(大日蓮・令和七年六月号)
このように御指南なされ、折伏に当たっては、しっかり唱題に励むことが大事だと御指南されました。
七月は『立正安国論』奏呈の月です。立正安国の実現に向けて、折伏前進を決意する時です。
かねてお知らせの通り、九月に「折伏強化月間」が設定されました。この強化月間に向けて、支部で立てた計画に基づき、それぞれの方が自身の活動計画を練り、行動を起こしていきましょう。
立正安国の御聖意を拝し奉り、御本仏の大慈大悲にお応えするためにも、九月を期して、今この時から、皆で一致団結して広布への歩みを進めてまいりましょう。

