御報恩御講(令和7年4月)

令和七年四月御講             
上野殿御返事 (一四二八ページ)
弘安二年十一月六日  五十八歳

 願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年去々年のやくびゃうに死にし人々のかずにも入らず、又当時蒙古のせめにまぬかるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。其の時のなげきはたうじのごとし。をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ。つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ。

 

 さて、今月拝読の御書は、『上野殿御返事』であります。本抄は、弘安二年(一二七八)十一月六日、大聖人様御歳五十八歳の時に著された御書であります。本抄を賜ったのは題号の如く駿州上野の地頭・南条時光殿です。本抄の御真蹟は総本山大石寺に厳護され、毎年奉修される御霊宝虫払大法会にて披露されています。また、冒頭には「竜門の滝」の故事を示されていることから、別名を『竜門御書』と称されております。
此の竜門の由来は、「後漢書―李膺伝」に、中国の黄河の急流には、竜門と呼ばれ滝があります。この滝を登り切った鯉、大聖人様は鮒と仰せですが、登り切ると竜となるという言い伝えがあります。
紀元前二世紀、中国の後漢王朝時代に、李膺という政治家がいました。李膺は、当時の乱れた風潮の中で、正しい政治を守り続けていました。そこで人々は、李膺と親しい関係になった者のことを、黄河の急流にたとえて「竜門を登る」と呼んでいたということです。後に唐王朝の時代になると、この言葉は、科挙(官僚を登用するための試験)に合格することを指して使われ、出世の糸口を意味するようになりました。ここから「登竜門」という言葉が生まれたのであります。
大聖人様は、多くの鮒が滝を登ろうとするけれども登り切るのはごくわずかです。それと同じくらい仏道修行を全うするのは難しいことの例えとして、竜門の故事をお示しになったと拝されます。 
本抄が認められた背景を簡単に申しあげますと、弘安 二年九月、かの熱原法難が起こりました。そして本抄お認めの二十一日前、十月十五日、神四郎・弥五郎・弥六郎の三人が改宗を迫る幕府役人の手により命を奪われました。他の多くの法華講衆も大変な迫害を受けましたが、彼等は励まし合い、一人として退転する者はいなかったのです。
大聖人様は、入信間もない熱原の農民達が身命に及ぶ 大難に遭いながらも、その信仰を貫く姿を機縁として、  いよいよ下種仏法の究竟の法体を建立する時の到来を感じられ、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊様を御図顕 あそばされました。
この法難にあたって南条時光殿は、身命を賭して熱原 法華講衆をかくまい、また日興上人等の御僧侶の外護に 努められました。
本抄の追伸に、「此はあつわらの事のありがたさに申す御返事なり」(御書一四二八㌻)とお示しのように、本抄は、南条時光殿の多大な功績に感謝の意を表すために認められたものと拝されます。
 さらに大聖人様は、「上野賢人」(御書一四二八㌻)との尊称を贈られるなど、当時まだ二十一歳の時光殿の人柄や篤い信心を称賛すると共に、一層の奮励を期待されています。
このことを、よくよく念頭に置きながら、いつものように通釈をしてまいります。

「願はくは我が弟子等、大願ををこせ。」
(通釈)
「願わくは、我が弟子ら、大願を起こしなさい。」
ここでいう大願とは仏道を実践する目的のことです。

「去年去々年のやくびゃうに死にし人々のかずにも入らず、又当時蒙古のせめにまぬかるべしともみへず。」
(通釈)
「去年一昨年の疫病で死んだ人々の数に入らなかったとしても、蒙古の襲来からは免れるとは思えません。」
「去年去々年のやくびゃう」とは建治三(一二七七)年から弘安元(一二七八)年にかけて、疫病が日本国中に流行したことを表しています。
「蒙古のせめ」とは元寇、つまり中国の元の時代、大軍が日本海を渡って日本国を攻めてきた事件のことです。文永十一(一二七四)年の「文永の役」、弘安四年の「弘安の役」と二度起こっています。

「とにかくに死は一定なり。其の時のなげきはたうじのごとし。」
(通釈)
「とにかく生まれた已上は、死ぬということは定まっていることです。その時の歎きは法難を受けている今と同じことです。」

「をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ。つゆを大海にあつらへ、ちりを大地にうづむとをもへ。」
(通釈)
「そうであるならば、かりそめにも法華経のために命を捨てなさい。露を大海に入れ、塵を大地に埋めるようなものと思いなさい。」
と、仰せになっています。

この御文について総本山第六十七世日顕上人は、
「小さな露も大きな海に託せばその広大な徳に入る如く(中略)小さな塵も大地にうずまってその甚大な徳の一分となる如く、法華経の大海、大地に我らの小さい生死を入れて、大いなる仏の功徳となることを思えという意義」
(大日蓮・平成十七年五月号)
と御指南なされています。
大聖人様は、このように仰せになり、死と隣り合わせだった当時の状況を鑑み、気力を奮い起こして益々信心に励みなさいと奮励なされています。

それでは、今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。
一つ目は「自ら誓願を立て、折伏実践しよう」ということです。
本抄では、当時流行した疫病や蒙古という外敵襲来が打ち続く時の上から、「我が弟子等、大願ををこせ」と激励なされています。
大聖人様が仰せの大願とは、『御義口伝』に、
「大願とは法華弘通なり」(御書一七四九㌻)
と仰せのように法華経即ち、大聖人様の正法を弘通することであります。
この大願のもとに建長五年四月に立宗宣言あそばされました。その時の誓いは、『開目抄』に、
「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等と誓ひし願やぶるべからず」(御書五七二㌻)
と、三大誓願と言われる大願を立てられ、一切衆生を救い続けるとの、末法の教主としての境地を宣言遊ばされたのであります。大聖人様は、その自覚の元、法華経を色読なされ、あらゆる法難を忍ばれたのです。
そして、相州竜ノ口に於いて発迹顕本なされ、上行菩薩の外用を払い久遠の本地を顕されたのです。そして、
「はじめて法華弘通のはたじるしとして顕はし奉るなり」
(御書一三八七㌻)
との御本尊を顕されたのです。
私達は、此の御本尊様に向かい奉り至心に唱題することによって絶対的な幸福境界をもたらす信心、つまり善心を養うことができるのです。その善心が即身成仏につながることを『御講聞書』に、
「善心とは法華弘通の信心なり。所謂南無妙法蓮華経是なり」(御書一八四五㌻)と仰せなのであります。
この善心は、「広宣流布の大願」(御書六四二㌻)と、本抄に仰せの「願はくは我が弟子等、大願ををこせ」との確固たる発心が大事であります。
釈尊が説かれた法華経の「法師品第十」に、
「薬王、当に知るべし。是の諸人等は、已に曽て十万億の仏を供養し、諸仏の所に於て、大願を成就して、衆生を愍れむが故に、此の人間に生ずるなり。薬王、若し人有って、何等の衆生か未来世に於て、当に作仏することを得べきと問わば、応に示すべし。」(法華経三一九㌻)
との教えから法華弘通の大願成就があります。その大願を成就するため、衆生を愍み御誕生あそばされたのが、外用は上行菩薩で内証が御本仏の宗祖日蓮大聖人であります。この大願を発して自行化他に精進することが末法のあるべき仏道修行となります。末法では仙薬となる本門の本尊を信じ、南無妙法蓮華経のお題目を唱えることを教えられています。
数十年後の未来に、日本の人口減少がささやかれるなか、「大願とは法華弘通なり」との折伏行が絶対に必要なのです。折伏行が前進しなければ、謗法の邪宗邪義が蔓延り、三災七難が起こることを大聖人は『立正安国論』に御指南であります。
御法主日如上人猊下は、「法華講連合会 第六〇回 総会」において、
「世の中の人々が皆、正法に背き、悪法を信じていることにより、国土万民を守護すべきところの諸天善神が所を去って、悪鬼・魔神が便りを得て住み着いているためであるとし、金光明経、大集経等を引かれて、正法を信ぜず、謗法を犯すことによって三災七難が起こると仰せられているのであります。ー中略ー『立正』とは、末法万年の闇を照らし、弘通するところの本門の本尊と戒壇と題目の三大秘法を立つることであり、正法治国・国土安穏のためには、この三大秘法の正法を立つることこそ、最も肝要であると仰せられているのであります。」
(大白法 第令和六年四月一日号)
と、『立正安国論』の極理を御指南あそばされました。現在、邪宗邪義が蔓延するために、日本国の一切衆生の人口減少が加速しつつあることを知らなければなりません。
戦後、一時期、昭和時代には人口が増加し憲法で信教の自由が保障されて、御授戒を受け、日蓮正宗に入信され本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経のお題目を唱える人も多くなり、仏法的な果報として経済も高度成長できたものと思います。その後、平成になり本門戒壇の大御本尊から離脱した創価学会などによる謗法により、正法正義の人口が減り、同時に平成には、その罪過によると考えられる経済的なバブル崩壊が社会的にありました。
『南部六郎殿御書』に、
「山家大師は『国に謗法の声有るによて万民数を減じ、 家に讃教の勤めあれば七難必ず退散せん』」(御書四六三㌻)
と、山家大師、即ち伝教大師最澄の言葉を引用されて、謗法の邪説を唱える声が多くなれば人口が減少することを警告あそばされております。
 大聖人様の大願は法華弘通すなわち広宣流布であり、広布達成のためには一人ひとりが誓願を立て折伏を実践することこそ、今最も大事大切なことなのであります。
そもそも天台大師は『摩訶止観』に
「誓願がないのは、手綱を引く者のいない牛がどこに行って良いか彷徨うようなものであり、誓願を立てることによって修行を持続し目的も達することができる」
(取意・学林版摩訶止観会本下一九五)
と示されています。
 ですからまず私たちは、自分自身の折伏誓願を立て、そこに向けて実践していくことが大事なのです。その信心姿勢を貫いてこそ、大聖人様が『最蓮房御返事』に仰せの、
「一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」(御書六四二㌻)
と仰せのとおりの大功徳があり、広宣流布も実現できるのです。私たちは、必ずや妙法広布を実現させるという大きな気概をもって、折伏弘通に励むことが肝要なのです。

ポイントの二つ目は「功徳溢れる充実した人生を送ろう」ということです。
南条時光殿は大聖人様の激励を受けながら諸難を克服し、退転することなく信心を貫き通しました。弘安五年には 病が重篤となりましたが、大聖人様の御祈念と日興上人の御教導を受けて病魔を退散せしめ、それからさらに五十年の寿命を得たのです。
総本山第六十六世日達上人は、本抄の「法華経のゆへに命をすてよ」との御教示について次のように御指南です。
「我々のこの凡夫が信心によって仏の世界にはいる(中略)我々のこの煩悩の心をお題目によって仏の大きな心に入れば、本当の仏の大きな心と一つとなる。そこに信心を強くして南無妙法蓮華経と唱えなければならない。これを大聖人様が上野時光殿に、熱原の法難の人の心をたたえて教えられた」(達全二-二-五九六)
と御指南であります。
正法を受持する者にとって、意義ある人生とは、ただ長生きすることや娯楽にふけることではなく、いかに自行化他の信心を実践できたか、また御本仏の大願である広布のために御奉公させていただいたか、ということによって決まるのです。
私たちは今こそ、真剣な唱題に徹し、敢然と折伏弘通に励み、功徳溢れる充実した人生を歩んでいこうではありませんか。

最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。
「一人ひとりが「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」ということを心肝に染めて、一生懸命に 折伏を行じることが、我々の一生成仏にとって極めて大事なことである(中略)「身命を捨てゝ」というのは、わけもなく命を無駄にするという意味ではなく、我ら人間に与えられた寿命という尊い時間を広布のために無駄なく使っていくということです。つまり、その尊い時間を大事にして折伏を行じていくということであります。」(折伏要文二七〇㌻)
と、御指南なされ、寿命という尊い時間を広宣流布のために使うこと。つまり尊い時間を使って折伏していくことが大事だと御指南なされました。

今月は、宗旨建立の月であります。
大聖人は『諌暁八幡抄』に、
「今日蓮は去ぬる建長五年癸丑 四月廿八日より、今 弘安三年太歳庚辰 十二月にいたるまで二十八年が間又 他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。」(新編一五三九㌻)
と、御本仏の大慈悲をお示しになっています。

また、『諸法実相抄』には、
「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり」(御書六六六㌻)
と仰せのように、広布実現に向けた弛まぬ前進が肝要です。まずは自分が動くことです。動けば必ず道が開いていきます。今こそ折伏を実践して、自身の誓願と支部の誓願目標を必ず成就してまいりましょう。