御報恩御講住職指導(令和7年3月)

 ここ最近、全国各地で陥没事故や森林火災、住宅火災が頻発しております。このように本年も例外なく、邪義邪宗謗法の害毒をはじめ、世の中の五濁爛漫たる実状が、こうした人々の苦悩と混乱の因果として、その恐るべき果報が顕著となっております。さてこの五濁とは、刧濁・煩悩濁・衆生濁・見濁・命濁の五つをいいます。刧濁とは、戦争・疫病・飢饉などが起こり世の中が乱れるといった、時代そのものの濁りであり、総じて他の四濁が盛んになっていることを意味します。煩悩濁とは、貪・瞋・癡・慢・疑の五鈍使などの煩悩による身心の濁りをいいます。衆生濁とは、煩悩に冒された衆生の集まり、いわゆる社会全体の濁りをいい、刧濁同様全体的、総合的な濁りを意味します。見濁とは、身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見の五利使など、人々の思考、思想的な濁りをいいます。命濁とは、身心ともに衆生の生命そのものが濁り弱まることや、寿命が短減することをいいます。そして、煩悩濁と見濁が根本となって衆生濁となり、その連鎖によって命濁が生じて、時が経つと刧濁という時代全体の濁りになっていきます。
 こうした五濁が爛漫となっている世情混乱のなか、大聖人様は『御義口伝』に、「日蓮等の類は此の五濁を離るゝなり。我此土安穏なれば劫濁に非ず、実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず、煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず、五百塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり。正直捨方便但説無上道の行者なれば見濁に非ざるなり」と、五濁悪世末法の時代であるからこそ、妙法の受持信行による功徳により、その濁りに染まることなく成仏得道の尊い境界が得られることを御教示されております。しかし、令和の法華講衆といえども、ひとたび身口意三業に五鈍使・五利使といった迷いの姿があったならば、俗世間の人々同様に五濁悪世の荒波に飲み込まれてしまいます。
 よって、いかにそうした境界に堕することなく、清浄なる境界を構築すべきかを考えた時、大聖人様が『得受職人功徳法門抄』に、「我等末法五濁乱漫に生を受け、三類の強敵を忍んで南無妙法蓮華経と唱ふ。豈如来の使ひに非ずや。豈霊山に於て親り仏勅を受けたる行者に非ずや。是豈初随喜等の類に非ずや。第五十の人すら尚方便の極位の菩薩の功徳に勝れり。何に況んや、五十已前の諸人をや。是くの如く莫大の功徳を今時に得受せんと欲せば、正直に方便たる念仏・真言・禅・律等の諸宗諸経を捨てゝ、但南無妙法蓮華経と唱へ給へ。至心に唱へたてまつるべし、唱へたてまつるべし」と仰せの通り、お題目を至心に唱え尽くして行くことがまずもって肝要であります。
 さらに『法華初心成仏抄』には、「今日本国を見るに、当時五濁の障り重く、闘諍堅固にして瞋恚の心猛く、嫉妬の思ひ甚だし。かゝる国かゝる時には、何れの経を弘むべきや。答へて云はく、法華経を弘むべき国なり。其の故は法華経に云はく「閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん」等云云」と、大聖人様の御遺命たる広布大願の為に、慈悲の境界に立って折伏弘教に挺身して行くことこそが、我が身心を浄化矯正する唯一の方途であることを銘記し、本年こそは志新たに必ず折伏成就すべく、日々の自行化他に亘る信心に邁進して行くことを固く決意し精進すべき大事な年であります。どうか、その意とするところをお汲み頂き、うららかな春をお迎え頂きたいと念願します。