御報恩御講(令和7年2月)

令和七年二月御講           
寂日房御書 (一三九三ページ)
弘安二年九月十六日  五十八歳

 

 経(きょう)に云(い)はく「日月(にちがつ)の光明(こうみょう)の能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除(のぞ)くが如(ごと)く、斯(こ)の人(ひと)世(せ)間(けん)に行(ぎょう)じて能(よ)く衆生(しゅじょう)の闇(やみ)を滅(めっ)す」と此(こ)の文(もん)の心(こころ) よくよく案(あん)じさせ給(たま)へ。「斯(し)人(にん)行(ぎょう)世(せ)間(けん)」の五(いつ)つの文(もん)字(じ)は、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)末法(まっぽう)の始(はじ)めの五百年(ごひゃくねん)に出現(しゅつげん)して、南無妙法蓮華経の五字(ごじ)の光明(こうみょう)をさ(指)しい(出)だして、無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)の闇(やみ)をてらすべしと云(い)ふ事(こと)なり。日蓮(にちれん)等(とう)此(こ)の上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の御(おん)使(つか)ひとして、日(に)本(ほん)国(ごく)の一切衆生(いっさいしゅじょう)に法華経(ほけきょう)をう(受)けたも(持)てと勧(すす)めしは是(これ)なり。

 

さて、今月拝読の御書は、『寂日房御書』であります。
本抄は、弘安二年(一二七九)九月十六日、大聖人様御歳五十八歳の時に認められた御書であります。御真蹟は現存しません。
対告(たいごう)衆(しゅ)は、定かではありませんが、本文中に「よめ(嫁)のしうとめ(姑)になる事」とあり、ご婦人に宛てた御手紙と考えられます。さらに「日蓮をうみ出だせし父母」と、御両親に触れられています。大聖人様の御書において、御両親について触れられているのは、直接的な関係や因縁のある房州(安房国)に住む方へのものがほとんどですから、本抄を賜った方は、房州に住む、信心の強いご婦人であり、その御婦人の許へ寂日房を使者として届けたことが推察されます。寂日房と聞きますと、皆様の中では総本山塔中の寂日坊を思い出す方もいると思います。その通りでございまして、あの寂日坊を建立された寂日房日華(にっけ)という方です。出身は甲斐秋山氏の一族、或いは、房州小湊の佐久間氏出身説がありますが、断定する決め手がありません。日興上人が甲斐方面を弘教された建治年間以降に弟子の日仙・日伝と共に日興上人の門に投じ、弟子になりました。日興上人が後に定めた六人の高弟、本六と申しますが、本六の中で第三祖日目上人に次ぐ御弟子です。本拠としていたのは鰍沢(かじかざわ)の蓮華寺で、秋山氏一族等の 弘通の拠点としたようです。また、本山妙蓮寺の勧請(かんじょう)開基(かいき)でもあり、大変勲功(くんこう)のあった方であります。勧請(かんじょう)開基(かいき)とは、高徳の故に、そのお寺の開山に並ぶ功績のことです。弟子の日仙は、総本山塔頭に上蓮坊を建立しておりますが、日興上人の御本尊の授与書きに百貫坊とありまして、百貫坊とも称せられていました。上蓮坊は今の百貫坊であります。甲斐の秋山氏が、所領替えのため讃岐に下った際には、それを助けて讃岐の高瀬に法華堂(高瀬大坊)を創して、現讃岐本門寺の基礎を築いております。
 本日拝読の『寂日房御書』は、本門戒壇の大御本尊御建立の直前に認められ、まさに大聖人様御化導の完成期に 認められた御書でありますから、本抄の内容は御本仏としての御振る舞いを強く感じられるのであります。 
本抄でははじめに「受け難き人身(にんしん)を受け値い難き仏法に出値い、南無妙法蓮華経の題目の行者となった」ことを称賛されています。 次いで「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」(御書一三九三㌻)と述べられ、すでに法華経勧持品  二十行の偈を身読したのは日蓮一人であることを明かし、この日蓮を生んだ父母は一切衆生の中でも大果報の人であると仰せられています。
また、日蓮との名乗りは自ら仏の境界を悟った故であるとされ、この日蓮の弟子・信徒となることは宿縁が深いためであると思って、日蓮と同じく法華弘通(折伏)に邁進すべきであると御教示であります。

このことを、よくよく念頭に置きながら、いつものように通釈をしてまいります。

経(きょう)に云(い)はく「日月(にちがつ)の光明(こうみょう)の能(よ)く諸(もろもろ)の幽冥(ゆうみょう)を除(のぞ)くが如(ごと)く、斯(こ)の人(ひと)世(せ)間(けん)に行(ぎょう)じて能(よ)く衆生(しゅじょう)の闇(やみ)を滅(めっ)す」と此(こ)の文(もん)の心(こころ) よくよく案(あん)じさせ給(たま)へ。
(通釈)
「法華経如来神力品第二十一には「日や月の光明が能くすべての幽冥(暗闇や暗黒)を除くように、この人は世間に行じて、能く衆生の闇を滅する」と説かれています。この文の心をよくよく案じなさい」。

「斯(し)人(にん)行(ぎょう)世(せ)間(けん)」の五(いつ)つの文(もん)字(じ)は、上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)末法(まっぽう)の始(はじ)めの五百年(ごひゃくねん)に出現(しゅつげん)して、南無妙法蓮華経の五字(ごじ)の光明(こうみょう)をさ(指)しい(出)だして、無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)の闇(やみ)をてらすべしと云(い)ふ事(こと)なり。
(通釈)
「「斯人行世間」(この人は世間に行じて)の五つの文字は、上行菩薩が末法の始めの五百年に出現されて、南無妙法蓮華経の五字の光明を高く掲げ、無明煩悩の闇を照らすべしということであります」。
○無明煩悩の闇=無明煩悩とは、無明(一切の煩悩の根本)と煩悩(欲望や妄念のこと、成仏得道の障りとなる一切の迷い)の併称。衆生が無明煩悩に覆われて真理を覚ることができない状態を闇夜に譬えたもの。

日蓮(にちれん)等(とう)此(こ)の上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)の御(おん)使(つか)ひとして、日(に)本(ほん)国(ごく)の一切衆生(いっさいしゅじょう)に法華経(ほけきょう)をう(受)けたも(持)てと勧(すす)めしは是(これ)なり。
(通釈)
「(今、)日蓮等がこの上行菩薩の御使いとして、日本国の一切衆生に法華経を受け持つべしと勧めたのは、この経文に応ずるものであります」。

このように大聖人様は仰せになり、房州に住むご婦人に対して、より信心を強くして日蓮と同じように折伏をしていきなさいと教えられております。
それでは、何時ものように今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。
一つ目は「衆生救済の御本仏は日蓮大聖人」ということです。
本日の御聖訓に引用される「斯人(しにん)行(ぎょう)世間(せけん)」の五文字について、大聖人様は、
「人の文字をば誰とか思し食す、上行菩薩の再誕の人なるべしと覚えたり」(右衛門大夫殿御返事・御書一四三五㌻)
と示されています。
また、本抄においても
「一切の物にわたりて名の大切なるなり(中略)日蓮となのる事自解仏乗(じげぶつじょう)とも云ひつべし」(御書一三九三㌻)
と仰せられています。

自解仏乗(じげぶつじょう)とは、師から教えを受けることなく自ら仏の境界を悟り、仏法の深義を解することです。
『妙密上人御消息』には、
「聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり(中略)所謂 天台・伝教の二人なり」(御書九六七㌻)
と、天台・伝教のお二人を、「自解仏乗の聖人」と仰せであります。しかし、このお二人は大聖人の下種仏法からみれば脱益の迹門の自解仏乗であります。
 本抄で大聖人様は、「日蓮と名乗る」ことが自解仏乗であるとお示しになっています。
 さらに、『四条金吾女房御書』に、
「明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり」(御書四六四㌻)
とも示されています。

 まさに、大聖人様御自身こそ法華経に予証された、日月のごとく衆生の闇を照らし、濁悪の世にあって常に蓮華のごとく清らかに法を説く者にほかならないことを明かされています。
 また、『開目抄』には、
「仏世尊は実語の人なり、故に聖人・大人と号す」
(御書五二九㌻)
と仰せのごとく、三世を通達する「聖人」との意義、そして衆生を成仏へと導く本仏という「大人」との意義の上から、私たちは御自らの名乗りであり仏様の別号でもある「大聖人」と尊称申し上げるのです。
私たちは、末法において一切衆生を救済される仏は日蓮大聖人ただお一人であること、成仏の大法はその御本仏の法魂まします本門戒壇の大御本尊に極まることを強く確信し、日々の信行に一層精進することが大事なのです。

二つ目は「日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」ということです。
大聖人様は、常に人々の幸せを願って忍難弘通の御化導を示されました。私たち弟子・信徒は、今回の御手紙において「かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」(御書一三九四㌻)と仰せのごとく、大聖人様との過去世からの深い因縁を自覚し、懸命に折伏を実践して、広宣流布への前進を図ることが大切です。
総本山第六十七世日顕上人は、次のように御指南されました。
「ここで考えなければならないことは、御婦人に対して 『日蓮と同じく法華経を弘むべきなり』と仰せになっていることであります(中略)この『寂日房御書』を拝しても解るとおり、大聖人の正法を信じ奉る僧俗は共に他に向かって折伏し、自行化他の修行に精進しなくてはならないのであります」
(日顕上人全集一-一-一一〇八㌻)

と御指南されています。やはり、私たちの信心修行の要は僧俗一致・異体同心しての折伏実践、これに尽きるのです。

 最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。
「過去・現在・未来と続く三世において「法華経」すなわち本門戒壇の大御本尊様から離れないことが最も大事である(中略)「受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり」(御書七七五㌻)との御聖訓を拝し、昼夜朝暮に怠りなく信心に励んでいくことが、私どもの一生成仏にとって最も肝要であることを銘記すべきであります。」
(大日蓮・令和六年十二月号)
このように御指南なされ、御本尊様を堅く信じて、信心を全うすることが一生成仏のために大事だと御指南されました。

今月は、宗祖日蓮大聖人御聖誕の月です。大聖人様の御出現あってこそ、私たちは正法を信じ修行することができるのですから、御報恩のため、真剣に唱題を重ねて折伏に打って出ることが何よりも肝心です。
 そこに、必ず自身の罪障消滅と幸福への善因があることを固く信じ、共々「活動充実の年」にふさわしい信行に徹しようではありませんか。