御報恩御講住職指導(令和7年2月)
世の中誰しもが安穏なる毎日を送り何不自由なく生活できることを望むのは当然のことですが、人は皆過去世からの宿命を背負い今生現世に生を受け、その宿命に向かい合いながら時に自身の三毒煩悩により、更なる迷いの道へと進むことがあります。
大聖人様は『女人成仏抄』に、「一切衆生、法性真如の都を迷ひ出でて妄想顛倒の里に入りしより已来、身口意の三業になすところ、善根は少なく悪業は多し」と仰せの如く、そもそも私たち末法の衆生は、ややもすると十悪五逆といった身口意三業の行業による悪業を積み累ねてしまいます。この十悪とは、身口意三業に振り分けて、身業の三悪として「殺生・偸盗・邪淫」、口業の四悪として「妄語・綺語・悪口・両舌」、意業の三悪として「貪欲・瞋恚・愚癡」の十種の悪業であり、五逆とは堕地獄必定とされる「殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧」を言いますが、特に今日の世情を察すれば、これら十悪五逆の姿が日々メディア等によって報道されており、五濁悪世末法の世相を彷彿とさせております。私たち日蓮正宗の僧俗であっても、信仰しているからといって、我意我見が強く油断するようなことがあったならば、こうした悪業を犯してしまいかねません。
さらに又大聖人様は『開目抄』に、「仏法の鏡は過去の業因を現ず。般泥洹経に云はく「善男子、過去に曽て、無量の諸罪、種々の悪業を作るに是の諸の罪報は、或は軽易せられ、或は形状醜陋、衣服足らず、飲食麁疎、財を求るに利あらず、貧賤の家、邪見の家に生まれ、或は王難に遭ひ、及び余の種々の人間の苦報あらん。現世に軽く受くるは、斯れ護法の功徳力に由るが故なり。」云云」と仰せであります。つまり過去世からの因縁宿習によって様々な苦悩の姿が浮き彫りとなり、その一々について、『一、「軽易せられ」とは人々から軽んぜられ、侮られる意。二、「形状醜陋」とは、顔かたちが非常に醜く、卑しいという意。三、「衣服足らず」とは、着る物を充分に得ることができない意。四、「飲食麁疎」とは、飲食物が粗末で、しかも充分に得ることができない意。五、「財を求るに利あらず」とは、色々と財産を得ようと努力しても利を得ることができない意。六、「貧賤の家」とは、貧しく賤しい家に生まれる意。七、「邪見の家」とは、宗教や哲学、道徳その他において、非常に邪な見解を持つ家に生まれる意。八、「王難に遭ひ」とは、国家の政治権力、特に首とするものからの取締り等によるところの難に値う意』との意味であります。
しかし、我々日蓮正宗の僧俗は十四誹謗を犯すことがないように精進するのは当然のこと、こうした十悪五逆といった身口意三業の悪業を犯すことなく、さらに『日蓮正宗要義』に、「正法を受持したことが縁となって、様々の苦難が現れるのではあるが、それは自らの過去の謗法の業因によるのであり、むしろ現在の正法信仰の功徳によって、軽く受けて罪障を消滅する因縁が生じていることを知って喜ばなければならない。これが大聖人の仰せの転重軽受の功徳である」とあり、無始以来の罪障消滅宿業打開に努めて現世安穏後生善処の果報を頂けるよう、大聖人様の御教示の通りに自行化他にわたる信行の実践に真剣に励み、自身の身口意三業を日々省みつつ、信心を自身の都合の良いように解釈したり、増上慢を起こすことがないよう我が身を戒め、ただ一心に大聖人様の御遺命たる広布大願に向けて、世情の浄化矯正や人々の苦悩の人生を幸福なる人生へと転じていく、破邪顕正の信心に深く住して、自らの境界をより高くより尊く持つことが肝要であり、今こそ令和の法華講衆として「護法の功徳力」を生ずる為に、自分には何ができるのか、何に資していくべきかをよく考え実践することを銘記して頂きたいと念願します。