御報恩御講(令和7年1月)
令和七年一月御講 四条金吾殿御返事 (五九九ページ)
文永九年五月二日 五十一歳
貴(き)辺(へん)又(また)日蓮にしたがひて法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)として諸人(しょにん)にかたり給(たま)ふ。是(これ)豈(あに)流(る)通(つう)にあらずや。法華経(ほけきょう)の信心(しんじん)をとをし給(たま)へ。火(ひ)をきるにやす(休)みぬれば火(ひ)をえず。強盛(ごうじょう)の大信力(だいしんりき)をいだして法華宗(ほっけしゅう)の四条(しじょう)金(きん)吾(ご)・四条(しじょう)金(きん)吾(ご)と鎌倉(かまくら)中(じゅう)の上下万人(じょうげばんにん)、乃(ない)至(し)日(に)本(ほん)国(ごく)の一切衆生(いっさいしゅじょう)の口(くち)にうたはれ給(たま)へ。
さて今月拝読の御書は『四条金吾殿御返事』であります
本抄は 文永九年(一二七二年)五月二日、大聖人様御歳五十一歲の時に、佐渡の地に於いて著され、鎌倉在住の四条金吾頼基に与えられた御書であります。
本抄御述作のおよそ半年前の文永八年十月末に佐渡に入られた大聖人様は 一冬を塚原の三昧堂で過ごされ、春になって一谷に移られ本抄を認められています。本抄の題号は、文中に煩悩即菩提の法門が示されることから、別名『煩悩即菩提書』とも称されています。
本抄お認めの前年、即ち、文永八年九月十二日、大聖人様は竜口法難に遭われ、次いで佐渡へ流されました。当時佐渡へ流されるということは、もう二度と生きて戻れないという意味を持っていましたので、信徒の中でも動揺し、我が身の保全から退転する人も多く出たのです。また、弟子の中には住居を追われたり、捕らえられ土牢に入れられたり、激しい迫害を受けたのです。
このような嵐のような大法難のなかでも、四条金吾殿の信心は少しも揺らぐことなく純粋な信心を貫き通しました。
それどころか四条金吾殿は大聖人様にお会いしたい一心で文永九年の春、海を越えて佐渡を訪れています。本抄は、金吾殿が佐渡へ渡られたおよそひと月後に認められ、金吾殿本人の佐渡来訪に対して感謝の意を述べられています。
また大聖人様は本抄をお認めの二カ月ほど前に、人尊開顕の書である『開目抄』を著され、金吾殿をはじめ、門下一同に下されています。その翌年には、法本尊開顕の書である『観心本尊抄』を著されています。本抄は、『開目抄』と『観心本尊抄』の中間にお認めの御書ですから、その内容には重大な御法門の意義が篭められていると拝することが出来ます。
本抄の中で、「本門寿量品の三大事」 (御書五九七頁)との御言葉があります。三大事とは三大秘法の御事でありまして、大聖人様が本抄において、初めて三大秘法を示されたのであり、大聖人様御一期の御化導の上で大変重要な意義が拝されるのであります。
総本山第六十七世日顯上人が御説法なされた内容を拝しますと本抄を四つの内容に分けて御説法なされています。(大日蓮・平成四年十二月号趣意)
その内容を簡潔にご紹介しますと
①最も深い即身成仏の大法が南無妙法蓮華経であること
②お題目を唱えるところ我々の煩悩の姿がそのまま菩提の大功徳として成ぜられること
③この正法をいかなることがあっても強盛な大信力をいだして持ち通さなければならないこと
④夫婦和合、異体同心しての信心が大切なること
以上四つの要点が拝されます。このうち、本日拝読の御文は、「③の、この正法をいかなることがあっても強盛な大信力をいだして持ち通さなければならないこと」の箇所でありまして、四条金吾殿の信心を称賛されつつ、弛むことなく信心を貫くよう激励なされている御聖訓であります。
このことをよくよく念頭に置きながら、いつものように通釈をしてまいります。
「貴(き)辺(へん)又(また)日蓮にしたがひて法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)として諸人(しょにん)にかたり給(たま)ふ。是(これ)豈(あに)流(る)通(つう)にあらずや。」
(通釈)
「あなた(四条金吾殿) もまた 日蓮に従って、法華経の行者として多くの人に教えを語り伝えています。これこそ法華流通の相であります。流通とは教えが弘まること、また、弘めることを言うのです 。」
「法華経(ほけきょう)の信心(しんじん)をとをし給(たま)へ。火(ひ)をきるにやす(休)みぬれば火(ひ)をえず。」
(通釈)
「法華経の信心を貫き通していきなさい。火をつけるのに、途中で休んでしまったならば火を得ることは出来ないのです。」
「強盛(ごうじょう)の大信力(だいしんりき)をいだして法華宗(ほっけしゅう)の四条(しじょう)金(きん)吾(ご)・四条(しじょう)金(きん)吾(ご)と鎌倉(かまくら)中(じゅう)の上下万人(じょうげばんにん)、乃(ない)至(し)日(に)本(ほん)国(ごく)の一切衆生(いっさいしゅじょう)の口(くち)にうたはれ給(たま)へ。」
(通釈)
「強盛な大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と、鎌倉中の人々、はては日本国のすべての人の口から謳われるようになりなさい。」
と、このように仰せであります。
それでは今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。
一つ目は「法華経の信心をとをし給へ」ということです 。
今回の 『四条金吾殿御返事』を認められた時期は、大聖人様が佐渡配流の身となり門下 一同に動揺が走る中、北条家の内紛が起こり(二月騒動)、『立正安国論』 に予証された後災の一つである自界叛逆難が現実となった直後でした。
この動乱期にあっても四条金吾殿は、遠く佐渡の大聖人様のもとを訪れ御供養の品々をお届けし、外護の任を果たされています。また、鎌倉にあっては門下の団結と妙法弘通に尽力していたことが、御書から拝せられます。
大聖人様の佐渡配流という法難の余波は弟子檀那にも及び、信心を持ち続けることすら命懸けの状態でした。そのような折、大聖人様は今回の御聖訓に「法華経の信心をとをし給へ」と仰せられ、いかなる難に遭っても信心を貫き通すこと 。
また「貴(き)辺(へん)又(また)日蓮にしたがひて法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)として諸人(しょにん)にかたり給(たま)ふ」と仰せのように、日蓮に従って法を弘めることの大事を御教示されています。つまり信心に不退なく折伏を実践するところに、大聖人様の御意に適った仏道修行があるのです。
細菌学者として有名な野口英世は、明治二十九年(一八九六年)九月、十九歳の時に、医師の資格を取る受験のため上京する際に自宅の床柱にある言葉を刻みました。「志を得ざれば、再び此地を踏まず」というものです。英世が、そもそも医師になろうとしたきっかけは、一歳半の時に囲炉裏に落ちて左手に大火傷を負い、家業である農業が出来なかったことにあります。小学校時代、小林 教頭先生や同級生等の同情を誘い手術費用を集める募金が行われました。当時会津若松にて開業医をしてた渡部(わたなべ)鼎(かなえ) 先生の手術を受け、不自由ながらも左手の指が使えるようになったのです。恩師や友達の友情、そして渡部先生から受けた手術に感激し、医師を目指したようです。柱に刻んだ言葉は、自分は医者にならなければ、再び生きて故郷の土を踏まないとの、強い決意がうかがわれます。「初志貫徹」という言葉が有るように、大きな志を持って信心修行に精進したいものであります。
二つ目は「折伏実践の功徳は現証として顕れる」ということです。
大聖人様が佐渡配流を赦免されると、金吾殿は意を決して積年の大願であった主君・江間氏への折伏を敢行(かんこう)します。すると、同僚たちの怨嫉(おんしつ)による誹謗(ひぼう)や、それを真に受けた主君の命による領地替え、謹慎など、三障四魔の働きによって数々の試練(しれん)が嵐のように降りかかりました。
しかし金吾殿は、妻・日眼女と力を合わせて信心を貫き、あらゆる難を忍びました。その結果、数年後には主君の信頼も回復し、没収されていた領地も返還・加算されたのです。そして建治四(一二七八)年一月には、出仕の列に加えられ、「お伴(とも)の侍が二十四、五人いるなかで(中略)背の高さといい、顔立ちといい、魂といい、乗る馬から下人に至るまで第一であり、中務左衛門尉(なかつかささえもんのじょう)(金吾殿)は立派な男であると、鎌倉中の子供達が辻々で話している」(『四条金吾殿御書』御書一一九七頁趣意)と仰せになっています。本日拝読の御文に「四条金吾・四条金吾と(中略)日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」と大聖人様が励まされたとおりの姿を示すことができたのです。
御法主日如上人猊下は、昨年四月の広布唱題行の砌、次の様に御指南なされました。
「さて大聖人様は『法華初心成仏抄』に、『一度(ひとたび)妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵(ぼん)王(のう)・帝釈(たいしゃく)・閻魔(えんま)法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯(ただ)一音(いっとん)に喚(よ)び顕はし奉る功徳無量無辺なり』(御書一三二〇頁)と仰せられています。まさに唱題こそ、一切の仏、一切の法、一切の菩薩をはじめ九(く)法界(ほっかい)の衆生など、一切衆生の心中の仏性を「唯(ただ)一音(いっとん)」によって喚(よ)び顕(あらわ)す、計り知れない功徳を存しており、その仏性(ぶっしょう)喚起(かんき)の功徳はまことに大きく無量無辺であります。よって、この広大無辺なる功徳と歓喜をもって折伏を行ずれば、折伏に当たって必要なあらゆる力が具(そな)わり、いかなる困難も障害も乗り越え、誓願を達成することができるのであります。例えば、唱題の功徳によって、折伏に対する強い意欲と仏様の使いとしての自覚と使命が喚起(かんき)され、苦悩に喘(あえ)ぐ人を一人でも多く折伏せずにはいられないという強い一念が涌(わ)いてくるのであります。また、いかなる悪口(あっく)罵詈(めり)、批判、中傷(ちゅうしょう)などに対しても一切動揺せず、柔和(にゅうわ)忍辱(にんにく)の衣を着て、慈悲の心を持って相手を折伏することができるのであります。そして、一切の執着に執(と)らわれず、不自惜(ふじしゃく)身命(しんみょう)の断固たる決意をもって折伏を実践することができます。さらに、いかなる人に対しましても畏(おそ)れることなく、相手に応じて自在に法を説くことができます。かくの如く、たとえ我が身は末法(まっぽう)本未有善(ほんみうぜん)の荒(あら)凡夫(ぼんぷ)であっても、至心(ししん)に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、無限大の功徳と力が具わってくるのであります。」(四月度広布唱題会の砌・令和六年四月六日於総本山客殿)と仰せになっています。
たとえ多くの苦難が押し寄せたとしても、御本尊への 絶対信をもって不自惜身命の姿勢を貫くならば、私たちも最善の果報を得ることができます。今こそ、何としても折伏行に邁進していこうではありませんか。
最後に御法主日如上人猊下は次のように御指南されています。
「折伏は御本仏(ごほんぶつ)宗祖(しゅうそ)日蓮大聖人様からの御遺(ごゆい)命(めい)であります。よって、私どもは何を差し置いても、大聖人様の御遺(ごゆい)命(めい)のままに破邪(はじゃ)顕正(けんしょう)の折伏を行じて、一人でも多くの人々の幸せを願い、悔いなく戦いきっていくことが今、最も肝要なのであります。」(大日蓮・令和六年十一月号)このように御指南なされ、大聖人様からの御遺命である破邪顕正の折伏に励む大事を御指南されました。
令和七年「活動充実の年」の初頭にあたり、本年の折伏誓願を成就するため、全国・全世界で一斉に一月唱題行が行われています。混迷深まる世の中を仏国土へと変えていくためにも、今年は昨年以上に活動を充実させ、唱題につぐ唱題、真剣なる祈り、そして勇気ある行動をもって折伏行に徹し、本年こそ折伏目標を達成してまいりましょう。