宿命について(令和7年1月)

宿 命 に つ い て(しゆくめいについて)             

 

 今日は「宿命(しゆくめい)」について、「八歳で亡くなった男の子」の話と、仲が悪かった「女の子と白い犬」の話をします。
 むかし、京(きよう)の都(みやこ)より東国(とうごく)の任地に赴(おもむ)く男の一行がいました。途中、日が暮れたので、ある村里の一軒(いつけん)の門構えのある家に泊めてもらうこととなりました。馬は厩(うまや)に入れてもらい、供の者は別の部屋に、男は客間に通されました。
 夜もふけ、奥の方が急に騒がしくなりました。その内、年老いた女主人がやって来て、「実は、私の娘がただいま急に産気(さんけ)づきました。二、三日は大丈夫だと思い、今夜泊まってもらう事にしましたが、今にも生まれそうです。もう夜も遅いし、ほかに宿をというわけには行きませんが、どうなされますか?」と伺いました。男は、「私共は別に構いませんよ。私は、そういうめでたい事を、忌(い)み嫌(きら)ったり迷惑だとか思いませんよ」と答えました。女主人は喜んで、奥の部屋に行き、しばらくすると、赤ん坊の産声が聞こえました。「あっ、産まれたな」と思っている瞬間のことでした。男の泊まっている部屋のわきから、身長二メートル以上の大男が、「年は八歳、自害なり」とつぶやきながら外に出て行きました。なにか鬼神でも見たかのように、男は「ぞーっ」としましたが、この事を告げることなく、朝早く、女主人に礼を言って、そのまま東国の任地に旅立ちました。
 そして、九年が経過し、男は東国での任期も終わり、京の都に帰ることとなりました。途中、九年前に泊めてもらった家の前を通りかかり、男は一言お礼を言いたいと、その家をたずねました。あの女主人は大変喜んで迎えてくれました。話の中で、男はあの時生まれた子供の事をたずねました。すると急に女主人は悲しい顔になり、「とても可愛い男の子でした。ちょうど一年前、庭のあの高い木に登り、鎌で小枝を切っておりましたところ、足をすべらして木から落ちてしまい、持っていた鎌が頭にささって、そのまま死んでしまいました。本当に可哀想なことでした」と泣き出しました。
 男はその言葉を聞くと、「はっ」とするものがありました。それは、赤ん坊が生まれたあの夜のことでした。「さては、あれはまさしく鬼神だったのか。鬼神がその子の寿命を予言したものだったのか」と気付きました。その事を女主人に告げました。女主人は、驚いて更に泣きくずれました。男は京に帰り、「人の命は前世の宿業によって定まっており、今生ではその報いを受けるものであって、偶然で命を落とすものではない」と人々に言い伝えました。何事も前世の因果による宿命であるという事です。
 次に、「女の子と白い犬」の話をします。むかし、ある屋敷で十二、三歳位の女の子が奉公していました。その少女は、とてもよく働き、主人や他の奉公人からも可愛がられていました。ところがその隣の屋敷で飼っている白い犬だけは、その少女を見ると敵のように吠え、飛びかかっていきます。少女の声を聞いただけでも吠えまくります。又、その少女も白い犬をとても嫌っていて、棒でなぐりつけます。この異常な様子を見て、少女の主人も犬の飼い主も、何か特別な事情があるのだろうと不思議に思っていました。
 そんなある日のこと、少女は伝染病にかかってしまいました。病気はよくならず、まわりの人にうつるからと言って、その少女は屋敷の外の山小屋に移される事になりました。その時、少女は涙を浮べて「私が人里離れた所に移されたら、必ずあの犬が私を噛み殺しに来るでしょう。人がいる時、私が元気な時でさえ、あの犬は私に噛みついて来ます。どうかお願いですから、あの犬だけには気づかれないようにして、私を山小屋につれていって下さい」と主人にお願いしました。それを聞いた主人は、「それもそうだね。あの犬にわからないようにお前を送っていかせよう。さあ食べ物もたくさんもっておゆき。一日に、一、二回は人をやって世話させるからね。早く元気になるんだよ」と、言い励ましました。主人は隣の飼い主にもこの事を伝え、犬をつないでおくようにお願いしました。
 翌日、その犬はおとなしくつながれていましたが、次の日にはもうその犬は縄を噛み切って、そこにはいませんでした。主人と飼い主は、もしやと思い、奉公人をつれて少女のいる山小屋へ行ってみると、そこには、驚くべき姿がありました。白い犬は少女に食いついていました。少女も犬に食いついて、お互いに歯をむき出して死んでいたのです。人々は、この無残であわれな姿を見て、これは現世だけの敵ではなく、過去世からの宿世の敵であると言い合いました。
 皆さん、今日の話は、生まれた時から寿命が決まっていたという話と、お互いに憎み合っていた少女と白い犬との話でした。仏法の教えには、過去の原因によって現在の結果があり、現在の一つ一つの行い(身と口と心で行う行為)は未来の原因になると説かれています。過去に積み重ねた身口意の三つの行為による現在に於ける果報を、宿業、宿命、宿習、運命と言います。だから悪い事をしたら悪い結果が、善い事をしたら良い結果として自分自身に備わっていくのです。したがって、どんなことをしても自分に返ってくるのですから、ごまかせるとか、わからなければいいとか、何でもあり、というのは一切通用しません。このつながりは過去、現在、未来とつながっていきますので、死んだら終わりというものではないのです。
 皆さんは「私はどうしてもあの人が好きになれない」という事はありませんか?それは過去から続いている生命が持っている性格なのです。でも自分の持っている性格がいい方に変わっていく、というのが大聖人様の正しい信心です。例えば、嫌いな事が好きになる。苦しく辛いことが楽しくなるというように、私たちは定められた自分自身の宿命をこの信心、つまり御本尊様の尊いお力によって私たちの未来を変えて頂くことができるようになるのです。
 御先師日顯上人様は、「私が皆さん方に言いたいのは、あなた方一人ひとりはとてもよい子で、よいものを持っています。けれども、中には色々な事に対して不安な気持ちを持ったり、その他様々な形から不幸になったり、嫌な気持ちを持って生活をしているような人も、或はいるのではないかと思うのです。しかし、とにかくしっかりとお題目を唱えることで、自分自身が持っている最高の力を発揮することが出来るという事を申し上げたいのです。それが、一番なのです」と御指南されました。
 この日顯上人様のお言葉を自分の生活に信心に実践して、宿命宿業の打開をはかり、不安な生活から、安心感のある感謝の生活に転じていきましょう。その為にこそ、しっかり勤行や唱題を行い、まずは自分自身や毎日の生活を変えて行き、更に周りの友だちにもその大切さを伝えるように話して下さい。

1月度若葉会御講より