令和6年度 御会式布教講演
本日は、宗祖日蓮大聖人御会式奉修、誠におめでとうございます。皆様方におかれましては、本日の御会式を契機に、志新たに本年残す日々を、より有意義により尊い信行実践の日々をお送り頂き、折伏誓願目標達成へ向け、更にまた、明年に繋がるような弛まざる御精進を心よりお祈り申し上げます。
さて、本日は『凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり』と題して、少々お時間を頂きたく存じます。
本年は元日より今日に至るまで、毎月のように自然災害が全国各地を襲い、多くの方々が被災され、尊い人命が奪われ、財物等を失い、多くの方々が避難生活を余儀なくされております。御住職が捧読された『立正安国論』の末文に、「先づ生前を安んじ更に没後を扶けん。唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」との大聖人様の御教示を拝し、まずは我が身、家族、一族の現世安穏後生善処を確立する為にも、残す三ヶ月余りの日々を、いかに過ごべきであるかを、皆様方にはよくよく考えて頂きたいと思います。
世の中の大凡の人は、平穏無事なる日々にあぐらをかき、自ら正法を求めることなく、いざ不幸の果報を迎えた時、何の因縁によってそのような結果を迎えたのかも解らず、その打開の道も知らず、途方に暮れるばかりであることは世の常であります。
ましてや、自身の寿命が尽きた時、成仏得道を無事果たせるか否かも考えずに、ただ根拠無き自信や油断により、福徳を失い罪障を積み累ねる日々を送れば、当然その科によって三悪道四悪趣の世界に没し、世間の垢に染まり、その渦中に巻き込まれて、自ら不幸な人生を招いてしまうことを、私たちは慈悲行の極みたる折伏弘教をもって、世の人々に訴えていくべきことが私たちの使命であり責務であります。そして、あらゆる方をこの法に帰依せしめ、幸せにして行くごとに、自らの不幸の因縁を一つ一つ消し去って頂くことができると確信して頂きたく存じます。
更に大聖人様は、『松野殿御返事』に、「魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は多くさけども菓になるは少なし。人も又此くの如し。菩提心を発こす人は多けれども退せずして実の道に入る者は少なし。都て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり」とも仰せになられております。要するに、人として生を受け値い難き正法に帰依したとしても、最後臨終を迎えるまでまことの信心を貫き遂げる人の少なさを訓誡なされております。
実際、創価学会や正信会、顕正会の前身たる妙信講といった謗法団体の派生と破門をはじめ、個々においても、折角入信したにもかかわらず、世間の悪縁や自身の三毒煩悩に屈してしまい、途中で退転してしまったり信心が疎かになってしまい、本来臨終に至るまで一生成仏の大果報を求め続けるべきところ、途中で頓挫し最終的に悪道に陥ってしまう方々も決して少なくありません。
更に、法統相続が確立されておらず、生前は真剣に仏道を行じていたところ、いざ臨終を迎えた後、邪宗謗法にて葬儀を執行されてしまう方もいれば、これは実際今月初頭の話でありますが、とある未入信のご婦人の父親が亡くなられ、故人の生前における日蓮正宗の信心を慮って、菩提寺がわからない為、縁あってか妙眞寺を探し出し、葬儀を願い出られ、通夜・葬儀・初七日忌法要を無事私が導師を勤めさせて頂いたという事もあります。
ですから、願わくば御自身はもとより、一家和楽の信心にて家族一同、異体同心一結団結して、大聖人様が『上野殿御返事』に、「抑今の時、法華経を信ずる人あり。或は火のごとく信ずる人もあり。或は水のごとく信ずる人もあり。聴聞する時はもへたつばかりをもへども、とをざかりぬればすつる心あり。水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり」とのように、皆様の信心も法統相続も、その流れを絶やすことがないよう、末代に至るまでこの正法を子孫へと継承し、切磋琢磨して信行に励まれて頂きたいと存じます。
御先師日顯上人は、「生活上の種々の目的のため、折伏のため、現世安穏のため、後生善処のため、あるは種々の希望や欲求満足のために、御本尊に向かい唱題することもまた、至極、結構なことであります。しかし、知ると知らざるとにかかわらず、どんな小さな利益も罰も、その元はすべて一心法界に遍満し、通ずる妙法の利益と罰であり力用であります。そのところをしっかり掴まえておけば、いかなることが起こっても動かず、恐れず、揺るぎない確信が生ずると信ずるものであります」と御指南されております。
このように日々眼前に顕れる全ての現証は、全て自分自身の宿世の因縁による果報であると覚知し、いついかなる時も御本尊様御照覧のもと、大聖人様が『聖人御難事』に、「たゞ一えんにをもい切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ」と仰せの様に、安穏なる毎日を送ることがいかに有り難いことであるか、そしていざ諸難困難を迎えた時こそ、障礙が競い起きている、罪障消滅宿業打開の機会を迎えたと達観して、より一層信行の実践に臨むことが肝要であります。
私が住職として御奉公させて頂いている妙眞寺は、後に妙眞寺初代住職となる、私の祖父である平山廣生房が一宇建立を志し、師匠の妙光寺第二代御住職・大慈院日仁贈上人を開基として、昭和八年十二月八日に「日蓮正宗信行閣」として開堂し、昭和二十二年十二月十一日には、第六十四世日昇上人の御慈悲により「本地山妙眞寺」と寺号公称し、その翌年の昭和二十三年十月十八日、法華講妙眞寺支部が結成されました。
とにかく初代住職は、私財をはじめ、売れるものは全て売り払い、境内の荘厳に当て、南無妙法蓮華経の坊主と詈られながらも、戦時国家であった我が国の世情を鑑み、城南広布の為に、そして日本の平和安穏の為に、筆舌に尽くしがたい苦労をものともせず、今日の妙眞寺の礎を築いてこられました。
そしてその頃、妙眞寺の厚隆発展に御尽力頂いた方の中に、法華講第五代講頭並びに総代を務められた北原鐡雄氏がおります。この方は、かの有名な歌人・北原白秋氏の実弟であり、北原家はもともと九州・柳川の地で浄土宗専念寺を菩提寺としておりましたが、度重なる不幸が続き、その後黒住教や金光教といった新興宗教に入信しておりましたところ、妙光寺御信徒の西尾喜三郎氏の教化を受け、昭和九年三月に鐡雄氏夫妻と、父・長太郎氏、母・シゲ氏や、実弟の義雄氏夫妻が入信されました。
この時、父・長太郎氏は高齢で両眼も失明状態でありました。しかし、朝夕の勤行と壱万遍の唱題を毎日欠かさず続け、同年夏には総本山大石寺に登山参詣し御開扉を受けられました。こうした熱烈なる信仰の結果、長太郎氏の視力は奇跡的に回復し、その敬虔なる信仰体験に心打たれた白秋氏も入信され、翌年の昭和十年正月二日に白秋氏が、翌三日に北原家御一同が総本山に登山参詣され、四日の御開扉に臨まれました。
北原白秋氏は「信心」と題する歌を詠まれており、その内容を要約して申し上げますと、「信心強盛な父親は、朝起きて日の光を感じることができずとも、口を漱いでから朝五千遍、午後三千遍、夕方お風呂に入り灯明を点けて二千遍、合計一万遍のお題目を、欠かすことなく唱え続け、その厳然たる信心は、国のため、先祖のため、子供のため、孫のためであり、子である自分は、その親心に感涙抑えがたいものである」(要約)と綴られております。
常日頃から妙眞寺法華講衆は、こうした北原氏を初めとする偉大な先輩方の信心を継承し、特に北原長太郎氏が光を失ってしまった眼を開かしめるべく、毎日一万遍のお題目、時間にして毎日五時間以上の唱題を、日々怠ることなく唱え続けられた信心を鑑として、折伏に、所願成就に、諸難困難の打開へと、何事も決して諦めることなく、一つの結果が出るまでお題目を唱え続けて行くことの大切さを噛み締めて精進しております。
また御先師日顯上人は、「すべての存在が常に幸福で安楽でいられることを願いつつ、より強く、より正しい命の実現に向かって進んでいくところに、人間として生まれた本当の意義が存すると思うのであります(中略)自分はどのような意味からこの世に生まれ、どのような意義において自分の使命があるのかということを自覚すること、そしてその自覚の上から、さらにその使命をしっかりと遂行していくことが大切であります」と御指南されております。
この御指南を拝した時、いかに私たち自身が世間の謗法の人々と同じような日々を送ることがないように、自身を戒め不信心な姿を改め、唱題一つとっても唱題が唱題で終わらぬよう、広布への志を立てて進んで信行の実践に励んで行かなければならないと感じるものであります。
例えば、一年に一回でも多く総本山へ登山参詣し、一ヶ月に一日でも多く寺院に参詣し、真心を込めて御本尊様に御供養をお供えし、先祖供養を心の及ぶまで修すること、そして一人でも多くの方に下種血縁せしめて折伏成就に奔走していくことを、皆さん一人ひとりが常に銘記され、実践して行くことが肝要であります。
特に日頃の寺院参詣について、日々世間の垢にまみれ、三毒煩悩の悪風吹きすさぶなかで、自然とそうした毒気を身に付けてしまう私たちは、常に我が身心を浄化矯正する為にこそ、日頃の寺院参詣が必要不可欠であります。どうか、寺院行事に参加するだけではなく、日頃から進んでお寺に参詣して、朝夕の勤行に参加したり、唱題を行じて福徳を増進して行こうと心掛けて頂きたいと思います。
そして、人として恥ずべき姿がないように、謙虚実直にして周囲の方々からの信頼たり得る所作振舞、発言行動を心掛け、信行実践の日々を送るところにこそ、真の幸せたる御本尊様から賜る法悦に浴し、その悦びを一人でも多くの方々と分かち合うことができるよう、自行化他にわたる行業を修して行くことが大事大切なことであります。
大聖人様は、『日女御前御返事』に、「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす」と仰せになられております。
要するに、日々の信行の実践において最も大切なことは、御本尊様を寸分たりとも疑うことなく、どこまでも信じ抜いていくということになります。
当然、日常生活の中で様々な出来事があると思いますが、その一つ一つが私たちの宿世の因縁であり深い意義があり、特に苦しい時辛い時こそ御本尊様にお題目を唱え尽くして行くことが肝要であります。時には、信心をしても状況が一向に良くならない、なかなか病魔を克服できない、折伏が成就できないと思うことがあるかもしれませんが、大事なことはそこをどう打開するか、自分には、いったい何が足りないのかを深く見極めていくかであります。
更にまた、先般の僧俗指導会にて水島総監様が、「魔とは、奪功徳者とも言い、私たちの功徳を奪い、人の不幸や苦しむ姿を喜ぶ存在でありますが、魔の用きを見破れば魔の用きが止まるのであり、また魔を退ける為には私たち自身が一生成仏の境界を確立して、魔に屈することがないよう勤めて頂くことが鍵となる」との御指導がありましたように、障魔の用きを見破れる境界を、常に持てるよう心掛けることが肝要であります。
そして、自分自身、本当に大聖人様が仰せのような信行に励んでいるかどうか。特に大聖人様は『御義口伝』に、「七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり。又云はく、頭上の七穴なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは有七宝の行者なり」と仰せになられ、信仰して行く上で心に七つの宝を具えるべく、「正法を素直に聞き、深く信じ、正法を護る心を起こし、謗法の心や誤った心を戒め、お題目を唱えて心を安定させ、信心に励む心を起こし、あらゆるものへの執着を捨て、常に自分を省みて正しい心根を持ち続けることの大切さ」を築き挙げ、また「頭上の七穴」、つまり目・耳・口・鼻の七つの穴から日々入り込んでくる様々な情報を、適切に正しく判断できるようになることの大事を説かれています。
更に皆さんが一つの結果を出す為の指針として、毎月発行されている大白法や妙教等に掲載されている体験発表を読みつつ、例えば折伏を成就する為にはどのようなことに取り組むべきか、病魔や経済苦等の諸難困難をどのように乗り越えたかを学び取り、自身の信行に当てはめて頂くことも大事なことであると思います。
そして、我意我見に執われた信心にならないよう、自分勝手な信心の姿にならないように、大聖人様の御教示を胸に、時の御法主上人猊下の御指南を拝して、油断怠りなき信心修行に励んで頂きたく存じます。
以上色々と申し上げましたが、要は皆さん一人ひとりが、それぞれの立場で如何に広布へ尽力することができるか、菩提寺の興隆発展に寄与することができるか、自分自身で自問自答し、大聖人様が『白米一俵御書』に、「仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」と御教示されおりますように、自行ばかりに終始して満足することがないよう、折伏成就をはじめ、何かしらの目標、志を立て、その達成を目指して果敢に精進して行くところに、私たちの信心の要諦が存することを肝に銘じて頂きたく念願いたします。
どうか大聖人様の御金言の一文一句、御法主上人猊下の御指南を心肝に染め、世間の動きに一喜一憂して、その流れに振り回されることがないよう、いよいよ広布大願に向かって信行倍増福徳増進され、『折伏前進の年』を悔いなく過ごされ、無事故無障礙にて無事本年の大晦日をお迎えすることができますよう心より御祈り申し上げ、本日の話とさせて頂きます。