御報恩御講住職指導(令和6年10月)

 本年は元日より今日に至るまで、毎月のように自然災害が全国各地を襲い多くの方々が被災され、尊い人命が奪われ財物等を失い避難生活を余儀なくされております。このような惨憺たる姿を拝するに、大聖人様が『立正安国論』に、「倩微管を傾け聊経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」と仰せになられているように、全ての災禍の原因は邪宗謗法の害毒をはじめ、三毒煩悩強盛なる世の人々の悪報の科によるものであることは明白であります。そうした中で、御会式法要を迎える今月、大聖人様が『立正安国論』の末文に、「今世には性心を労し来生には阿鼻に堕せんこと文明らかに理詳らかなり疑ふべからず。弥貴公の慈誨を仰ぎ、益愚客の癡心を開き、速やかに対治を廻らして早く泰平を致し、先づ生前を安んじ更に没後を扶けん。唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」と仰せの如く、まずは我が身、家族、一族の現世安穏後生善処を確立する為にも、残す三ヶ月余りの日々をいかに過ごべきであるか。今一度自身の信心を省み、大聖人様が『念仏無間地獄抄』に、「毀謗と云ふは即ち不信なり、信は道の源功徳の母と云へり。諸の悪業煩悩は不信を本と為す云云。然れば譬喩品十四誹も不信を以て体と為せり」と仰せのように、大聖人様の御心に適った信行の実践に励むことが肝要であります。
 世の中のほとんどの人は、平穏無事なる日々にあぐらをかき正法を求めず、いざ不幸の果報を迎えた時に何の因縁によってそのような結果を迎えたのかも知らず、その打開の道も分からず、途方に暮れるばかりであることは世の常であります。ましてや、自身の寿命が尽きた時、成仏得道を無事果たせるか否かも考えずに、ただ根拠無き無意味な自信や油断により、福徳を失い罪障を積み累ねる日々を送れば、当然その科によって三悪道四悪趣の世界に没し、世間の垢に染まりその渦に巻き込まれて、自ら不幸な人生を招いてしまうことを、私たちは慈悲行の極みたる折伏弘教をもって、世の人々に訴えていくべきことが今もって大事大切なことであります。そして、私たち自身も世間の謗法の徒輩と同じような日々を送ることがないように、自身を戒め不信心な姿を改め進んで信行の実践に励むことが肝要であります。
 また私たちにとって幸福とは何か。財産を蓄え裕福な暮らしを求める姿や、世間の地位や名誉に浴して喜びに浸ることが、果たして真の幸せであるのかを考えた時、第二十六世日寛上人様が、『六巻抄・当流行事抄』に、「大覚世尊設教の元意は、一切衆生をして修行せしめんが為なり。(中略)行者応に知るべし、受け難きを受け値い難きに値う、曇華にも超え浮木にも勝れり。一生空しく過ごさば万劫必ず悔いん、身命を惜まずして須く信行を励むべし」と御指南のように、仏さまが法を説かれる元意が、後に後悔することがないように、せっかく人として生を受け、値い難き正法正義に縁することができた私たちは、決して世間の流行や風潮に溺れて、進むべき道筋を見失うことがないように、常日頃から仏道修行を修して福徳増進していく為であることを肝に銘ずべきであります。そして、人として恥ずべき姿がないように、謙虚実直に信行実践の日々を送るところにこそ、真の幸せたる法悦に浴し、その悦びを一人でも多くの方々と分かち合うことができるよう、今こそ自行化他にわたる行業を修して、あらゆる決意を胸に御会式法要を迎えて頂きたいと心より念願いたします。