七宝の硯(令和6年9月)

七 宝 の 硯(しつぽうのすずり)

令和6年9月 若葉会御講

 むかし、村上天皇の代に藤原師尹(もろまさ)という左大臣(さだいじん)がいました。藤原家には先祖代々の珍(めずら)しい家宝がたくさんあり、その中でも特に大切にしていたものに、七宝という金・銀・瑠璃(るり)・硨磲(しやこ)・瑪瑙(めのう)・真珠(しんじゆ)・玫瑰(まいえ)の七つの宝石がちりばめられた硯(すずり)がありました。師尹はその硯が一番の自慢で、その家宝を息子に残してあげることを誇りとしていました。
 ある日のこと、師尹の家に仕(つか)えていた一人の若者が用事を言いつかって、その硯がある蔵(くら)に入りました。その若者は学問への志(こころざし)があり、特に書道に通(つう)達(たつ)していましたので、なんとかその硯を見てみたいと思っていました。家宝がならんでいる戸棚を開き、一番上の棚にある綿(わた)の袋を取り出して開いてみると、蒔(まき)絵(え)が画(か)かれたうるしの箱の中にその硯がしまってありました。その硯の素晴らしさは譬えようがありません。若者は手のひらに硯を置いてその美しさに見取れていました。その時、突然後ろの方で足音がしたので、若者は驚き急いで硯を元の場所に戻そうとしました。ところが、硯が手元からするりとすべって床に落ちて、真っ二つに割れてしまいました。若者は真っ青になり体はガタガタふるえ、立っていられなくなり座り込んでしまいました。
 足音の主(ぬし)は師尹の息子の若(わか)君(ぎみ)でした。年は十三才ですが、きりっとしたとても心根の優(やさ)しい少年でした。若君はブルブル震えてうずくまっている若者の肩を軽くたたいて、「泣いているが、いったいどうしたのですか?」と尋(たず)ねました。若者は返事もできません。若君が若者の足元を見ると、家宝の硯が二つに割れています。若君はそれを見て、「もう泣かなくてよい。心配はいらない。父上から硯の事を聞かれたら、『若君が硯を見ておられるうちに落とされました』と申せ」と若者に命じました。
 その三日後、師尹は蔵に入り、戸棚の中の真っ二つに割れている硯を見てビックリして腰を抜かさんばかりでした。気を取り直した師尹は、お掃除役の若者を呼びつけ、その割れた硯を見せつけ、「お前はこのことについて、何か知っているか?」と尋ねました。すると若者は真っ青になり、ガタガタ震え出しました。師尹は、「お前、何か知っているな、はっきり申せ」と言うと、若者は「はい、若様が…」、「何、若がどうした?」、「若様が御覧になろうとして、落とされてしまいました」と若者は答えました。師尹は言葉を失い、ただがく然としていました。
 その後、師尹は妻の許しを願う言葉も聞き入れず、わが子を屋敷から追い出し、乳母(うば)の家に預けられることになりました。若君は、「自分が壊(こわ)したと言えば、若者の命は助かるだろう。自分にはたいした罰(ばつ)を与えることはないだろう」と思っていましたが、父親は会ってもくれず荒れ果てた乳母の家に押し込められました。若君は、「あんなに優しかった父上が、どうしてだろうか」と深く落ち込んでしまい、父母に捨てられた不安から食事もできなくなり、だんだん体が弱っていきました。半月経(た)った頃には、もう起き上がることもできなくなり、うすれゆく意識のなかで、夜明けを告げる小鳥の鳴き声を聞きながら、「明けるなる 鳥の鳴く鳴く 鳴くまどろまで こはかくこそと 知るらめや君」(鳥が鳴いている、夜が明けたらしい、自分が眠ることもできず、泣き明かしたことを、父上母上は御存じだろうか)との歌を詠(よ)みました。乳母はさっそくこの歌を師尹のもとに届け、「すぐに若君の元においで頂きたい」と手紙に書きました。
 師尹は、息子がそれほどまでに体の具合が悪くなっていたことを、初めて知りました。硯を割ったことへの怒りもおさまり、妻と共に息子のもとにかけつけました。そして、今にも死にそうな息子の姿を見た師尹は、「この息子の命に比べれば、宝石の硯なんか何の価値もない。自分はなんて愚かなことをしたものか」と、深く後悔しました。そして、涙ながら「むつごとも なににかわせん 悔しきは この世にかかる 別れなりけり」(私が今さら短気を起こしてすまなかったと優しく言っても何になろうか。今生で息子と死に別れなければならないとは、何と悔しいことか)との歌を詠みました。
 息子の葬儀の日、硯を割ってしまった若者が頭を剃り僧侶の姿となって、師尹の前にひざまずき、「あの硯は実は私が割ってしまったものです。若様は、私を助ける為に、自ら罪をかぶられました。私は今日より僧侶となって一生をかけて若様の追善供養の為に尽くして参ります」と、心からお詫びしました。若者の話を聞いた師尹は、今さらながら、我が息子という本当の家宝を失ったことを深く悔い、家宝にこだわってしまった自分を深く恥じました。
 日蓮大聖人さまは、「七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙(もんしんかいじようしんしやざん)なり。又云はく、頭(ず)上(じよう)の七穴(しちけつ)なり。今日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは有(ゆう)七宝の行者なり」と仰せです。これは、①聞…正法の話を素直に聞くこと②信…正法を深く信じること③戒…正法を護(まも)り謗法の心、誤った心を戒めること④定…御本尊様へお題目を唱え心を安定させること⑤進…信心に励む心を起こし行うこと⑥捨…あらゆるものに執われる心を捨てて慈悲の心を起こすこと⑦慙(慚)…常に自分を反省して正しい心根を持つ続けることを言います。また頭(ず)上(じよう)の七穴(しちけつ)とは、目・耳・鼻・口の七つの穴から入ってくる様々な情報のことを言い、正しい信心を行い、真剣にお題目を唱えて行くと、あらゆる物事を正しく判断することができるようになり、身の宝、心の宝となって、皆さんの命に具えることができるようになります。
 世の中には、七宝と言われる宝石や高価な物に執着したり、贅沢な生活に憧れ求めて、師尹のように誤った判断をしたり、不幸な人生になってしまう人が沢山います。ですから、大聖人様が仰せのように、心に体に真の七宝を求めて行くことが本当に大事な事となります。
 皆さんがこれから成長していくなかで、大聖人様が仰せの七宝という七つの心構えを忘れることなく、素直に正直に御本尊様を信じて、あらゆる人に対して、たとえ苦手な友だちであったとしても、優しさや思いやりをもって接することができるように、自分自身の言うことや行いを常に反省することができるようになってもらいたいと願っています。そして、夢や希望を実現できるよう信心に励み、努力を惜しまず、楽しい日々を送って下さい。