御報恩御講(令和6年7月)
令和六年七月御講
妙密上人御消息(みょうみつしょうにんごしょうそく) (九六七ページ)
建治二年閏三月五日 五十五歳
已(い)今(こん)当(とう)の経文(きょうもん)を深(ふか)くまぼ(守)り、一経の(いっきょう)肝心(かんじん)たる題目(だいもく)を 我(われ)も唱(とな)へ人(ひと)にも勧(すす)む。麻(あさ)の中(なか)の蓬(よもぎ)、墨(すみ)うてる木(き)の自(じ)体(たい)は正直(しょうじき)ならざれども、自(じ)然(ねん)に直(す)ぐなるが如(ごと)し。経(きょう)のまゝに 唱(とな)ふればまがれる心(こころ)なし。当(まさ)に知(し)るべし、仏(ほとけ)の御心(みこころ)の我(われ)等(ら)が身(み)に入(い)らせ給(たま)はずば唱(とな)へがたきか。
さて、今月拝読の御書は、『妙密上人御消息』であります。本抄は、建治二(一二七六)年閏(うるう)三月五日、大聖人様御歳五十五歳の時に身延に於いて著された御手紙です。
閏月(うるうづき)については昨年九月に詳しく説明しましたので省略しますが、建治二年は三月が二回ありました。
本抄を賜った方は、当時鎌倉の楅谷(くわがやつ)に住んでいた妙密上人夫妻です。妙密上人の素性(すじょう)は今ではほとんど分かっていませんが、本抄の中で、「便宜(びんぎ)ごとの青鳧(せいふ)(銭)五連の御志(おんこころざし)」とあることから、事あるごとに大聖人様にたびたび御供養をお届けしていたことがわかり、信心の大変篤い方であったことがうかがえます。
本抄の大意(あらまし)を申し上げますと、はじめに御供養への謝意を述べられます。仏教において、五戒では不殺生戒(ふせっしょうかい)、六波羅蜜(ろくはらみつ)では檀(だん)波羅蜜(はらみつ)を行の始めとする道理から、人に食を施す功徳の大なることを述べ、特に命を継ぐ、色を増す、力を授けるとの食物の三つの徳を示されます。
次に、日本への仏教諸宗の伝来についてふれられ、インド・中国・日本の三国を通じて、未(いま)だ法華経の題目を自行化他にわたって唱えた人がいないこと、またその理由を挙げられます。
続いて、末法の現在、上行菩薩が法華経の弘通を開始されることを示され、まさに大聖人様御自身がその題目を弘めていることを述べられています。また、諸宗の人師等が、法華経の意を無にして題目を唱えることを破折し、対して大聖人様御一人が法華経の意のままに、忍難(にんなん)弘通(ぐつう)の御化導の上に、法華経の題目を身読(しんどく)されていることを示されています。
最後に、日本国の人々が、日蓮が憎いゆえに法華経に帰依しない実状を述べられ、しかし必ず帰依する時がくるという御本仏の確信を披瀝(ひれき)され、妙密上人が現在法華経を信じ、 たびたび御供養される功徳は、正法が弘まるにつれて、ますます大きくなることを御教示あそばされています。
拝読の御文を通釈しますと、
「已(い)今(こん)当(とう)の経文(きょうもん)を深(ふか)くまぼ(守)り、一経の(いっきょう)肝心(かんじん)たる題目(だいもく)を 我(われ)も唱(とな)へ人(ひと)にも勧(すす)む。」(通釈)「(法華経の)已(い)今(こん)当(とう)の経文を深く守り、法華経の肝心である題目を自分も唱え、人にも勧めている」と仰せです。
「已(い)今(こん)当(とう)の三説」とは、法華経法師品第十に、「而(しか)も此の経の中に於て 法華最も第一なり(中略)我が 所説の経典、無量千万億にして、已(すで)に説き、今説き、当(まさ)に 説かん。而(しか)も其の中に於て、此の法華経、最も為(こ)れ難信(なんしん)難解(なんげ)なり」(法華経三二五㌻)と説かれています。
ここでいう「已(すで)に説き」(已説(いせつ))とは法華経以前の四十余年の諸経のことです。「今説き」(今説(こんせつ))とは法華経の開経である無量義経のことです。そして「当(まさ)に説かん」(当説)とは法華経の後に説かれた涅槃経のことです。つまり法華経は、これら「已(い)今(こん)当(とう)の三説」に超過し、信じ難く解し難い最も最高の教えとされます。そして、法華経の題目を弘める大聖人御自身のお立場を「日蓮は何(いず)れの宗の元祖にもあらず、又末葉(まつよう)にもあらず」(同九六六㌻)と仰せられています。このような最高の教え、法華経の肝心(かんじん)要(かなめ)である題目を自らも唱え、他人にも唱えるよう勧めていると仰せです。
「麻(あさ)の中(なか)の蓬(よもぎ)、墨(すみ)うてる木(き)の自(じ)体(たい)は正直(しょうじき)ならざれども、自(じ)然(ねん)に直(す)ぐなるが如(ごと)し。経(きょう)のまゝに 唱(とな)ふればまがれる心(こころ)なし」(通釈)「(譬えて言えば)麻(あさ)の中に生えた蓬(よもぎ)や、墨縄(すみなわ)で線をつけた木が、それ自体は曲がっていても自然に真っすぐになるようなものです。法華経の教え通りに題目を唱えるならば曲がった心がなくなるのです。」曲がりながら生長する蓬(よもぎ)が、真っすぐに伸びる麻(あさ)の中に生えると同じく真っすぐ育ち、木に墨線を記(しる)すことで真っすぐに製材できるように、曲がった心根(こころね)の者でも御本尊様に 向かって題目を唱えることによって心が正されることの譬えとして用いられています。「当(まさ)に知(し)るべし、仏(ほとけ)の御心(みこころ)の我(われ)等(ら)が身(み)に入(い)らせ給(たま)はずば 唱(とな)へがたきか。」(通釈)「まさに、仏の御心が我らの身に入らなかったならば(題目は)唱え難い題目と知るべきであります」このように大聖人様は仰せになり、題目の功徳を示しつつ、妙密上人に益々唱題に励むよう御教示なされています。
本抄で大聖人様は、御供養に三つの功徳ありと御教示であります。即ち、「人に食を施すに三(さん)の功徳あり。一には命をつぎ、二には色をまし、三には力を授く」と仰せであります。一つめの「命をつぎ」とは、人間や天上界に生まれたならば、長命(ちょうみょう)の果報を得ることができ、また仏に成った時には法(ほっ)身(しん)如来(にょらい)の徳が現れて、その身は虚空のように限りないものとなるということです。二つめの「色をまし」とは、人間や天上界に生まれたならば、立派な相貌(そうみょう)を具(そな)えて、その美しく正しいことは華のようであり、また仏に成った時には応(おう)身(じん)如来(にょらい)の徳が現れて、 尊(そん)極(ごく)な釈迦仏のようになるということです。そして三つめの「力を授く」とは、人間や天上界に生まれたならば、威徳の勝れた者となって多くの眷属(けんぞく)ができ、また仏に成った時には報(ほう)身(しん)如来(にょらい)の徳が現れて、蓮華の台(うてな)に座し、十五夜の月が晴天に出たようになるということです。このように、御供養には、たいへん尊い功徳が存することから、私たちは常日頃から仏様への供養を怠ることなく、 真心をこめて励んでいくことが大切なのです。
それでは、今回の御聖訓のポイントを三つ申し上げたいと思います。
本抄に、「麻(あさ)の中(なか)の蓬(よもぎ)、墨(すみ)うてる木(き)の自(じ)体(たい)は正直(しょうじき)ならざれども、自(じ)然(ねん)に直(す)ぐなるが如(ごと)し。経(きょう)のまゝに 唱(とな)ふればまがれる心(こころ)なし」と仰せです。『立正安国論』に、「汝(なんじ)蘭室(らんしつ)の友に交(まじ)はりて麻(ま)畝(ほ)の性(しょう)と成る」(御書二四八㌻)という御文があります。「蘭室」とは蘭の香りのする部屋のことで、その部屋にいると自然と芳香が体に染(し)み込んでいきます。それと同じように、徳の高い人と同室して言葉を交わしていれば、自然とその影響を受けて、自分にも徳が具(そな)わってくるという譬えを示された御文です。また、『大智度論』には、「人に三業あり。諸善をなす。若し身口(しんく)の業(ごう)善なれば、意業(いごう)も自然(じねん)に善に入(い)る。譬へば曲(きょく)草(そう)の麻中(あさちゅう)に生ずるに、扶(たす)けざれども自(おのづか)ら直(なお)きが如し」(国訳釈経論部一ー三六九㌻)と説かれています。私たちの身口意の三業のうち意業である心は、縁に触れて変化するもので、非常に心もとないものです。しかし、身と口でしっかり修行することによって、移ろいやすき心も定めることができるのです。身業について言えば、御法主上人猊下が、「要(よう)は、理屈ではなく行動、決意をして行動を起こすことであります。つまり実践であります。ただ考えているだけではなく、各自が折伏を体験することであります」(趣意・大白法 六八七号)と御指南のごとく、折伏の行動を一人ひとりが起こすことです。口業について言えば、御隠尊日顕上人猊下が、「一切を開く鍵は唱題行にある」(大日蓮 六三五号)と御指南のごとく、唱題行をしっかりと行ずるということです。この身口の二業によって、自(おの)ずから三業揃(そろ)った修行が成就するのです。また、『孔子家語(こうしけご)』には、「善人と居(お)るは芝(し)蘭(らん)の室(しつ)に入(い)るが如し。不善人と居(お)るは、鮑魚(ほうぎょ)の肆(し)に入るが如し」(『ことわざ辞典』)とあります。善い人と一緒に居ると芳香の漂(ただよ)う芝(し)蘭(らん)を飾る部屋に入るようなものであり、悪い人と共に居るのは、魚の干物屋(ひものや)に 入るようなものであるという意味であります。私たちは、三毒強(さんどく)強盛(ごうじょう)な世間の渦(うず)に巻き込まれて悩み 多き人生を歩んでいくのか、それとも蘭室(らんしつ)の友に交わって 麻(ま)畝(ほ)の性(しょう)となり、御本尊の功徳に浴した真の幸せを勝ち 取っていくのか、各々の信行でそれが決まるのです。折伏させて戴くと、謗法の命を感じることがありませんか?「どうしてこんなにひねくれているんだろうか」など、貪瞋痴(とんじんち)の三毒強(さんどく)強盛(ごうじょう)の命を感じませんか? そのような 謗法の命を感じた時に、正法に縁した我が身の福徳を心から有り難いと感じることができると思います。
ですから、ポイントの二つ目は「自行化他の信心に励もう」ということになります。本抄に、「一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む」とあります。『三大秘法稟承事(ぼんじょうじ)』に、「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、 自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(御書一五九四㌻)と仰せになり、大聖人様の弘通遊ばされるお題目は自行化他に亘るお題目です。それは大聖人御自身のお振る舞いからも明らかです。大聖人弘通の題目は自行化他の題目ですから、折伏を指向するということです。本抄で大聖人様は、「已(い)今(こん)当(とう)の経文(きょうもん)を深(ふか)くまぼ(守)り、一経の(いっきょう)肝心(かんじん)たる題目(だいもく)を我(われ)も唱(とな)へ人(ひと)にも勧(すす)む。(中略)経(きょう)のまゝに唱(とな)ふればまがれる心(こころ)なし。」と、法華経の意に随い、法華経の題目を自身ばかりでなく、他にも勧め唱えさせていることを仰せです。当然、私たちも自行化他の題目の意義を修行の上に現して行くべきです。その題目の功徳について、総本山第六十七世日顕上人はかつて次のように御指南なされました。「題目は、自らも唱え、他の人々にも勧めることが大きな功徳を積むのである(中略)題目は仏の心がそのまま顕れているから、無心に唱えるとき、その心がおのずから衆生の心に入るのである」(『すべては唱題から』五六㌻)と、このように御指南です。御本尊様に向かって一生懸命唱題に励むとき、自然と他人を救わんとの仏様の心が顕れ、折伏を行じることで大きな 功徳を頂戴し、また喜びを感じることで一層自らの信心も 深まっていきます。私たちは、大聖人様の「自行計りにして唱へてさて止みぬ」(御書一五九四㌻)との仰せを自らの信行の誡めとして、 唱題を自分だけの題目行として終わらせることなく、自行化他の実践に勤しんでまいりましょう。三つ目は「大聖人様から託された使命を果たそう」ということです。大聖人様は本抄の末文に「法華経の功徳はほむれば弥(いよいよ) 功徳まさる」(御書九六九㌻)と仰せです。御法主日如上人猊下は、法華経すなわち御本尊様の讃歎供養について、「自行化他の信心に励むこと」(信行要文三―一七七)と、その最上の方法を御指南なされています。具体的には、まず自身がしっかりと大聖人様の教え、御本尊様の功徳・力用を確信することです。そして、その確信を力に変えて、周囲の人々に日蓮正宗の信仰の素晴らしさを 語り折伏を実践することが讃歎供養となります。もとより広宣流布は御本仏大聖人様の御遺(ごゆい)命(めい)です。私たち、日蓮正宗僧俗にとって重要な使命なのです。この使命を果たすために折伏を行ずる中で、時に様々な悩みが生じたり、 誹謗中傷を受けることもあるかもしれません。しかし、それらを一つひとつ克服するところに、いよいよ功徳を増し、そこに大いなる喜びを享受することができます。またおのずと真の幸せが築かれていきます。
私たちの信行において、「経のまゝに唱ふる」とは自行化他の着実な実践であると心得ることが肝要なのです。
最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南なされています。
「『守護国家論』には、「謗法の人を見て其の失(とが)を顕はさゞれば仏弟子に非ず」(御書一四五㌻)と厳しく仰せられているのであります。不幸の最大の原因となる謗法を犯している人々が眼前にいるのを見て、それを知りながら、その謗法の誤(あやま)りを糾(ただ)さないようでは、大聖人の弟子檀那とは言えないとのお言葉であります。そこに今、我々が何(なに)を差(さ)し置(お)いても折伏を行じていかなければならない大事な理由が存しているのであります。」(大日蓮・令和六年五月号)このように御指南なされ、謗法を犯している人を見過ごすことは仏弟子とはいえない。何を差し置いても折伏をすべきと御指南なされました。
「折伏前進の年」も後半に入り、『立正安国論』奏呈の月である七月となりました。本年の誓願成就は、この夏の私達の信行如何にかかっていると言っても過言ではありません。
御法主上人のもと、総本山をはじめ全国の末寺で行われている七月唱題行に率先して参加し、自らの信心を奮い立たせて力一杯、折伏行に精進していこうではありませんか。総本山第二十二世日俊上人は『法華取要抄註記』の中に、「師は針の如く檀那と弟子は糸の如し」(歴代法主全書 第三巻)ということを御指南なされています。成仏のための根源の師は、もちろん末法の御本仏日蓮大聖人ですが、現実生活の上で、信心を正しく行じていくための仏法の師は、大聖人・日興上人以来の血脈を継承あそばされる御法主上人猊下以外にはおられません。御法主上人猊下は、成仏の道を踏み外さないようにと、常に私たちに信心修行の方途をお示しくださっているのです。それはまさしく運針(うんしん)の道筋であり、私たち弟子・信徒は「糸の如し」と言われるごとく、御法主上人猊下の御指南のまま、自行化他の信心修行に精進して、自行化他の題目の意義を、修行の上に現すことが肝要です。実践とは、唱題を自身ばかりで励むのではなく、他の講員をも激励して共に唱題することであり、共に仏道を歩むことなのです。ですから未入信の人には、本門の題目を唱えて共に成仏できるよう、折伏を実行していくことが大事なことなのです。