御報恩御講(令和6年5月)
令和六年五月度 御報恩御講
『妙心尼御前(みょうしんあまごぜん)御返事』 建治元年八月二十五日 五十四歳
このまん(曼)だら(荼羅)を身(み)にたもちぬれば、王(おう)を武士(ぶし)のまぼるがごとく、子(こ)ををや(親)のあい(愛)するがごとく、いを(魚)の水(みず)をたの(恃)むがごとく、草木(そうもく)のあめ(雨)をねが(楽)うがごとく、とり(鳥)の木(き)をたのむがごとく、一切(いっさい)の仏神(ぶつじん)等(とう)のあつまりまぼり、昼夜(ちゅうや)にかげのごとくまぼらせ給(たま)ふ法(ほう)にて候。(そうろう)よくよく御(ご)信用(しんよう)あるべし。(御書九〇三㌻六行目~八行目)
本抄は建治元(一二七五)年八月十六日、日蓮大聖人様が五十四歳の御時に認められた御書です。御真蹟は現存しませんが、総本山大石寺に第二祖日興上人の写本が厳護されています。本抄ご執筆の前年、文永十一(一二七四)年四月八日、大聖人様は、佐渡流罪を赦免され、平左衛門尉頼綱に見参し、三度目の諌暁を行われました。しかし、幕府の対応は、大聖人様の謗法厳誡の御言葉を真摯に受け止めるものではなく、かえって大聖人様の口を封じ込めるために懐柔しようとするものでした。よって、「国恩を報ぜんがために三度までは諌暁すべし、用ひずば山林に身を隠さんとおもひしなり」(御書一一五三㌻) と仰せのように、大聖人様は日興上人が教化された波木井実長の所領であった身延山に入り、一期の御化導の大成と弟子の育成に心血を注がれたのです。入山半年後の同年十月五日には、『立正安国論』で予証された蒙古襲来(文永の役)が現実のものとなり、にわかに国内情勢は緊迫の度を高めていました。対告衆の妙心尼については、富士郡西山(現在の芝川町)の大内氏夫人、あるいは賀島荘(現在の富士市)の高橋氏夫人と見る説、また持妙尼、もしくは窪尼と同一人物と見る説もありますが、御先師日達上人は、日興上人の伯母に当たる高橋氏夫人・持妙尼と同一人物であり、夫の逝去後、富士郡西山の窪に移住したことから、窪尼とも称されたと仰せになっています。妙心尼は、大聖人様より現存する御真蹟、写本を合わせますと、合計十二通ものお手紙を賜わっています。中には、散失してしまったお手紙の存在も考えられ、大変多くの御消息を頂戴しており、大聖人様が如何に妙心尼に対して、お心を砕かれ、信心を励まされていたかを窺い知ることができます。此れ等の御消息から尼御前の境遇が知られますが、
一つには、長い間夫の看病をしており、そのさなか、或いは夫の死後に髪を落として尼になったこと。
二つには、夫の病気について、大聖人様が死後の境界のことまで仰せになっていますから、夫の病状がかなり重かったこと。
三つには、妙心尼には幼い子供がいて、大聖人様はこの幼い子供のために御守り御本尊をしたためられて下附されていること。
四つには、建治三年の御消息、(『妙心尼御前御返事』・一一九四㌻)には、すでにご主人が亡くなられ、恐らくは 三回忌の追善供養のために大聖人様のもとへ御供養をお届けしていること、などが知ることができます。
本日拝読の『妙心尼御前御返事』は、妙心尼が大聖人様のもとへ御供養申し上げたことに対するお礼の御手紙です。御手紙には、妙心尼の子供のためにお守り御本尊様を授与されたことを記され、御本尊様の功徳を説かれるとともに弥々(いよいよ) 信心に励むよう仰せになられています。
文を拝して参りますと、
「このまん(曼)だ(荼)ら(羅)を身(み)にたもちぬれば、」
(通釈)「この「まんだら」、大聖人様が御図顕された御本尊様を信じ持つならば、」
「王を武士のまぼるがごとく、子ををやのあいするがごとく、いをの水をたのむがごとく、」
(通釈)「王様を武士が守るように、我が子を親が愛するように、魚が水を頼みとするように、」
「草木(そうもく)のあめ(雨)をねが(楽)うがごとく、とり(鳥)の木(き)をたのむがごとく、」
(通釈)「草木が雨を願うように、鳥が木をよりどころとするように、」
「一切(いっさい)の仏神(ぶつじん)等(とう)のあつまりまぼり、昼夜(ちゅうや)にかげのごとくまぼらせ給(たま)ふ法(ほう)にて候(そうろう)。よくよく御(ご)信用(しんよう)あるべし。」
(通釈)「(御本尊様を身に持つ者には)一切の仏様や諸天善神等が 集まって(御本尊様を受持する者を)守り、昼夜を問わず影のように寄り添って守護することは間違いない。
「よくよく御(ご)信用(しんよう)あるべし。」
(通釈)「よくよく信じることが肝要です」
このように大聖人様は仰せになり、妙心尼に対して益々信心に励むよう御教示なされています。私達は、この世に生を受けた以上、いかなる人も生・老・病・死等の四苦、愛(あい)別離(べつり)苦(く)(愛する者といえども別れ離れなければならない)・怨憎(おんぞう)会苦(えく)(怨み憎む者とも会わなければならない・求不(ぐふ)得苦(とっく)(求めても自分の思い通りに得ることができない)・五(ご)陰(おん)盛(じょう)苦(く)(身体・感受・知覚・意向・認識)に執着することによって受ける苦しみの八苦から逃れることはできません。なかでも大聖人様は、病気の原因について 『太田入道殿御返事』に、「病の起こる因縁を明かすに六有り。一には四大順ならざる故に病む、二には飲食(おんじき)節せざる故に病む、三には坐禅調(ととの)はざる故に病む、四には鬼便りを得る、五には魔の所為(しょい)、六には業の起こるが故に病む」(御書九一一㌻)と、『摩訶止観』に説かれる義を引用して説明されています。つまり、
一、人体を構成する地・水・火・風の四大の調和が崩れることによる。
二、偏食や過食、暴飲などによる。
三、心が乱れ穏やかでない状態が続く(心的ストレス)ことによる。
四、一人ひとりの邪念が悪鬼を呼び寄せることによる。
五、魔の仕業による。
六、宿業の果報や今世での悪業が宿業を動かすことによる、の六つが主な原因であるということです。
先の三因は、私たちの日頃からの留意によってある程度予防することができますが、後の三つの原因、特に最も恐れなければならないものは、三世にわたって不幸の元凶となる悪業、なかでも謗法罪です。大聖人様は、本抄の九日前に妙心尼に与えられた御書に「一切の病の中には五逆罪(ぎゃくざい)と一闡提(いっせんだい)と謗(ほう)法(ぼう)をこそ、おもき病とは仏はいた(傷)ませ給へ。今の日本国の人は一人もなく極(ごく)大(だい)重病あり、所謂(いわゆる)大謗法の重病なり(中略)これらはあまりに病おもきゆへに、我が身にもおばへず人もしらぬ病なり」(『妙心尼御前御返事』御書九〇〇頁)とあるように、私たちの生命を汚し、今世に限らず来世に至るまでも自身を苦しめる重大病こそ謗法による罪障なのです。ですから、謗法による罪障や魔の所業等を原因とする病気は、まさに仏道修行による自身の色心二法の鍛錬や、罪障消滅を図る以外に根本的に克服する方法はありません。同じく『太田入道殿御返事』には、「真言の家に生まれ多くの罪障を背負う太田入道が、今世での妙法への信行によって、次の世に無間地獄へ堕ちるべき罪障を軽い病として受け、他の罪障と共に一切を消滅することができる」(御書九一三㌻)との意味で転重軽受の御法門を示されています。大聖人様の正法に帰依すると、信心の喜びを感じたり功徳を実感する反面、突如として病魔に見舞われたり、人間関係の問題等に巻き込まれることがあります。これらは自身の煩悩障や業障等によるもので、信心修行を妨害する用きと言えますが、一方では一人ひとりの生命の奥底(おうてい)に刻み込まれた過去世からの罪障が、御本尊様への信心によってあぶり出され起こったものとも言えるのです。こうした難が重なると、ときには御本尊様を疑ったり、大聖人様の信心から遠のく人がいるかもしれません。しかしこれらは、謗法罪障の果報が未来永遠にわたって徐々に現れていくべきところ、法華経受持の功徳によって重い罪障が転じ、しかも軽いかたちで現れてくる姿なのです。「てるてる坊主」という歌がありますね。「明日天気にしておくれ」と願う訳です。願い通り晴れたら金の鈴、または甘いお酒をあげる。反対に曇って雨が降ったらそなたの首をチョンと切るぞ」という歌詞です。日本人の信仰感ですね。此は逆なんですね。願いが叶わないのは、願いそのものが 邪(よこしま)であったり、自らの罪業の深さにあるんですが、それを仏様のせいにする。このような信仰はいけません。
それでは、今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。
一つ目は「自行化他の実践に徹しよう」ということです。本日拝読の御聖訓では、御本尊様を受持する者は一切の仏や諸天善神に守護されるという功徳をお示しになっています。御法主日如上人猊下は、かつて次のように御指南されました。「諸天善神が現れて、本当に様々な面で救ってくださるし、守ってくださるのです。これは全部、御本尊様のお力です。ただし、その御本尊様のお力は、我々の信力・行力がなければ顕れてきません(中略)しっかりお題目を唱えて、自分自身の幸せを願い、そして多くの人達の幸せを願っていくという信心姿勢が、今、 最も大切ではないかと思います」(信行要文五―一二七)と、このように仰せられています。大聖人様は、『日厳尼御前御返事』に、「叶ひ叶はぬは御信心により候べし」(御書一五一九㌻)と仰せられ、今回の御聖訓には「よくよく御信用あるべし」と御教示なされています。私たちは、こうした御金言を身に体して、一層信心も強盛に、すべての人を救う広宣流布の実現に向かって、自行化他の実践に徹してまいりましょう。
二つ目は「今為すべきことは折伏」ということです。私たちが御本尊様への絶対の信心により、生活の中にその功徳を顕わしていくことができるのは、総本山大石寺に本門戒壇の大御本尊様が厳護され、大聖人以来の唯授一人の血脈が御歴代上人によって正しく伝持されているからです。これに対し、不相伝家である他門日蓮宗では何を本尊とすべきかについて迷い続け、創価学会は「信仰の対象とするのは(中略)創価学会が受持の対象として認定した御本尊」(創価学会教学要綱八二)などと、自らの都合によって信仰の対象となる本尊を変える大謗法に陥っています。これらは、大聖人様が御在世当時に「諸宗は本尊にまどえり」(開目抄・御書五五四㌻)と指摘された不知恩の姿そのものと言えましょう。混乱の度を増す現在の濁悪の世を真に救えるのは、大聖人様の正しい教え、大御本尊様の功徳しかありません。それだけに、この正法を知る私たちの責務は重大です。『立正安国論』の「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(御書二五〇㌻)との御金言のまま、まず自分自身が正義顕揚の折伏に立ち上がる、これが今為すべきことなのです。最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。「御本尊に対する絶対(ぜったい)の確信(かくしん)が、日常の生活のなかで困難(こんなん)に出遭った時に、大きくものを言うのであります。これは折伏に当たっても同様であります。御本尊様に対する絶対の確信が、我々の言葉や態度(たいど)に自然に表れてくるものです。その確信が、相手の心を揺(ゆ)り動(うご)かして、入信に至らせるのです。」(信行要文三ー一〇七)と、このように御指南なされ、絶対の確信をもって折伏をしていく大事を御指南されました。
本日は、御本尊様を受持する者を諸仏・諸天が必ず守護するとの御教示を拝しました。また本抄では、「病によりて道心はおこり候か」と示されています。私たちは、むしろ眼前の苦しみを「何とか克服したい」との一心から、自身の限界を超える信心を振り絞って自行化他に励むことができます。その真剣な信行を通して、私たちは病気の根源に限らず、一切の不幸の元凶となる罪障を消滅していくことができるのです。御法主日顕上人猊下は、「南無妙法蓮華経は師子の吼えるがごとくであって、いかなる病も、またいろいろな障りであっても、これを打ち破るところの強い力、功徳を持っておるのである」(大白法 六七五号)と仰せです。御本尊様に向かって唱える題目には、あらゆる病気や諸難に打ち克つ大功徳が存するのですから、苦しい時こそ御本尊様を堅く信じ、一層唱題に励むことが肝要です。『富木入道殿御返事』に、「命限り有り、惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり」(御書四八八㌻)とあります。私たちは眼前の苦難に一喜一憂することなく、むしろ諸難を信心成長の糧として捉えて、いよいよ不自惜身命の信行に邁進していきましょう。困難や苦悩の絶えない世の中ですが、私たちは幸いにも、自身を変え、困難を乗り越えられる信心に住しています。どうかこのことに感謝し、本日の御講を機に、より真剣に勤行唱題、折伏に励み、皆で広布前進の歩みを、力強く、朗らかに進めてまいりましょう。また、今月から開催されている法華講講習会にも積極的に参加し、自らの信行の糧といたしましょう。以上、本日の法話といたします。
□住職の言葉(第34回法華講妙眞寺支部総会)
1、妙眞寺創立百周年に向けて
平成22年7月21日、帰命依止の道場を取り戻した妙眞寺支部は、91世帯153名の陣容でスタートし、昨年の妙眞寺創立九十周年には300世帯500名体制を達成した。本日現在、317世帯523名の陣容となり、9年後の創立100周年には500世帯1000名体制の構築を妙眞寺創立百周年に向けての誓願目標として、毎年の折伏誓願目標を確実に達成できるよう心掛け、法統相続も積極的に行って頂きたい。
2、青少年部の縦割りについて
支部内若年層、青年部員の陣容も整い、今後は乳幼児から中学生を若葉会、高校生から40歳まで、若葉会員両親を碧葉会(あおばかい)として活動して頂きたい。四者の立て分けは乳幼児から小学6年生までが少年部、中学生以上40歳以下を青年部、41歳以上が壮年部、婦人部とします。なお、少年部広布推進会は小学1年生から6年生、少年部登山は小学3年生から6年生までを対象として参加して頂き、青年部広布推進会は極力、高校生以上35歳以下の青年部員に参加して頂きたい。
3、結果を出すために新たなる挑戦を
折伏にせよ、諸難困難の克服にせよ、あらゆる誓願成就の為には、相応なる信行の実践が必要となる。大聖人様は『上野殿御返事』に、「願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年(こぞ)去々年(おととし)のやくびゃうに死にし人々のかずにも入らず、又当時蒙古のせめにまぬかるべしともみへず。とにかくに死は一定(いちじよう)なり。其の時のなげきはたうじのごとし。をなじくはかりにも法華経のゆへに命をすてよ」と仰せであるように、まずは自分自身の目標を定め、乗り越えるべき障礙や成就したい物事に向かって、一つの行動を起こして頂きたい。例えば、朝詣りの参加や、毎日決まった時間の唱題をこなして行くこと、あえて自分に試練を課して目標成就に向かっていくこと。そこに必ず御本尊様からの有り難き御仏智を賜ることを確信して事に当たって頂きたい。そして大聖人様が『御義口伝』に、「大願とは法華弘通なり」と仰せになられているように、日々の信行実践の功徳利益をもって、折伏を成就できるような境界を築き上げ、令和の妙眞寺法華講衆として後代に名を残すことができるよう精進して頂きたい。