御報恩御講(令和6年3月)

 『阿仏房御書』  文永十二年三月十三日   五十四歳

 末法(まっぽう)に入(い)って法華経(ほけきょう)を持(たも)つ男女(なんにょ)のすがたより外(ほか)には宝塔(ほうとう)なきなり。若(も)し然(しか)れば貴(き)賤(せん)上下(じょうげ)をえらばず、南無妙法蓮華経ととなふるものは、我(わ)が身(み)宝塔(ほうとう)にして、我(わ)が身(み)又(また)多(た)宝(ほう)如来(にょらい)なり。妙法蓮華経より外(ほか)に宝塔(ほうとう)なきなり。法華経(ほけきょう)の題目(だいもく)宝塔(ほうとう)なり、宝塔(ほうとう)又(また)南無妙法蓮華経なり。今(いま)阿(あ)仏(ぶつ)上人(しょうにん)の一身(いっしん)は地(ち)水(すい)火(か)風(ふう)空(くう)の五(ご)大(だい)なり、此(こ)の五(ご)大(だい)は題目(だいもく)の五字(ごじ)なり。然(さ)れば阿(あ)仏(ぶつ)房(ぼう)さながら宝塔(ほうとう)、宝塔(ほうとう)さながら阿(あ)仏(ぶつ)房(ぼう)、此(これ)より外(ほか)の才覚(さいかく)無(む)益(やく)なり。聞(もん)・信(しん)・戒(かい)・定・(じょう)進(しん)・捨(しゃ)・慚(ざん)の七宝(しっぽう)を以(もっ)てかざりたる宝塔(ほうとう)なり。     (御書七九二㌻一三行目~七九三㌻二行目)

 今月拝読の御書は、『阿仏房御書』であります。本抄は、文永十二年(一二七五)三月十三日、大聖人様御歳五十四歳の時に身延において著された御手紙です。与えられた方は佐渡の住人阿仏房であります。阿仏房は、大聖人様が佐渡流罪中に今まで信仰していた念仏の邪義を 捨てて、妻・千日尼とともに大聖人様に帰依し、我が身の危険をも顧みず、献身的なお給仕をされました。また、大聖人様が佐渡流罪を御赦免になり、身延に入山された後も、阿仏房は合計三回、大聖人様の元に登山参詣され、大聖人様のお給仕をなされました。このような信仰の姿は信徒の鑑とされ、古来より「登山の精神は阿仏房に学べ」と言われているのであります。 また、阿仏房夫妻の子供はもとより曽孫に至るまで、皆、大聖人様、日興上人様の弟子となり、立派に法統相続されたことが知られています。本抄の中で大聖人様は阿仏房のことを「北国の導師」と称えられておりますが、阿仏房夫妻は大聖人様より御本尊を授与され、夫婦でこの御本尊様を守り、堅固に信心なされた方であります。

 はじめに、末法(まっぽう)に入(い)って法華経(ほけきょう)を持(たも)つ男女(なんにょ)のすがたより外(ほか)には宝塔(ほうとう)なきなり。若(も)し然(しか)れば貴(き)賤(せん)上下(じょうげ)をえらばず、南無妙法蓮華経と  となふるものは、我(わ)が身(み)宝塔(ほうとう)にして、我(わ)が身(み)又(また)多(た)宝(ほう)如来(にょらい)なり。

(通釈)

「末法に入って法華経を信仰する男女の姿よりほかに宝塔はないのです。もしそうであるならば貴賤上下、貴さも賤しさも、上も下も、このような身分の差別なく、南無妙法蓮華経と唱える者は、我が身がそのまま宝塔であり、また多宝如来となるのであります。」

「妙法蓮華経より外(ほか)に宝塔(ほうとう)なきなり。法華経(ほけきょう)の題目(だいもく)宝塔(ほうとう)なり、宝塔(ほうとう)又(また)南無妙法蓮華経なり。」

(通釈)

「妙法蓮華経よりほかには宝塔はないのであります。すなわち法華経の題目は宝塔であり、宝塔はまた南無妙法蓮華経であります。」

「今(いま)阿(あ)仏(ぶつ)上人(しょうにん)の一身(いっしん)は地(ち)水(すい)火(か)風(ふう)空(くう)の五(ご)大(だい)なり、此(こ)の五(ご)大(だい)は題目(だいもく)の五字(ごじ)なり。然(さ)れば阿(あ)仏(ぶつ)房(ぼう)さながら宝塔(ほうとう)、宝塔(ほうとう)さながら阿(あ)仏(ぶつ)房(ぼう)、此(これ)より外(ほか)の才覚(さいかく)無(む)益(やく)なり。」

(通釈)

「今阿仏上人の一身、体は地水火風空の五大より成り立っており、この五大は題目の五字であります。それゆえ阿仏房の身はそのまま宝塔であり、宝塔はそのまま阿仏房であります。これよりほかの才覚や智慧は無益であります。」

聞(もん)・信(しん)・戒(かい)・定(じょう)・進(しん)・捨(しゃ)・慚(ざん)の七宝(しっぽう)を以(もっ)てかざりたる宝塔(ほうとう)なり。

(通釈)

「此の宝塔は、聞・信・戒・定・進・捨・慚という七つの宝をもって飾った宝塔なのです」

 このように大聖人様は仰せになり、阿仏房に対して夫婦で固く信心をしていくよう説かれたのが今回の御聖訓です。

それでは、今回の御聖訓のポイントを二つ申し上げたいと思います。

 一つ目は「宝塔涌現の意義を再確認し仏道修行に邁進しよう」ということです。法華経見宝塔品第十一には、金銀(こんごん)等の七宝で飾られた宝塔が大地から涌現し、宝塔の中から多宝如来が大音声(だいおんじょう)をもって「法華経は真実なり」と証明されたことが説かれています。阿仏房は、この宝塔涌現の意義について「多宝如来涌現の宝塔何事を表はし給ふや」(御書七九二㌻)と質問されました。この問いに対して大聖人様は、「此の法門ゆゝしき大事なり」(同)と仰せられた上で、宝塔とは寿量文底の南無妙法蓮華経の題目であり、大聖人様が御図顕あそばされた漫荼羅御本尊であると御教示されています。今回の御聖訓には、末法(まっぽう)に入(い)って法華経(ほけきょう)を持(たも)つ男女(なんにょ)のすがたより外(ほか)には宝塔(ほうとう)なきなり。」と、御本尊様に向かって題目を唱えていく姿がそのまま宝塔と顕れると示されています。総本山第六十六世日達上人は、『阿仏房御書』の御説法において、「お題目を唱える我々は即ち宝塔、我々即ち南無妙法蓮華経である。妙法蓮華経即ち宝塔、宝塔即ち妙法蓮華経を唱えるところの我々であるということを、はっきりお考えになればいいと 思うのであります」(達全一-二-三二〇㌻)と御指南です。私たちが御本尊様に向かいお題目を唱えるとき、我が身が妙法蓮華経の宝塔と顕れると仰せなのですから、これほど有り難いことはありません。この福徳に感謝し、いよいよ自行化他の仏道修行に邁進しようではありませんか。

 二つ目は「粘り強い折伏の実践をしよう」ということです。大聖人様は今回の御聖訓に聞(もん)・信(しん)・戒(かい)・定(じょう)・進(しん)・捨(しゃ)・慚(ざん)の七宝(しっぽう)を以(もっ)てかざりたる宝塔(ほうとう)なり。」と仰せられ、信心の要諦を御教示されています。七宝の始め「聞」大聖人様の仏法を聞くこと「聞」です。信心というものは、仏様の教えを聞くことからすべてが始まることを意味しています。本日皆様は、まさに今、大聖人様の教えを耳で聞いています。ということは信心修行の 第一歩である「聞」の宝を知らず知らずに積んでいることになります。そして仏法の話を聞いたら、次の段階として自分の心の中に受け入れる、これが「信」です。仏様の話を信じるということです。今日の御講の話しを、キチンと心の中に受け入れた方が「信」という宝を積めるのです。そして仏法の話しを心に受け入れたら、自分自身の行いは 正しいかどうかを考え、間違っていれば止めるように努力する、自分を戒めていく、これが「戒」です。御講の話しを聞いて、果たして自分の信心はどうなんだろうかとチェックしていく。こういう方が「戒」という宝を積めるのです。そして自分の信心を戒めていきますと、だんだんと心が 定まってまいります御本尊様への確信も深まり、どんな魔が 信心の邪魔をしたとしても動揺することはありません。こういう方が「定」という宝を積めるのです。そして心が定まってくるということは、自分がやるべきこと、使命感や目標がハッキリしてきますから、あとは実践する、精進するということになります。まさしく五番目の「進」とは精進の「進」です。そして信心の実践が進んできますと、いろいろな功徳、体験を積まさせていただけます。そうしますとこの信心は 有りがたい、御本尊様は素晴らしいという感謝の心が芽生えます。そうしますと、自然に謗法への執着心を捨てる「捨」の宝を積むことができます。そして最後七番目は「慚」です。聞・信・戒・定・進・捨の修行を実践して最後に「私は正しく信心を行ってきただろうか」と自分を省みること。反省をすること「慚」です。そして、最初の「聞」に立ち返り、精進を重ねることによりさらに深い信心に至ることが出来るようになるのです。

 私たちは、あらゆる機会に大聖人様の教えを聞き、本門戒壇の大御本尊様を絶対と信じ、御法主上人猊下の御指南のまま自行化他の実践、特に破邪顕正の折伏に励むことによって我が身が七宝で飾られ、真の幸せ、すなわち成仏の境界を築くことができるのです。唱題・祈念を真剣に重ねていけば、必ず折伏の機会が訪れます。要は諦めないこと、粘り強い折伏こそが広布への道を開く鍵となります。これからの時節、大いに活動の範囲を広げ、精進いたしましょう。

 最後に御法主日如上人猊下は、次のように御指南されています。「我々は、この謗法に対しては厳しく破折をしていくのです。 それは、その人を救うためだからです。今も多くの人が間違った信仰や思想、誤った考え方に執われて、不幸に喘いでいます。  その姿を見た時に、私達は、その人達を救うために、その人の持っている考え方、間違った信仰を破折してあげなければなり ません。これが折伏なのであります。」(大日蓮・令和五年十月号)このように御指南なされ、相手を救っていくため、しっかりと破折していく大事を御指南されました。

 今月は春のお彼岸が行われます。家族・親族など有縁の方々に寺院参詣を勧める絶好の機会でもあります。相手の方と 具体的に参詣する日時などを約束して、共に参詣することで日蓮正宗について知っていただき、折伏に繋げてまいりましょう。そして、自らはお塔婆供養を願い、寺院の法要に参詣して、回向して戴いたお塔婆をお持ちして、お墓にお参りされ、先祖や、過去精霊のへの感謝を込めてお参りして戴きたいと思います。

□住職より

 大聖人様は『松野殿御返事』に、「世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし。況してや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦ひなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきつと見るならば、あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以て地とし、金の縄を以て八つの道を界へり。天より四種の花ふり、虚空に音楽聞こえて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、娯楽快楽し給ふぞや。我等も其の数に列なりて遊戯し楽しむべき事はや近づけり。信心弱くしてはかヽる目出たき所に行くべからず、行くべからず」と仰せであります。
 要するに私たちは、ひとたび人として生を受けたその時から、臨終を迎え仏さま在します霊山浄土への登山がはじまり、その旅路を日々正しく進むために、末法唯一無二の正法正義の信行実践に励んでいると拝すべきであります。当然、その道中にはあらゆる喜びや楽しみ、苦しみや悲しみといった喜怒哀楽が度々訪れるでしょうが、一喜一憂することなく、目的とする場所はあくまでも信心強盛にして初めて到達できうる常寂光の都であります。決して油断怠り退転なく、世間の娯楽や間違った価値観や情報に終始して、しかるべき道を違えることが無きよう、無事に成仏得道という私達の人生の本懐を成就できるように、日々信心修行に錬磨し、コツコツと福徳を増進して行くことがいかに重要であるかを、よくよく肝に銘じて頂きたいと存じます。
 先般、三月度広布推進会の宮下雄鎮御尊師による指導教師指導において、私たちが毎日読誦する法華経方便品に六度出てくる、お釈迦様の十大弟子の一人で智慧第一と言われる『舎利弗』の過去世において、六十刧という長い間人々を救う菩薩行を行じていたところ、志半ばで止めてしまい地獄に堕してしまい、その地獄界において反省懺悔し、仏法を追い求め、ようやく人として生まれ変わりることができ、当初は外道の教えを信じ行じていたところ、入信間もないアッサジと出会い、アッサジのたった一言で目連尊者や他の二百五十人の外道の人たちと共に、お釈迦様の弟子になることができたという話から、たとえ入信間もない人でも折伏はできる、そして、その折伏は次の折伏へと繋がっていくとの話がありました。
 更に、観妙院日慈上人の「折伏の心がない者は慈悲がないんだ。絶対にこの御本尊を教えのごとく正しく信ずるならば、生活に困るということはない。このありがたさと慈悲があふれて折伏になるのです。折伏は自然にやるようになってもらいたい。折伏をしてみようかな、なんていうのはどうかな。道を歩くときに、今度は右の足、今度は左の足なんていちいち考えて歩いてやしないものね。これなんですよ。自然にやる。何にもわからないけれども御本尊がありがたい、信じていれば必ず幸福になるんだと、この心で説いてあげなさい。不幸な人に対し、その不幸をともに涙を流して救ってあげなさい。それからどのように学ぶかということですが、折伏はどんな名人でも、御本尊はありがたい、謗法は恐ろしい、というこれだけで他に何もありゃりません」との御指導から、「御本尊はありがたい、謗法は恐ろしい」ということを中心にして伝え弘め折伏を行って行けば、時には理不尽な思いをする時もあるけれども、勤行の時に『舎利弗』と読誦する度に、自行化他にわたる信心を継続することの大切さを感じて頂きたいと御指導されました。
 どうか皆様方には、折伏は誰にでもできる、御本尊様への確信と自信をもって、決して慈悲の一念を失うことがないように、大聖人様の御金言を銘記して各々果敢に折伏実践に挑戦して頂きたいとお祈り申し上げます。