御報恩御講(令和4年11月)

 令和四年十一月度 御報恩御講

 『阿仏房尼御前御返事(あぶつぼうあまごぜんごへんじ)』     建治元年九月三日  五十四歳

 此(こ)の度(たび)大願(だいがん)を立(た)て、後生(ごしょう)を願(ねが)はせ給(たま)へ。少(すこ)しも謗法(ほうぼう)不(ふ)信(しん)のとが(失)候(そうら)はゞ、無(む)間(けん)大城(だいじょう)疑(うたが)ひなかるべし。譬(たと)へば海上を(かいじょう)船(ふね)にのるに、船(ふね)をろ(粗)そかにあらざれども、あか(水)入(い)りぬれば、必ず(かなら)船中(せんちゅう)の人々(ひとびと)一(いち)時(じ)に死(し)するなり。なはて(畷)堅(けん)固(ご)なれども、蟻(あり)の穴(あな)あれば必ず(かなら)終(つい)に湛(たた)へたる水(みず)のたま(溜)らざるが如(ごと)し。謗法(ほうぼう)不(ふ)信(しん)のあかをとり、信心(しんじん)のなはてをかた(固)むべきなり。浅(あさ)き罪(つみ)ならば我(われ)よりゆるして功(く)徳(どく)を得(え)さすべし。重(おも)きあやまちならば信心(しんじん)をはげまして消滅さ(しょうめつ)すべし。
(御書九〇六㌻一三行目~一六行目)

【通釈】この度、大願を立て、後生(の成仏)を願いなさい。少しでも謗法や不信の失があるならば、無間大城(に堕ちること)は疑いないであろう。たとえば海上で船に乗る時、船は粗末でなくとも、水が入ってしまえば(船が沈み)、必ず船中の人々が一度に死ぬことになる。また、畷が堅固であっても、蟻の穴があれば、必ず最後は湛えた水が溜まらないのと同様である。謗法不信の水を取り除き、信心の畷を固めるべきである。浅い罪ならばこちらから許して功徳を得させるべきである。重い過ちならば信心を励まして(その重罪を)消滅させるべきである。

【拝読のポイント】
〇謗法不信のあかをとり、信心のなはてを固めよう
 大聖人は拝読の御文で「少しでも謗法や不信の失があるならば、無間大城は疑いない」と仰せられ、続いて、「船は粗末でなくとも水が入れば沈む」「水田の畔に穴があれば水は漏れる」との譬えを示されました。これは、ほんの僅かの謗法や不信が、堕地獄の因になることを訓誡されたものです。私達は、自身の謗法不信の水を取り除き、また積んだ功徳が漏れ出さないような堅固な信心を心掛けるべきです。
 さらに本抄において大聖人は、御自身の誡めとして涅槃経の「謗法者を見ながらそれを指摘せずに放置する者は仏法の中の怨になる」(御書九〇五・大正一二―三八一A 趣意)との経文を引かれ、私共に対しても謗法破折の重要性を教えられています。私達は敢然と折伏を実践し、世間の人々の謗法を積極的に指摘しなければならないのです。
〇唱題で慈悲心を旺盛にし、共に成仏の道へ
 拝読の御文に「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし」とあるとおり、共に広布を目指す同志間にあっては、互いに信心を励まし、謗法を誡め合うことが大事です。もし、謗法を放っておくならば、本抄に「云ひて罪のまぬかるべきを、見ながら聞きながら置いていましめざる事、眼耳の二徳忽ちに破れて大無慈悲なり」(御書九〇六)と述べられているように、自らの目と耳の徳を失い、無慈悲な者となってしまうのです。
 謗法指摘の際には、総本山第五十九世日亨上人が『有師化儀抄註解』に「厳にも寛にも折にも摂にも、根底に大慈大悲の溢るゝあらずんば、万行徒(いたずら)に虚戯に帰せんのみ」(富要一―一四九)と指南されているように、その根底に慈悲の心がなければ本物とはなりません。もとより、大聖人は「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る念は大慈悲の念なり」(御義口伝・御書一七七二)と御教示です。私達は、日々の唱題で慈悲心を旺盛にし、縁ある人々を成仏の道に正しく導きましょう。
○日如上人御指南
 何事もない平穏な時には悠然としていても、いざ現実に難が競い起こり、障魔が蠢動(しゅんどう)すれば、驚き慌てるのが人の常であります。しかし、大聖人は「魔来たり鬼来たるとも騒乱する事なかれ」と仰せられて、むしろ魔が競い起きた時こそ、信心決定の絶好のチャンスと捉え、臆することなく泰然として対処するよう注意を喚起あそばされているのであります。
(大日蓮・令和四年九月号)
□まとめ
 大聖人は本抄末文で「相構へて相構へて、力あらん程は謗法をばせめさせ給ふべし」(御書九〇七)と、力の限りの折伏を勧められています。今こそ信心の畷を固めて、最後まであきらめることなく全力で折伏に挑戦し、何としても本年の支部折伏誓願目標を達成しようではありませんか。

□住職より

 本年も残すところ、五十日余りとなりました。皆さんは本年の目標、志を成就することはできましたでしょうか。そして、その最たる折伏を成就することは適いましたでしょうか。未だ自らの誓願を成就することができていなかったならば、また、もうすぐ本年も終わると安易に感じている方がいたならば、本日拝読の御書をしっかりと身に体して、油断怠りなく信行の実践に励んで、決して魔の蠢動(しゆんどう)に心乱されることなく、残す日々をお送り頂き、無事故無障礙にて大晦日をお迎え頂きたいと念願いたします。
 大聖人様は、「法華経を持(たも)ち信ずれども、誠に色心相応(しきしんそうおう)の信者、能持此(のうじし)経(きよう)の行者はまれなり。此等(これら)の人は介爾(けに)ばかりの謗法はあれども、深重の罪を受くる事はなし。信心はつよく、謗法はよはき故なり。大水を以て小火をけすが如し」と仰せになられております。要するに、大聖人様が仰せの如き信行の実践に励む者は非常に希(まれ)な存在であり、そうした者は多少の謗法があっても、日ごろの信心の強さによって消滅させることができるということであります。ですからこそ、総本山第二十六世日寛上人が、『六巻抄(ろかんしよう)』の『当流行事抄(とうりゆうぎようじしよう)』に、「大覚世尊(だいがくせそん)設教(せつきよう)の元意(がんい)は、一切衆生をして修行せしめんが為なり。(中略)行者応(まさ)に知るべし、受け難きを受け値い難きに値う、曇華(どんげ)にも超え浮木(ふもく)にも勝れり。一生空(むな)しく過ごさば万劫(ばんこう)必ず悔いん、身命を惜しまずして須(すべから)く信行を励むべし」と御指南のように、仏さまが私たちに対し、自我に執着し三毒煩悩に寤を抜かすことなく、ただただ『上求(じようぐ)菩提(ぼだい) 下化衆生(げけしゆじよう)』との天台大師のお言葉を拝し、後悔無きよう至心にお題目を唱え境涯を無限に開き、あまりある功徳利益をもって人々を正法に帰依せしめることができるよう、そうした志を打ち立てて、精進の誠を尽くしていかなければならないと思います。
 更に大聖人様は、「いふといはざるとの重罪免(まぬが)れ難(がた)し。云(い)ひて罪のまぬかるべきを、見ながら聞きながら置いていましめざる事、眼耳(げんに)の二徳忽(たちまち)ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく「慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是(これ)彼が怨(あだ)なり」等云云。重罪消滅しがたし。弥(いよいよ)利益の心尤(もつと)も然(しか)るべきなり」と、慈悲の一念心を持って、日々生活を送ることの大切さを御教示されております。
 私たちは、過去遠々劫(かこおんのんごう)の罪障消滅宿業打開すべく、その方途を得ることができた我が身の福徳を噛み締め、思う存分功徳を積ませて頂ける立場にあることに感謝し、その思いを御本尊様に捧げて、ただ自らのみならず、他人をも利することができるような境界になれるよう、そして「悪世末法の時、三毒強盛の悪人等集まりて候(そうろう)時、正法を暫(ざん)時(じ)も信じ持ちたらん者をば天人供養あるべし」と、大聖人様が仰せのように、常に諸天の御加護を受けられるような境界を目指して勇猛精進していくことが、私たちの信仰生活において最も肝要なことであります。
 どうか、明年『折伏躍動の年』、妙眞寺創立九十周年の佳節に向かって、いささかも自身の因縁宿習に惑わされ、自我に翻弄され、世間の悪風に心躍らされることが無いよう、確固たる信仰心を持って、コロナ禍や自然災害渦巻く世情の難局を、力強く乗り越えて頂きたいと願って止まないところであります。