御報恩御講(令和4年10月)

 令和四年十月度 御報恩御講

 『撰時抄』(せんじしょう)    

      建治元年六月十日   五十四歳

 一渧(いってい)あつまりて大海(だいかい)となる。微(み)塵(じん)つもりて須(しゅ)弥(み)山(せん)となれり。日蓮が法華経(ほけきょう)を信(しん)じ始(はじ)めしは日(に)本(ほん)国(ごく)には一渧(いってい)一(いち)微(み)塵(じん)のごとし。法華経(ほけきょう)を二(に)人(にん)・三人(さんにん)・十(じゅう)人(にん)・百(ひゃく)千万億人(せんまんのくにん)唱(とな)え伝(つた)うるほどならば、妙覚(みょうがく)の須(しゅ)弥(み)山(せん)ともなり、大(だい)涅(ね)槃(はん)の大海(だいかい)ともなるべし。仏に(ほとけ)なる道(みち)は此(これ)よりほかに又(また)もとむる事(こと)なかれ。(御書八六八㌻二行目~五行目)

【通釈】一滴の水が集まって大海となる。塵が積もって須弥山となったのである。日蓮が法華経を信じ始めたことは、日本国から見れば一滴のしずく、一粒の塵のようなものである。法華経を二人、三人、十人、百千万億人と唱え伝えていくならば、妙覚の須弥山となり、大涅槃の大海ともなる。成仏への道はこれよりほかに求めてはならない。

【拝読のポイント】
〇末法適時の正法とは
 本抄の冒頭に「夫(それ)仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」(御書八三四)と仰せられています。仏法においては、今はいかなる時であるのか、そしてどのような法に利益があるのか、これが最重要事です。時に適った法を誤るならば、修行をいくら重ねても功徳がそなわることはありません。むしろ、『教機時国抄』には「時を知らずして法を弘むれば益無き上還って悪道に堕するなり」(同二七〇)と、厳しく仰せられているのです。
 総本山第二十六世日寛上人は、本抄題号の「撰時」について通別の三意を示され、中でも別しての本意として、正像末の三時のうち末法という時を撰び取る意を示されています。そして何よりも、末法に弘通すべき法と帰依すべき仏について、末法は文底秘沈の大法である三大秘法が広宣流布する時であること、また末法においては下種の教主である大聖人が三徳兼備の御本仏であること、との二意を示し、これをわきまえる重要性を教示されています(撰時抄愚記・御書文段二八九~九〇趣意)。末法の世に生きる私達は、御本仏大聖人と大聖人の妙法によってのみ一切衆生が救われることをしっかりと銘記いたしましょう。
〇今こそ折伏を実践する〝時〟
 本日、拝読箇所の「日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一渧一微塵のごとし(中略)仏になる道は此よりほかに又もとむる事なかれ」との御文について、日寛上人は「漸々に寿量の妙法、広宣流布すべし(中略)『信』の字、『唱』の字、之を思え」(撰時抄愚記・御書文段三七二)と指南されています。
 すなわち、私達が大聖人に続き、破邪顕正の折伏を実践していくならば、必ず広宣流布は達成すること、またそのために、御本尊を固く信じ、自行化他のお題目を唱えていくこと、これが信心修行の要諦であるということです。
 コロナ禍をはじめとする様々な災いをなくすためには、私達が真剣な唱題を重ね、慈悲と勇気をもって、身近な人から折伏を実践していく以外に道はありません。まさに「今こそ折伏の時」、時を逃さず、自他ともの成仏につながる折伏に、果敢に挑戦していこうではありませんか。
○日如上人御指南
 法華経薬王品には(中略)広宣流布は必ず達成すると仰せでありますが、しかし、広宣流布は我々の努力なしでは達成することはできません。そこに今、我々が大聖人様の弟子檀那として、一切衆生救済の慈悲行である折伏をなすべき大事な使命があり、責務が存していることを知らなければなりません。そして、その使命と責務を果たしていくところに、我ら自身もまた広大なる御仏智を被り、計り知れない大きな功徳を享受することができるのであります。(大日蓮・平成二十六年十二月号)
□まとめ
 本年も残り二カ月半ほどとなりましたが、私達は時に適った信行ができているでしょうか。無為な時間を過ごしてはいないでしょうか。とにもかくにも、自らが行動を起こさなければ、何も変わることはありません。今、自分は何を為すべきか、このことを今一度見つめ直し、本年度の誓願成就に向けて、力の限り行動を起こしてまいりましょう。

□住職より

 本年も御会式法要の月となりました。宗祖日蓮大聖人様が末法の時代に入って百七十年、貞応元(1222)年二月十六日に当日本国に御出現遊ばされ、三大秘法の敎法を説き明かされた後、弘安二年十月十二日には、出世の本懐として本門戒壇の大御本尊様を御図顕遊ばされ、此の悪世末法に御出現された目的を果たされ、弘安五年十月十三日、池上宗仲の館において御入滅遊ばされました。その滅不滅三世常住の相を現ぜられた、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人様の御恩徳に感謝申し上げ、その御姿を寿ぎ奉り、更に御遺命たる広布大願に向かって、更なる折伏の実践をお誓い申し上げる法要が、毎年行われる宗祖日蓮大聖人御会式法要の正しい主旨であります。ですから日蓮宗他門や大聖人様を敬う新興宗教のように、ただ年に一度の祥月命日の大法要の如き行事では無く、日蓮正宗においては大聖人様の御姿を正しく拝し、しかるべき意図を以て御会式法要を修するのであります。
 こうした時節を迎え、未だコロナ禍の終熄という出口が見えない状況下、更に追い打ちをかけるように全国各地で台風被害等の自然災害、コロナ禍による日常生活への悪影響が見られ、最近「なんでこんな世の中を生きて行かなきゃ行けないのだろう」、「自分はなんの為に生きているのだろう」、「なんでこんな目に遭うのだろう」という言葉を、メディア等のインタビューや記事等で目にすることが多くあります。
 しかし、皆さんは受けがたき人として生を受け、値い難き正法正義に帰依することができた有り難き因縁のもとで、大聖人様が『富木殿御書』に、「一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」と仰せのように、与えられた人生を「いかに生きるか?」ということの意味を銘記し、悔い無き人生の日々を送ることの大切さを既に御承知のことと思います。しかしながら、世間の人々はそのことを知らずに、大聖人様が『新池御書』に、「地獄に堕ちて炎にむせぶ時は、願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」と仰せのように、三毒煩悩、世間の垢に犯されて、自由気ままに、誤った価値観や倫理観、自分勝手な尺度で物事を推し量り、あらゆる流行に身を任せ、喜怒哀楽激しい六道輪廻の境界を彷徨い、物事の因縁宿習因果応報の原理を知らず、自身の欲望のもとに築いた幸福を追い求めた結果、結局は思うように立ちゆかず、大きな壁にその行く手を阻まれた時、命すら危うい大きな病魔に冒された時、様々な諸難困難を迎えた時、突如大きな虚無感に襲われることとなるのであります。
 今、私たちは何を資糧として、何を目的に毎日を送るべきか。それは大聖人様が『松野殿御返事』に、「世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし。況してや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦ひなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ」との如く、信心を基軸として毎日を生きて行くことそのものが修行であり、その中で罪障消滅宿業打開に努め、現当二世に亘る福徳増進と広布大願に向かい、世の中の平和安穏と縁する全ての方々の真の幸福を願いつつ、まずは自分自身が人としてしかるべき人生の歩みを運ぶことが肝要であります。時に私たちも日蓮正宗僧俗としての身口意三業の行業を見誤り、我意我見に執われた姿、我が儘な信心の姿、自身の都合によるいい加減な信心の姿を犯しかねませんが、それは皆、御本尊様に対する確信の無さ、いわゆる「不信」が原因となるのであります。私たちの信仰生活の日々は、決して安易で甘いものではありません。とにかく今、どこまで御本尊様を信じ抜くことができているかどうか、我が身に何が起きようとも全ては自分自身の因縁宿習によるものと心得、受け入れ、立ち向かっていく勇気があるかどうか、大聖人様が仰せの如き信行の実践と、真剣な唱題行を恙なく行えているかどうかを、今一度省みることが肝要であります。そして、間違っても人として、令和の法華講衆として恥ずべき姿を晒すことがないよう、精進の誠を尽くして頂きたいと心より念願いたします。