御報恩御講(令和4年9月)

 令和四年九月度 御報恩御講

 

 『佐渡御勘気抄』(さどごかんきしょう)        文永八年十月初旬   五十歳

 仏(ほとけ)になる道(みち)は、必ず(かなら)身命(しんみょう)をす(捨)つるほどの事(こと)ありてこそ、仏に(ほとけ)はな(成)り候ら(そうろう)めと、を(推)しはか(量)らる。既(すで)に経文の(きょうもん)ごとく「悪(あっ)口(く)罵詈(めり)」「刀杖瓦礫」(とうじょう が りゃく)「数々見擯出(さくさくけんひんずい)」と説(と)かれて、かゝるめに値(あ)ひ候こ(そうろう)そ、法華経(ほけきょう)をよ(読)むにて候ら(そうろう)めと、いよいよ信心(しんじん)もおこり、後生(ごしょう)もたの(頼)もしく候。(そうろう)
(御書四八二㌻九行目~一二行目)

【通釈】仏になる道は、必ず身命を捨てるほどのことがあってこそ、仏になれるのだと考えられる。すでに経文には「悪口罵詈」「刀杖瓦礫」「数々見擯出」と説かれており、このような難に値ってこそ、法華経を(身をもって)読むことになるであろうと、いよいよ信心も起こり、後生もたのもしいものとなる。

【拝読のポイント】
〇竜口法難と発迹顕本
 文永八年九月十二日、竜口法難において大聖人は、それまでの上行菩薩の再誕日蓮という仮の姿(垂迹身)を発(はら)い、久遠元初の御本仏即日蓮としての真実の姿(本地身)を顕されました。これを「発迹顕本」と言います。この御本仏の御境界の上から、拝読の御文に「必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめ」と教示されているのです。
 大聖人は、『妙一尼御前御消息』に「いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を」(御書八三二)と仰せられ、妙法信受の大功徳によって必ず成仏することができる、と断言されています。また、七月に拝読した『四条金吾殿御返事』には「此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり」(同七七五)とも仰せられて、難を覚悟した信心がいかに重要であるかを教えられています。
 私達は、大聖人へ御報恩の誠を尽くし、同時に自身の成仏をたしかなものとするためにも、一層の折伏に自らを奮い立たせようではありませんか。
〇転重軽受の功徳
 大聖人は「我が身は過去に謗法の者なりける事疑ひ給ふことなかれ」(兄弟抄・御書九八一)と誡められています。『摩訶止観』に「散善微弱(さんぜんみじゃく)」(止観会本中二〇三参照)という言葉があります。これは、正法正義に依らぬ散心(散乱した心)で行う善行の力が非常に弱い、との意味であり、世間の人が他人に親切にする、人を助けるために相談に乗ったり援助をしたりすることも「散善」に当たります。総本山第六十七世日顕上人は、次のように指南されています。「散善が『微弱』であるということは(中略)その人の過去から持ってきておる大罪があっても、その罪報を本当に動かして、菩提の方向に持っていくことはできない(中略)つまり、散善をいくら修していても、そこには罪障消滅の根本的な解決はありえない」(大日蓮・平成九年四月号)と。さりとて、邪義邪宗によって罪障消滅を願うことなどは、もってのほかです。
 しかも当時の弟子・信徒の中には、我が身に難が降りかかることを恐れたり、大聖人に対する不信を持つ者が続出しました。そこで大聖人は『転重軽受法門』を認められ、「過去世の宿業が重く、現世には尽くすことができず、未来世にも地獄の苦しみを受けるところを、今このような重い苦しみに値うことにより、地獄の苦しみがたちまちに消え、ついには一仏乗を得ることもできる」(御書四八〇趣意)と励まされています。折伏の実践によって魔が競い起こった時こそ、より強盛な信心を貫くことで転重軽受の大功徳を我が身に頂戴し、罪業深き私達が、疑いなき成仏の境界に至れるのですから、今こそ破邪顕正の折伏を実践してまいりましょう。
○日如上人御指南
 折伏はたとえ相手がいかなる境界の人であろうが、またいかなる障魔が競い起きようが、広大無辺なる大御本尊様への絶対の確信のもと、慈悲と忍辱と「一心欲見仏 不自惜身命」の決意を持って、勇躍として折伏を行じていくことが肝要であります。(大日蓮・令和四年五月号)
□まとめ
 混沌とした世相を平穏ならしめ、真の仏国土へと変えていくためには、何よりも私達の実践行動が欠かせません。「報恩躍進の年」も残り四カ月となりました。いよいよ本年の終盤へ向けて、折伏誓願を必ず達成するため、真剣な唱題と折伏に全身全霊で取り組んでまいろうではありませんか。

□住職より

 今、コロナ禍を始めとする、ありとあらゆる不幸な姿が、世の中に苦悩と悲しみをもたらしております。唯一明るい話題と言えば、アメリカプロ野球・メジャーリーグの大谷翔平選手の活躍ではないでしょうか。その投打における活躍はもとより、常に謙虚で驕り高ぶらない、自他のチームメイトやあらゆるファンに対する気遣い、上に上を目指し努力に努力を重ね、野球一筋に集中する姿勢と期待を裏切らない結果を出す姿に、大谷選手へ畏敬の念を抱く他チームの選手逹やファンをも虜にし、慕われ好かれる大谷選手の性格や日頃の所作振舞・発言等は、人として模範とすべき一つの姿であり多くの人を魅了する姿であるものと感じます。
 私たち日蓮正宗の僧俗が目指すべきは、広宣流布、平和仏国土実現であり、今日の世情を察するに、早急の課題はコロナ禍の終熄と世界平和の実現にあります。その為には、邪宗謗法の害毒や三毒煩悩に犯された人々を、正法に帰依せしめる折伏こそが必須であり、先ずもって私たちは、折伏のできる境界の確立と、世のため人のために広布への大善行にどれだけ粉骨砕身できるかであります。
 大聖人様は『四条金吾殿御返事』に、「(摩訶止觀)弘決第八に云はく「必ず心の固きに仮って神の守り則ち強し」云云。神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候。法華経はよきつるぎなれども、つかう人によりて物をきり候か」と仰せになられております。
 皆さんの信心の厚薄や取り組みによって、諸天に護られるかどうか、願いが叶うか否か、成仏への大直道を真っ直ぐ進めるかどうかが変わってきます。ですからこそ、今日のような明らかに世の中が騒然としている今、末法唯一無二の正法の信仰者としてその本領を発揮するために、油断怠りなくあらゆる自我に執着する心、慢心を排除して精進して行くことが肝要であります。
 ここで「慢心」について、仏教で説かれる「七慢」を挙げますと、①慢…「自分は優れている」と自負し、心を高ぶらせること。②過慢…「自分が優れている」と思い高ぶり、他人を見下し小馬鹿にすること。③慢過慢…「自分のことが優れている」と自惚れ、他人を見下すこと。④我慢…自我に執着し、我こそ尊しと自惚れること。⑤増上慢…「自分は既に悟った、充分に功徳を累ねた尊い存在である」と思うこと。⑥卑慢…自分より尊い人に対し、「自分はわずかに劣っている」と自分を過大評価すること。⑦邪慢…自分に徳がないのにもかかわらず、徳が勝り偉いと誇ることの七つを言い、私たちが戒めるべき七慢として説かれております。第三十三世日元上人様は、「法水は慢の高山に留まらず、何に仍ってか大道を得ん」と御指南されております。要するに御本尊様の功徳の法水は高いところから低いところに流れ通うように、私たちは慢心を起こしてあたかも山の頂きに登り、人を見下すようなことなく、常に謙虚で正直に、卑屈になる必要はありませんが身心を低く持ち、御本尊様からの功徳の法水が流れ通うよう心掛けることが肝要であります。
 どうしても信心歴が長くなったり、経験を積みかさねると、多少なりとも慢心を起こしがちになりますが、私たちの信心は一生を通して功徳利益を積み重ねて、現当二世に亘る一生成仏の境界を築き上げるために、与えられた人生の日々をいかに生きていくかが信心修行の要諦であります。どうか、ここのところをはき違えることがないよう、初心不可忘の心を大事にして頂きたく思います。