御報恩御講(令和4年8月)

 令和四年八月度 御報恩御講

 『妙一尼御前御返事(みょういちああごぜんごへんじ)』     弘安三年五月十八日  五十九歳

 夫(それ)信(しん)心(じん)と申(もう)すは別(べつ)にはこれなく候。(そうろう)妻(つま)のをとこ(夫)をおしむが如(ごと)く、をとこの妻(つま)に命を(いのち)すつるが如(ごと)く、親(おや)の子(こ)をすてざるが如(ごと)く、子(こ)の母(はは)にはなれざるが如(ごと)くに、法華経(ほけきょう)・釈(しゃ)迦(か)・多(た)宝(ほう)・十(じっ)方(ぽう)の諸(しょ)仏(ぶつ)菩(ぼ)薩(さつ)・諸天善神(しょてんぜんじん)等(とう)に信(しん)を入(い)れ奉り(たてまつ)て、南無妙法蓮華経と唱(とな)へたてまつるを信心(しんじん)とは申(もう)し候な(そうろう)り。しかのみならず「正直(しょうじき)捨(しゃ)方便(ほうべん)、不(ふ)受(じゅ)余経(よきょう)一(いち)偈(げ)」の経文を(きょうもん)、女(おんな)のかゞみ(鏡)をすてざるが如(ごと)く、男(おとこ)の刀を(かたな)さすが如(ごと)く、すこしもす(捨)つる心な(こころ)く案(あん)じ給(たま)ふべく候。(そうろう)
(御書一四六七㌻二行目~五行目)

【通釈】そもそも信心というのは特別なことではない。妻が夫をいとおしく思うように、夫が妻のために命を捨てるように、親が子供を捨てないように、子供が母親から離れないように、法華経・釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏・菩薩・諸天善神等を信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉ることを信心というのである。そればかりでなく、「正直に方便の教えを捨てる」「余経の一偈をも受けない」と説かれる経文を、あたかも女性が鏡を大切にして身から離さないように、男性が刀を身に帯しているように、少しも捨てる心を持たずに信心を行じていきなさい。

【拝読のポイント】
〇信心とは自行化他にわたる唱題の実践
 大聖人は本抄に、親子や夫婦が互いを慈しむ心に寄せて、信心とは何か特別なことではなく、御本尊を一心に信じてお題目を唱えることに尽きる、と教えられています。また総本山第二十六世日寛上人は、「『一心欲見仏』とは即ち是れ信心なり。『不自惜身命』とは即ち是れ唱題の修行なり、此れに自行化他有り、倶に是れ唱題なり」(依義判文抄・六巻抄九九)と御指南です。つまり信心修行の肝要は、一途に御本尊を求める信心と、身命を惜しまず自行化他の唱題を実践することにある、と教示されているのです。
 したがって私達が第一に心掛けることは、恋慕渇仰の心をもって、自らお題目を唱え、そして人にも唱えていただけるようにすることです。この自行化他の信心に精進するところ、厳然たる大功徳が具わることを確信し、毎日の唱題、毎日の折伏実践に挑戦してまいりましょう。
〇謗法厳誡の信心で今こそ折伏
 大聖人は宗旨建立以来、「諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なり」(如説修行抄・御書六七三)との御確信のもと、諸宗破折の大鉄槌を振るわれました。それはひとえに、「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(立正安国論・同二三四)と仰せのごとく、災難はもとより、あらゆる不幸の根本原因が、間違った信仰にあるからです。
 よって、本抄においても「正直捨方便、不受余経一偈」の経文をもって、方便・余経の一切を捨てた、妙法への純一な信仰を強く促されているのです。私達は、謗法厳誡の純粋な信仰心を堅く持つとともに、人々に謗法の恐ろしさを教え、その害毒から救うことこそ急務と心得、全力で破邪顕正の折伏に取り組んでいこうではありませんか。
○日如上人御指南
 昨今の新型コロナウイルス感染症による騒然とした国内外の様相を仏法の鏡に照らして見る時、その根本原因は邪義邪宗の謗法の害毒にあることを知り、今こそ私どもは全力を傾注して、一人ひとりの幸せはもとより、全人類の幸せと全世界の平和実現のため、一天四海本因妙広宣流布を目指して、破邪顕正の折伏を決然として実践していかなければなりません。
(大日蓮・令和四年七月号)
□まとめ
 「折伏する相手がいない」と口にする人がいますが、相手がいないのではなく、折伏をする勇気がないのではないでしょうか。真剣な唱題を重ねれば、必ず勇気と慈悲の心が湧いてきます。殊に八月は、全国的に盂蘭盆会が修されます。普段あまり顔を合わせない親戚・縁者と再会できるのも、この時期ならではのことです。貴重な機会を逃すことなく、大聖人の「万事を閣いて謗法を責むべし」(聖愚問答抄・御書四〇二)との仰せどおり、縁ある人々の折伏に挑戦してまいりましょう。

□住職より

 法華経の経文に、「不染世間法(ふせんせけんほう) 如蓮華在水(によれんげざいすい)」とあります。これは、「世間の法に染(そ)まざること 蓮華の水に在(あ)るが如し」と読みます。要するに、私たちはが信心修行して行く中で、「世(せ)間(けん)法(ほう)、すなわち世の中の動き、風潮、流行に流され染まらいことが大事であり、それはあたかも蓮華の花が泥水の中から、白く華(か)麗(れい)な花を咲かせるようなものである」ということであります。
 今、世間を見れば新型コロナウイルスの感染爆発により、人々は悩み苦しみの日々が絶え間なく続き、その苦悩によって益々心が荒(すさ)んで行き、結果として大聖人様が『一生成仏抄』に、「衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄(じよう)土(ど)と云ひ穢(え)土(ど)と云(い)ふも土に二つの隔(へだ)てなし。只我(われ)等(ら)が心の善悪によると見えたり。衆生と云ふも仏と云ふも亦(また)此(か)くの如し。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり」と仰せのように、その心の用(はたら)きが更に世の中の人びとに追い打ちをかけるかのように、自然災害等の災禍となって顕われております。
 ただでさえ娑婆世界と言われる世の中は、人々を幸せにするどころか返って不幸のドン底に突き堕とす、邪宗敎、謗法の誤った教えとその恐るべき害毒をはじめ、人々の貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒煩悩の用き、三毒に慢(まん)・疑(ぎ)を加えた五(ご)鈍(どん)使(し)、五欲という眼・耳・鼻・舌・身によって沸き起こる欲望「食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲など」による悪の縁が蠢(うごめ)き満ち溢れ、穢土と化しているのであります。
 こうした穢土化した娑婆世界に住し、コロナ禍という未曽有の災禍のなかでこそ、私たちは大聖人様が『報恩抄』に、「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ。春は花さき秋は菓なる、夏はあたヽかに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや」と仰せのように、仏教の根本的指針ともいべき『七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)』には、「諸悪莫作(しよあくまくさ) 衆善奉行(しゆぜんぶぎよう) 自浄其意(じじようごい) 是諸仏教(ぜしよぶつきよう)(もろもろの悪を犯すことなく 善行を行い 自らその心を清くすることが 諸仏の教えである)」との文々句々を肝に銘じ、時には自らの所作振る舞い、発言行動を省みて、信心の原点、初心に立ち返ることも大切なことであります。
 そして大聖人様が、「譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」と仰せのように、自行化他に亘る、弛まざる唱題行をもって、自らの心根を清く正しく美しく保つことが肝要であります。
 つまり、妙楽大師の「一心一念法界に遍し」という言葉にもあるように、宇宙法界森羅万象を掌握する仏さま御照覧のもとで、私たちの一念が仏さまを始め全てに相通ずるからこそ、魑(ち)魅(み)魍(もう)魎(りよう)うごめき負のオーラ漂う毎日、正しく御仏智を拝せられるよう、そして苦しみ喘ぐ世の中の人々を、末法唯一無二の正法正義に帰依せしめるためにも、皆様の尊い御一念を遍く及ぼすことができるように心掛けて頂きたいと存じます。