御報恩御講(令和4年5月)

 令和4年5月度 御報恩御講

 『善無畏三蔵抄』(ぜんむいさんぞうしょう)        文永七年 四十九歳

 仮令(たとい)強言(ごうげん)なれども、人(ひと)をたすくれば実(じつ)語(ご)・軟(なん)語(ご)なるべし。設(たと)ひ軟(なん)語(ご)なれども、人(ひと)を損(そん)ずるは妄(もう)語(ご)・強言(ごうげん)なり。当世(とうせい)学匠(がくしょう)等(とう)の法(ほう)門(もん)は、軟(なん)語(ご)・実(じつ)語(ご)と人々(ひとびと)は思(おぼ)し食(め)したれども皆(みな)強言(ごうげん)・妄(もう)語(ご)なり。仏の(ほとけ)本(ほん)意(い)たる法華経(ほけきょう)に背(そむ)く故(ゆえ)なるべし。日蓮が念仏(ねんぶつ)申(もう)す者(もの)は無(む)間(けん)地(じ)獄(ごく)に堕(お)つベし、禅宗(ぜんしゅう)・真言宗(しんごんしゅう)も又(また)謬(あやま)りの宗な(しゅう)りなんど申(もう)し候は(そうろう)、強言(ごうげん)とは思(おぼ)し食(め)すとも実(じつ)語(ご)・軟(なん)語(ご)なるべし。(御書四四五㌻一〇行目~一四行目)

【通釈】たとえ強言であっても、人を助ける(救うためのものである)ならば実語・軟語となるであろう。たとえ軟語であっても、人を誤らせるならば妄語・強言である。今の世の学者らの法門は、軟語・実語と人々は思っているが、みな強言・妄語である。仏の本意である法華経に背く故である。日蓮が、念仏を称(とな)える者は無間地獄に堕ちる、禅宗・真言宗もまた誤った宗教である、等と言うのは、強言と思うであろうが、実語・軟語なのである。

【拝読のポイント】
〇謗法を破折してこそ真の折伏
 大聖人は、小松原法難から三日後の文永元(一二六四)年十一月十四日、花房の蓮華寺において、五体の阿弥陀仏像を造るほど熱心な念仏者であった道善房に対し、徹底して破折を加えられました。かつての師であっても、おもねることのない大聖人の強い言辞は、真に師の成仏・幸せを願われる御心からであり、嘘偽りのない真実の言葉、まさに「実語・軟語」にほかなりません。これが縁となり、道善房がついに法華経を受持したことを、本抄で「今既に日蓮師の恩を報ず」(御書四四五)と仰せられ、師への恩を報ずることができたことをお喜びになられているのです。
 大聖人御在世当時の学匠のみならず、現代においても、他宗の僧侶等がメディア出演や出版物を通して、世間の人にとって優しく聞こえの良い言葉を並べ立てています。しかし、大聖人が「皆強言・妄語なり。仏の本意たる法華経に背く故」と仰せのように、それらはすべて正法に背く妄語に過ぎません。よって私達は、これらが不幸の根源であることを示し、強く厳しく破折すべきです。
〇あくまで慈悲の心を根本に
 総本山第六十六世日達上人は、『妙法曼陀羅供養事』の御講義のなかで「末法における大謗法の者は、世界中の人の眼を取ってしまった罪よりも深い。また、この世界中のお寺を焼き払った罪よりも、もっと重大である。そういう大きなことを一人でやったほどの謗法一闡提の人びとが、今日本国に充満しておる。だから天においては毎日眼を怒らす。即ち天変が起きるのは当り前である。あるいはまた、地においては、地夭、色々不祥なことが起きるというのは当り前である」(達全一―二―三〇五)と指南されています。だからこそ私たちは、今回拝読の御文から、折伏を行ずる心構えをしっかり学ぶべきなのです。大聖人が『法華初心成仏抄』に「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし」(御書一三一六)と仰せられているように、相手が聞く耳を持たずとも、また反発しようとも、正法を強いて説き聞かせることこそ大切です。聞き手の気に障らぬような物言いで折伏をしても、その人を真に救うことにはならないのです。たとえ厳しく強い言葉であったとしても、相手の幸せを願う慈悲心からなる実語をもって、敢然と破邪顕正の折伏を実践しましょう。
○日如上人御指南
 今日、邪義邪宗の謗法がはびこり、ために世情が混乱し、戦争、飢餓、疫病、異常気象等によって様々な悪現象を現じている時、まさにこのような時こそ、我々は不軽菩薩の行いを軌範として、一人でも多くの人々に妙法を下種し、折伏を行じていかなければならないのであります。まさに「今こそ 折伏の時」であります。(大日蓮・令和四年四月号)
□まとめ
 今月から法華講講習会が開催されています。全国の同志が総本山に率先して集い、信行を深めて折伏への決意を新たにしています。世情、騒然としている今だからこそ、御法主上人の御指南を心に刻み、広布へ向かう精進の先に自他共の成仏があることを確信し、自行化他の実践を重ねてまいろうではありませんか。

□住職より

総本山第26世日寛上人が本門寿量品について御説法された『寿量品談義』(『富士宗学要集10巻』)の主要な御文(意訳)

①寺院に足を運んで説法を聴くことが肝要である。もしそうしなければ罪を得ることになる。罪とは「失意罪」といって、心に願うことが一切叶わないことである。
②寺院に足を運んで説法を聴く功徳は、家から寺院まで歩くとき足の裏についた砂の数ほど罪障を滅することができ、砂の数ほど寿命を延ばし、砂の数ほど生まれ変わっても仏に遇い奉ることができる。③説法を聴くために家から一歩出ただけで、何万回、何億回生死を繰り返して積んできた罪障を滅することができる。よって寺院に足を運んで説法を聴くのと聴かないのとでは、その罪障と福徳には天地雲泥の差がある。
④本門戒壇の大御本尊が在す処はすなわち本門の戒壇である。大御本尊に打ち向かって戒壇の地に留まり南無妙法蓮華経と唱えるときは本門の題目である。志がある人は登山して拝しなさい。
⑤どのような事があっても、すべての物事を投げ捨て寺院に参詣し説法を聴いてお題目を唱え奉り、宗祖大聖人への報恩謝徳になぞらえることが肝要となる。
⑥いま幸いにして(日寛上人が)本門寿量品を説き広めているのに、どうして参詣しないのか。どうして夢の中の世間の煩わしいことに強く執着して、信心を励まさないのか。
⑦法門を聴く度に少しも疑いなく信じていきなさい。もし少しでも疑うならば、ひっくり返した器に水が入らないように、妙法の法水があなたたちの己心に入らないことになるので、信じる心が最も肝要である。
⑧自身において決して疑ってはいけないというのは、十界は悉く妙法蓮華経の当体の水であるということ。私たちは寒さという悪縁に遭って迷いの凡夫の氷となっている。しかしながら、太陽たる御本尊という浄縁の光に遭い奉れば、そのまま私たちが悪業煩悩の氷が解けて根本の妙法蓮華経の水となり即身成仏できる事がはっきりと定まっているので、このことを自身において少しも疑ってはいけない。
⑨信とは真実にして偽りを交えず、いつまでも外れないことをいう。もしそうでなくして上辺だけでは信とは認められない。
⑩朝に夕に本門事行の南無妙法蓮華経と修行する信者となれば、即身成仏は決定している。
⑪お題目を唱え奉れば、春の後に夏が来なかったとしても、潮の満ち引きがなかったとしても、絶対に成仏は疑いない。
⑫たとえ同じような説法であったとしても、信力に任せて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えて聴聞すべきである。
⑬後世を知るとはどういうことか。それは、衣食などの助けによって初めて保たれるこの体は必ず限りがあるため、僅かなこの世界に執着をなさず慢心や偏った考えをやめて、正法正師に遇い奉り、自分に起こる善いことも悪いことも共に未来において成仏の願いを果たすこととなると思う者こそ、後世を知る人である。
⑭成仏という結果を成就することは、原因となる修行による。その修行を励むことは信じる心による。信心を進むことは法を聞くによる。説法を聞かなければ信心は生ぜず、信心が生じなければ修行を怠る。修行を怠れば未来どんな処に生まれるであろうか。よって寺院に歩みを運んで説法を聴聞することが肝要である。聞く裏に信心を生じており、その間が仏である。一念信心を生ずれば一念の仏、二念信心を生ずれば二念の即仏、一時信心を生ずれば一時の仏、一日信心を生ずれば一日の仏である。信心を生ずることは必ず聞くことによる、もし信心を生じない者がいたとしても聞くことさえすれば功徳は無量である。