御報恩御講(令和4年3月)
『日厳尼御前御返事(にちごんあまごへんじ)』 弘安三年十一月二十九日 五十九歳
叶(かな)ひ叶(かな)はぬは御(ご)信心(しんじん)により候べ(そうろう)し。全く(まった)日蓮がとが(咎)にあらず。水(みず)す(澄)めば月(つき)うつ(映)る、風(かぜ)ふけば木(き)ゆ(揺)るぐごとく、みなの御心(みこころ)は水(みず)のごとし。信(しん)のよは(弱)きはにご(濁)るがごとし。信心(しんじん)のいさ(潔)ぎよきはす(澄)めるがごとし。木(き)は道(どう)理(り)のごとし、風(かぜ)のゆるがすは経文を(きょうもん)よむがごとしとをぼしめせ。
(御書一五一九㌻一五行目~一五二〇㌻三行目)
【通釈】願いが叶うか叶わないかは、(あなたの)御信心によるのである。まったく日蓮のとがではない。水が澄めば月が映り、風が吹けば木が揺れるようなものである。あなた方の御心は水のようなものである。信が弱いのは水が濁るようなものであり、信心が潔いのは水が澄むようなものである。また、樹木は仏法の道理のようなものであり、風が木を揺らすのは(法華経の)経文を読誦することであると心得なさい。
【拝読のポイント】
〇願いが叶うか叶わないかは信心の厚薄による
大聖人は拝読の御文で、日厳尼の願い出に対して「叶ひ叶はぬは御信心により候」と仰せられています。私達が功徳をいただくためには、妙法の四力、つまり仏力・法力・信力・行力という四つの力が成就されなければなりません。仏力・法力とは、御本仏大聖人の衆生救済の御力と御本尊の絶大なる功徳力であり、信力・行力とは、私達の御本尊を信ずる力と余事を交えずお題目を唱える力、御本尊に向かって仏道修行を行ずる力を言います。そして総本山第二十六世日寛上人は、『当体義抄文段』に「法力・仏力は正しく本尊に在り。之を疑うべからず。我等応に信力・行力を励むべきのみ」(御書文段六二九)と指南されています。
私達は、御本尊にそなわる広大な御力を確信して、大聖人の「月々日々につより給へ」(聖人御難事・御書一三九七)との仰せのままに、いよいよ信力・行力を増すように励んでまいりましょう。
〇大願とは法華弘通なり
拝読の御文に「信心のいさぎよきはすめるがごとし」「風のゆるがすは経文をよむがごとし」と仰せられているように、祈りを叶えるには、強盛な信心と仏道修行の実践が欠かせません。その修行とは、自行と化他を共に行うことが基本です。まず自行、つまり自身の修行とは、日々の勤行・唱題をはじめ、御登山や寺院参詣、御供養等を実践することです。次に化他行とは、人の謗法を戒めて大聖人の仏法に帰依させる折伏や、入信間もない講員さんなどを育成することです。
殊に折伏は、大事中の大事です。大聖人は、『南条兵衛七郎殿御書』に「信心ふかき者も(中略)法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(御書三二二)と仰せになり、たとえ信心が深い人であっても、折伏をしなければ成仏は叶わない、と厳しく誡められています。今、思い通りに物事が進まずに悩んでいる人こそ、勇気をもって折伏に挑戦すべきです。
もとより「大願とは法華弘通なり」(御義口伝・同一七四九)と仰せられているように、御本仏大聖人の大願は、妙法広布による一切衆生救済にあります。私達は、大聖人の弟子檀那として、地涌の菩薩の眷属として、広布進展の一翼を担っているのですから、現今のコロナ禍や災害等で悩み苦しむ人々を一刻も早く救うため、真剣な唱題を重ね、全魂込めて折伏を実践してまいろうではありませんか。
○日如上人御指南
今、世界は新型コロナ感染症によって、混乱をきたしていますが、そのなかで私どもは、一人ひとりが身軽法重・死身弘法の御聖訓を奉戴し、異体同心・一致団結して妙法広布に全力を挙げて精進していくことが最も肝要であろうと思います。(大日蓮・令和三年十一月号)
□まとめ
近年、競い起こる災害や疫病などの苦難を見るとき、本宗僧俗の使命はまさに重大です。『法華初心成仏抄』に「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(御書一三一四)と仰せられているように、御本尊のもとにまず私共が集い、僧俗心を一つにして祈り、破邪顕正の折伏を実践して障魔を粉砕し、本年こそ支部折伏誓願目標を達成してまいりましょう。
□住職より
現在、コロナ禍に加えロシア軍によるウクライナ侵攻という大惨事が勃発し、正に仏法で説かれる三災たる「兵革(ひようかく)・穀貴(こつき)・疫癘(えきれい)」のうち、疫病と戦争の二難が世界中を震撼させております。
第二次世界大戦以降、医学の発展によりあらゆる病の薬が研究開発されることにより、人の寿命も格段と長くなり、科学の発展によりありとあらゆる物が製造開発されてきました。こうした物質文明が発展することにより、便利さや快適さが増して行きましたが、所詮世の中の人々は貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒強盛なる故に、長くなった人生において、次第にその命が顕著となって物質的豊かさを追い求めることにより心が荒(すさ)み始め、と同時に事件事故が頻発(ひんぱつ)し、「物で栄えて心で滅ぶ」時代になっております。こうした結果を、大聖人様は『瑞相御書』に、「人の悦び多々(たた)なれば、天に吉瑞(きちずい)をあらはし、地に帝釈(たいちやく)の動(うごき)あり。人の悪心盛んなれば、天に凶変(きようへん)、地に凶夭(きようよう)出来す。瞋恚(しんに)の大小に随ひて天変の大小あり。地夭(ちよう)も又かくのごとし。今日本国、上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり」と仰せのように、世の中で起こるすべての自然災害を初めとするあらゆる災禍は、人心の荒廃が原因であると御教示されております。
更に大聖人様は『聖人御難事』に、「我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はをそるゝ心なし」と仰せのように、元来世間の人々は仏様が説かれる正法を信ぜず蔑(ないがし)ろにし、目先の欲得に目を奪われ執着して、遠き将来のことを考えず今目の前にある現実だけを注視し、いざ臨終が近づいた時、初めて死の恐怖を感じ右往左往するような浅ましい姿を見せています。
日本のみならず世界的なことわざとして、「木を見て森を見ず」と言う言葉があります。これは目先の物に心を奪われ、非常に狭い視野となり全体像を掴めない状況、小さなことに執われ本来見るべき物事の本質、来たるべき未来に目を向けないことを意味します。
つまり、私たちが今心得(こころえ)るべき大切なことは、未だ猛威を奮っているコロナ禍に対しいたずらに恐れおののき、信行の実践まで自粛することがないよう今出来る最大限の精進と、今だからこそやるべきことを見出し修することにあります。
私たちが志す日々の真剣なる信心修行には一切無駄はありません。あるとすればお座なりの信心、怠惰な信心、確信の無い信心に陥り、功徳を積むどころか罪障を積み累ねて罰を被る結果となってしまうことでしょう。そうした愚かな姿にならないよう、宿世の因縁によっていつ終わるかわからない限られた命だからこそ、日々罪障消滅宿業打開、信行倍増して福徳増進に勤め、自己の利益ばかりを考える人々多き世の中を憂慮し、コロナ禍によって悩み苦しむ方々に幸福への道へと誘うことができる案内人になれるよう、折伏の志をしっかり持った自行化他の唱題行に徹し、どうすれば折伏ができるのか、人を幸せに導くことができるのかを考え実践し、また一家和楽の信心を実現できるよう努力精進頂きたいと存じます。