御報恩御講(令和4年2月)

 『土籠御書(つちろうごしょ)』          文永八年十月九日   五十歳
 日蓮は明日(あす)佐渡国(さどのくに)へまか(罷)るなり。今(こ)夜(よい)のさむ(寒)きに付(つ)けても、ろう(牢)のうちのありさま、思(おも)ひやられていたは(痛)しくこそ候へ(そうら)。あはれ殿(との)は、法華経(ほけきょう)一(いち)部(ぶ)を色心(しきしん)二(に)法(ほう)共(とも)にあそばしたる御(おん)身(み)なれば、父母(ふぼ)・六親(ろくしん)・一切衆生を(いっさいしゅじょう)もたす(助)け給(たま)ふべき御(おん)身(み)なり。法華経(ほけきょう)を余(よ)人(にん)のよ(読)み候は(そうろう)、口(くち)ばかりことば(言)ばかりはよ(読)めども心は(こころ)よ(読)まず、心は(こころ)よ(読)めども身(み)によ(読)まず、色心(しきしん)二(に)法(ほう)共(とも)にあそばされたるこそ貴(とうと)く候(そうら)へ。
(御書四八三㌻六行目~九行目)

【通釈】日蓮は明日、佐渡の国へ出発することになった。今夜の寒さを思うに、牢の中の有様が思いやられて痛ましい限りである。立派なことにあなたは、(この度の法難で)法華経一部を色心共に読まれたので、父母・六親・一切衆生をも救うことができる御身となられた。他の者の法華経の読み方は、ただ口や言葉だけであり、心で読むことはない。また、心で読むことがあっても身で読まない、色心共に読むことこそが貴いのである。

【拝読のポイント】
〇不自惜身命の精神で正法を弘通しよう
 大聖人は本抄において、「法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身」と仰せです。これは一往、土牢に幽閉された門下に向けて述べられたものですが、再往は、大聖人が竜口法難において御本仏として発迹顕本なされ、さらに鎌倉幕府の佐渡配流という処分によって、御自身が法華経の経文をまさに色読なさることを意味していると拝せます。
 大聖人は自らの忍難弘通のお振る舞いをもって、私達に対して身命を惜しまず法を弘めるべきであることを教えられました。その不惜身命・死身弘法によってこそ、『佐渡御勘気抄』に「仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめ」(御書四八二)とお示しのように、成仏が叶うのです。しかも拝読の御文に「父母・六親・一切衆生をもたすけ給ふべき御身なり」とあるように、法華経身読の功徳は自身のみならず、親や兄弟、家族・親族、一切衆生をも救うことが可能となるのです。
〇身口意の三業にわたる仏道の実践こそが大事
 大聖人は、「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず」と仰せられ、心と口と身体の三つが揃った信心の重要性を説かれています。心に御本尊を固く信じて広布の志を立て、口に妙法の題目を唱え、身体を使って実際に寺院に参詣し、総本山に登山する。そして何より折伏を行ずるという、身口意三業が一致した信行を実践していくことが大事なのです。
 総本山第二十六世日寛上人は、「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」(如説修行抄筆記・御書文段六〇八)と仰せです。つまり、いくら折伏の大切さを心の中で思っていても、実際の行動が伴わなければ、謗法となってしまうのですから、私達はこのことを深く銘記し、しっかりと折伏を実践してまいりましょう。
○日如上人御指南
 各々一人ひとりが今一度、身軽法重・死身弘法の御聖訓を拝し、一意専心、誓願達成へ向けて決然として折伏に打って出ることが肝要であります。座して広布を語るのではなく、勇躍として立ち上がり、妙法広布に資していくことが、今こそ肝要であります。(大日蓮・令和四年一月号)
□まとめ
 今月は、日蓮大聖人御聖誕の月です。この時に当たり、心機一転して仏道修行に励んでいくことが大事です。まず、自分自身が動くことです。殊に、今自らが折伏を実践することこそ急務です。
 御法主上人猊下は、「闘いを進めていく上で大事なことは、一人ひとりが右顧左眄することなく『我れ一人起たん』との決意をもって、蹶然として起ち上がることであります」(大日蓮・平成十九年一月号)と指南されています。このお言葉どおり、自らが決意し、自らが実践する、それが今なのです。機を逸することなく、誓願成就のために頑張りましょう。

□住職より

 コロナ禍となって3年目を迎え、未だコロナ禍の終熄という、出口の見えない状況が続いております。皆さんはすでに、新型コロナウイルス感染拡大という疫病災禍の原因が、邪宗謗法の害毒と人々の三毒煩悩が盛んになることによって起こるところの災いであると、御理解頂いていることと存じます。
 大聖人様は『松野殿御返事』に、「生死無常、老少不定の境、あだにはかなき世の中に、但昼夜に今生の貯へをのみ思ひ、朝夕に現世の業をのみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず。無行無智にして徒に明かし暮らして、閻魔の庁庭に引き迎へられん時は、何を以てか資糧として三界の長途を行き、何を以て船筏として生死の曠海を渡りて、実報・寂光の仏土に至らんや」と仰せであります。
 世の中の大凡の人は、ただ今生現世の目先の幸福を追い求め、自分自身の目の前にある現実が過去世の因縁とも知らず、更に未来世への宿業の存続と成仏得道への道を知らずに毎日、喜怒哀楽の人生を送っています。仮にこの過去・現在・未来の三世の道理を知り得たとしても、あらゆる誤った宗教や自己啓発などにその身を委ね、逆に不幸な人生を切り開いてしまうこととなり、現当二世に亘る人生を正しく改変すべき方途を知らずに、ただただ彷徨い喘いでいる方々がそのほとんどであります。
 そうした五濁悪世末法の日々において大聖人様が、「然るに在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし。況してや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦ひなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ」と仰せのように、御本尊様に全身全霊をもってお題目を唱え、その唱えるお題目も目的観を持った尊い志、折伏成就の祈りをもって真剣に臨まなければ、次第にお座なりのお題目となり、毎日2時間、3時間と長時間にわたって唱題して行くことも確かに尊いことではありますが、それが目的意識を持ち自行化他に亘る唱題でなければ、いつしか空題目に陥ってしまいます。つまり、総本山第26世日寛上人様が、「自行若し満つれば必ず化他あり。化他は即ちこれ慈悲なり」と御指南のように、皆さんの自行が化他、すなわち折伏に繋がるような慈悲の境界を開き、御本尊様からの尊い御仏智と諸天の御加護を賜ることが出来うるような唱題行の実践が非常に大事なことであり、そこのところをしっかり心掛けて唱題することが肝要であります。
 特にコロナ禍の今、大聖人様が『持妙法華問答抄』に、「かゝる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。只須く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてゝ偏に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」と仰せのように、せっかく人として生を受け値い難き仏法に巡り逢えた我が身の福徳を噛み締め、今生における楽しみ、喜びをひたすら追い求め、我意我見我欲に執着し、結果として我が身を自ら滅ぼすことのないよう、己を律して一生成仏の境界を開かしめることが、私たちが信心修行する目的であると覚悟し、求道の一念をもって日々精進することが肝要であります。皆さんの周りを見れば、楽しく毎日を送っている方々がいるかもしれません。しかし、いざ臨終を迎えた時、我が子や孫の未来の幸福なる人生を考えた時、「和して同ぜず」の意識をもって、周囲の環境がどうあれ、自分は末法の日蓮大聖人様の仰せの通りに、日々の信心修行に錬磨し功徳を積み累ねて、いざという時、御本尊様の御照覧と諸天善神の御加護が賜えるよう、さらに現当二世に亘る尊い信心修行によって、自ずと歓びに満ち満ちた境涯になれるよう、いよいよ精進の誠を尽くして頂きたいと心より念願いたします。