御報恩御講(令和3年12月)
令和三年十二月度 御報恩御講
『報恩抄』(ほうおんしょう) 建治二年七月二十一日 五十五歳
仏法(ぶっぽう)に入(い)りて第一(だいいち)の大(だい)事(じ)なり。愚(ぐ)眼(げん)をも(以)て経文を(きょうもん)見(み)るには、法華経(ほけきょう)に勝(すぐ)れたる経あ(きょう)りといはん人(ひと)は、設(たと)ひいかなる人(ひと)なりとも謗法(ほうぼう)は免れ(まぬか)じと見(み)えて候。(そうろう)而(しか)るを経文の(きょうもん)ごとく申(もう)すならば、いかでか此(こ)の諸人(しょにん)仏敵(ぶってき)たらざるべき。若(も)し又(また)をそ(恐)れをなして指(さ)し申(もう)さずば、一切経(いっさいきょう)の勝劣(しょうれつ)空(むな)しかるべし。 (御書一〇〇三㌻二行目~四行目)
【通釈】仏法における第一の大事である。日蓮の眼をもって経文を見たところでは、「法華経よりも勝れた経がある」と言う人は、たとえいかなる人であっても、謗法は免れないと説かれている。ゆえに経文のとおりに言うならば、どうしてこの諸人が、仏敵でないことがあろうか。もしまた(諸人を)恐れて(仏敵であることを)指摘しないならば、一切経の勝劣も空しいものとなるであろう。
【拝読のポイント】
〇一切経の勝劣について
大聖人が、本抄で破折されている真言宗の弘法や天台宗の慈覚・智証等の人師は、当時の人々に高徳と崇められていました。しかし大聖人は、それらの人師を「仏敵」と指弾されています。釈尊は一代五十年間に渡って五千・七千とも言われる多くの教えを説いてきましたが、そこには自ずと説かれた順序があり、勝劣浅深が存します。ところが諸宗の僧達は、仏の意に背いて、劣った経を尊んで勝れた経を貶め、浅い教えを重んじて深い教えを軽んじているのですから、仏敵となるのは当然です。
一切経の中には法華経こそが最勝真実の経典であり、末法では法華経の肝心・南無妙法蓮華経こそが人々を救う唯一無上の教えとなるのです。よって、大聖人の「諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(如説修行抄・御書六七三)との仰せのままに、謗法の人達に「あなたの信仰は誤りです。唯一の正しい教えによって共に幸せになりましょう。」と、折伏に邁進すべきです。
〇勇気を持って折伏を実践しよう
この信心は、常日頃から勤行や唱題をしていても、謗法に対する破折がなければ、拝読の御文に「をそれをなして指し申さずば、一切経の勝劣空しかるべし」と仰せのように、仏法の正邪は明らかとならず、謗法与同となってしまいます。当然そこには真の功徳も存在しません。したがって、私達が信心していくなかで最も恐れなければならないことは、謗法の罪科を見たり聞いたりしながら、その誤りを指摘することなく、そのまま放置しておくことです。
現在、新型コロナウイルスの蔓延やうち続く災害など、社会は混迷を極めています。私達はこの根本原因が、謗法にあることを知っているのですから、一日も早く謗法を止め、真の仏国土を実現するため、今こそ折伏に立ち上がるべきです。大聖人が、『曾谷殿御返事』に「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし」(同一〇四〇)とも仰せのように、世間を恐れて謗法を指摘しなければ、私達自身が無間地獄に堕ちることになるのです。自他ともに真の幸せを得るには、広布を目指す自行化他の信心の実践以外にはないのです。まず、真剣な唱題に徹しましょう。そして、唱題で培った勇気を持って実践行動しようではありませんか。
○日如上人御指南
今、世間を見ると、まさに末法濁悪の世相そのままに、邪義邪宗の謗法が跋扈(ばっこ)し、その害毒によって多くの人が不幸に喘いでいます。こういった悲惨な現状を見て、私どもは何をすべきか、ここが一番大事でありまして、私が言うまでもなく、私どもは、まず立正安国の原理に従って、不幸の根源である邪義邪宗の謗法を対治しなければ、本当の幸せを得ることができないことを覚知し、勇猛果敢に折伏を行じていかなければならないのであります。(大日蓮・令和二年四月号)
□まとめ
宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の年も残り僅かとなりました。ご自身の一年を振り返って、大佳節の年にふさわしい信心活動ができたでしょうか。明年「報恩躍進の年」を晴れやかに迎えるため、本年最後まで、精一杯の戦いを進めようではありませんか。
□住職より
プロ野球、北海道日本ハムファイターズの新監督に就任した新庄剛志氏は、監督就任以降、自分自身のことを「ビッグボス」と言ってみたり、選手達にユーモア溢れる数々の言葉をかけており、良い意味で世間の注目を集め、反響を呼んでおります。その言葉一つ一つは、プロ野球選手として一時代を築き、活躍の場をアメリカのメジャーリーグに移しても、ここぞと言う時に活躍した選手として、非常に意味深く正に野球の基本に則った言葉であるそうです。
とくに最近、新庄氏の「自由人になりたかったら、日々ストイックになれ」という言葉が気になり、今まで「ストイック」という言葉はよく耳にしたものの、あまりよくその意味をしらなかったものですから、今回インターネットでその言葉の意味を調べたところ、「ストイックとは、自身を厳しく律し、禁欲的に己を持する、という意味のこと。わかりやすくいうと、さまざまな欲求に左右されず、自分で定めた基準を厳守して行動する、という意味である」とあります。
私たちの信仰は、決して五欲(眼・耳・鼻・舌・身の五根によって起こす欲望)に執着して三悪道に堕ちないよう、大聖人様の御教示を拝して、重々己の日常生活を日々省みることが肝要であります。それこそ、「ストイック」な信仰姿勢、すなわち「様々な欲求に左右されず、我見に堕した信仰姿勢に気を付け、御本尊さまから功徳利益を頂けるように、あらゆることへの執着を破し、自分自身でしっかりと日常生活における基準を定めて厳守し、信行の実践に励むこと」が鍵となります。
特に世間の遊楽を興じることにはそれなりに金銭を使用することになります。ですから、まずは御本尊様への御供養や先祖供養等、やるべきことをやった上で、特に未成年のお子様を持たれる親御様にとっては、色々と悩ましいところもあるかと存じますが、あくまでも私たちは自分自身を厳しく律して一家和楽異体同心して信仰に励むことこそ、そこに自由自在な境界、何事にも恐れや堕落に陥ることなく、御本尊様からの御仏智を以てあらゆる物事を達観して、分別することが出来うる境界になることが肝要であります。
また「然るに在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし。況してや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦ひなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ」という御教示の境界を目指して精進することに意味があります。
つまり、御本尊様からの功徳利益に浴し、有意義且つ歓喜あふれ法悦にひたる生活をお送り頂き、長いようで短い人生において、己の罪障消滅宿業打開に努め、様々な諸難困難を乗り越えつつ、最期臨終を迎えた時、仏さまより霊山浄土へと誘って頂けるような崇高な境界を求めて、日々信行の実践に励んで頂きたいと願って止みません。どうか、皆様には謙虚、正直にして、正法正義の道を踏み違えること無きよう、「ストイックな信仰を心掛け、自由自在な境界になれるよう」に、更なる信行増進と、広布大願に向かって慈悲の一念を持って、末法唯一無二の正法正義を受持信行している誇りと責務を抱き、御精進の誠を尽くして頂きたく存じます。