琵琶の名人(びわのめいじん)令和3年11月

琵琶(びわ)の名人(めいじん)  令和3年11月 若葉会御講 

      
 むかし、源博雅(みなもとのひろまさ)朝臣(あそん)という人がいました。この人は醍醐天皇(だいごてんのう)の皇子(こうし)である兵部卿親王(ひようぶきようのみこ)の長男でした。博雅は管弦(かんげん)の名人で、特に琵琶(びわ)を弾(ひ)くことと笛(ふえ)を吹(ふ)くことは、誰にも負けないぐらい上手でした。博雅は日ごろから、琵琶の音色(ねいろ)の奥深さをもっと極(きわ)めたいと練習に励み願っていました。
 そのころ、会坂(あいさか)の関(せき)というところに、一人の目の不自由な蝉丸(せみまる)という名の男が、小さな庵(いおり)を作って住んでいました。蝉丸は以前、敦実親王(あつみのみこ)と呼ばれる式部卿宮(しきぶきようのみや)に雑用係(ざつようがかり)として仕(つか)えていました。この式部卿宮も琵琶の名人で、長年仕えていた蝉丸は、いつの間にか式部卿宮の弾く琵琶の名曲を耳で覚えていました。目が見えなくなった蝉丸は、きっと心で琵琶の音を聞いていたのか、蝉丸の弾く琵琶の音は人の心に伝わり人の心を大きく動かしました。
 そのうわさは京の都に住む博雅の所にも伝わり聞こえてきました。博雅は、その琵琶の音を聞きたくてたまりませんでしたが、山奥の会坂の、貧しく荒れた蝉丸の庵室(あんしつ)までは行く気になれませんでした。そこで、「そんな片田舎(かたいなか)に住んでいないで京の都に出てきませんか。私はあなたの琵琶の音を京の都で聞きたく思っております。ぜひ京の都に来て下さい」と伝えるよう、家来を使いにやりました。
 蝉丸は返事に「世の中は とてもかくても 過(す)ごしてむ 宮(みや)もわら屋も はてしなければ(この世はどのようにしても、どこにあっても生きていける、過ごしていけるのです。すばらしい宮殿(きゆうでん)も、貧(まず)しいわら屋も、それは永久(えいきゆう)なものではなく、いつかは失われていくものです。ですから、京の都とか山奥とかにとらわれる必要はないのです)」との歌を詠(よ)み、その使いに渡しました。博雅は使いの者が持ちかえった蝉丸の歌を読み、仏教の教養もある歌の内容に驚き、目の見えない雑用人と軽んじていた自分を反省し、こちらから聞きに行こうと決意しました。
 蝉丸の琵琶の音はじつに静かで、心に染みわたるものがありました。博雅は心の中で、「琵琶には『流泉(りゆうせん)』、『啄木(たくぼく)』という最も勝れた秘密の名曲がある。今ではあの盲目の蝉丸だけが弾けるのだろう。是非聞きたいものだ」と期待しつつ、通い始めて3年が過ぎました。博雅は蝉丸の庵(いおり)に出かけても、いつも中には入らず、外で気づかれないように聞き、終わったら静かに帰っていきました。
 そして、3年目の8月15日、月はおぼろにかすみ、風は時にはげしく吹きつけ、すすきの穂をゆらして、寂しさを感じる実にもの悲しい夜でした。博雅はその夜も蝉丸の庵に来ていました。蝉丸はいつもと違って、しみじみともの思いににふけっている様子で、博雅は今日こそはあの名曲を聞けるのではないかと、胸をわくわくさせていました。そのうち、蝉丸は自分で作った歌を歌いながら、琵琶を弾きならしました。
 「会坂の 関の嵐の 激しさに しいてぞいたる 夜を過ごすとて(会坂の関を吹く嵐の激しさよ、こんな夜は、眠らないで一夜をじっと座り続けて過ごしたい)」と歌い、蝉丸の弾く曲を外で聞いていた博雅は、感極まりおもわず涙ぐみました。
 やがて蝉丸は、「ああ、今夜は趣(おもむき)のある夜だ!こんな夜には、琵琶のわかる人と一晩中語り合いたいものだ!」とつぶやきました。この言葉を聞いた博雅は、「京の都に住む博雅という者がここに来ています」と思わず名乗り出ました。すると蝉丸は、「その声はどなた様ですか?」と、蝉丸は見えない目を見開いて尋ねました。博雅は、「私はあなたの琵琶の音にひかれて、京都から来た源博雅(みなもとのひろまさ)という者です。実はここに通い始めて3年になりますが、今日はあなたが話し相手を求めていたので、名乗り出ました。話しができれば大変うれしく思います」と答えました。
 蝉丸は大変感激し、立派なみなりであろう身分の高い方が、自分のような身分の低い者の所へ3年間も通ったと聞いて、有り難いやら恐れ多いやらと感じ、蝉丸は博雅に庵の中に入ってもらい、色々と琵琶について語り合いました。そして博雅は蝉丸に「今では誰も弾けなくなった秘曲に、『流泉』と『啄木』があるそうですが、できればぜひお聞かせ下さい」とお願いしました。すると蝉丸は、「よくぞ申されました。よくお聞き下さい。今は亡き式部卿宮はこのようにお弾きになっておりました」と言い、式部卿宮の琵琶の音色をそのまま写したように弾き始めました。博雅は蝉丸の弾いている琵琶を聞いているうちに、深い感動をおぼえ、身をふるわせました。そして、琵琶を持参していなかったものですから、口伝えでこれを習いました。このようにして博雅は念願であった『流泉』と『啄木』の名曲を、自らも弾けるようになりました。
 芸の名人といわれる人は、もともとの才能のみならず、このようにただ一筋にその道を極めようと、師匠につき修練に修練を重ね、努力に努力を重ねた結果、やがてその道を極める人がほとんどです。蝉丸は、身分の低い雑用人でしたが、心から式部卿宮に仕え、琵琶の音色もただただお仕えするなかで、心で、耳で、体で修得することができのです。そして、博雅も琵琶の道を極めたいがために、身分に関係なく蝉丸を師匠とあおぎ、雨の日も、嵐の日も、蝉丸の住む山奥の庵室に通い続け、ついに秘曲を修得することができたのです。
 現在、皆さんは小学校や中学校、高校に通い、先生を師として勉強を教わっていると思います。それでは何のために勉強を教わるのでしょう。それは、これから社会人となり就職して仕事をこなしていく為の基本として必要なことが、学校の勉強であるからです。一見、この勉強をして将来何の役に立つのだろうと思うことがあるかもしてませんが、国語も算数も理科、社会、外国語もすべて、仕事していく上で必要になることが必ずあります。更に自分の求める勉学を学びたいと思うなら、自分がなりたい仕事に就きたいなら、その志をもって大学や専門学校へ通い学ぶことでしょう。
 この信心も同様です。私たちは人として生を受けたならば、老・病・死の苦しみを決して免(まぬが)れることは誰もできません。ですから、まずは最後、臨終(りんじゆう)を迎えた時に仏さまの元に旅立つ支度(したく)を子供のころから行い、途中、病気を患(わずら)ったりやケガをすることもありますし、やがては年老いていきます。その人生を御本尊様と共に生き、時には御本尊様に祈り願う時もあると思いますが、困った時だけ、願い事がある時だけ御本尊様に手を合わせても、御本尊様は皆さんの思いになかなか応えてはくれません。それこそ、蝉丸や博雅のように、毎日毎日努力を重ねて、段々と御本尊様から自然と不思議なお力を頂けるような姿になっていくことが大事なことです。どうか、皆さんには学校の勉強と同じように、朝晩の勤行もしっかり行い、お題目を少しずつでも毎日唱え、更に大聖人さまが説かれた教えも少しずつ勉強して行きましょう。そして、お友達や知り合いに、正しい仏教の教えてあげれるようになってもらいたいと思います。