御報恩御講(令和3年11月)
令和三年十一月度 御報恩御講
『上(うえ)野(の)殿(どの)御(ご)返(へん)事(じ)』 弘安元年四月一日 五十七歳
今(いま)、末法(まっぽう)に入(い)りぬれば余経(よきょう)も法華経(ほけきょう)もせん(詮)なし。但(ただ)南無妙法蓮華経なるべし。かう申(もう)し出(い)だして候も(そうろう)わたくし(私)の計(はか)らひにはあらず。釈(しゃ)迦(か)・多(た)宝(ほう)・十方(じっぽう)の諸仏(しょぶつ)・地涌(じゆ)千界(せんがい)の御(おん)計(はか)らひなり。此(こ)の南無妙法蓮華経に余事(よじ)をまじ(交)へば、ゆゝしきひが(僻)事(ごと)なり。日(ひ)出(い)でぬればとぼ(灯)しびせん(詮)なし。雨(あめ)のふるに露(つゆ)なにのせんかあるべき。嬰児(みどりご)に乳(ちち)より外(ほか)のものをやしなうべきか。良薬(ろうやく)に又(また)薬(くすり)を加(くわ)へぬる事(こと)なし。此(こ)の女人(にょにん)はなにとなけれども、自(じ)然(ねん)に此(こ)の義(ぎ)にあたりてし(為)を(遂)ゝせぬるなり。たうと(尊)したうとし。 (御書一二一九㌻六行目~一〇行目)
【通釈】今末法に入ったので、余経はもとより法華経さえも無益であり、ただ南無妙法蓮華経だけに功徳・利益があるのである。こう言い出したのも私見ではなく、釈迦・多宝・十方の諸仏や地涌千界の菩薩の定められたことである。この南無妙法蓮華経に他の教えなどを交えるのは大変な誤りとなる。日が昇れば灯火の用はない。雨が降れば露は何の益となろうか。赤子に乳以外のものを与えるべきであろうか。良薬にさらにそれより劣る薬を加えることはない。この女人(姫御前)は、深い理解はなくても、自然に臨終にいたるまで正しい信仰を貫かれたのである。誠に尊いことである。尊いことである。
【拝読のポイント】
〇仏法は時によるべし
大聖人は、『開目抄』に「仏法は時によるべし」(御書五七八)と仰せられ、時の重要性を教示されています。特に末法においては、拝読の御文に「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」とあるように、法華経本門寿量品・文底下種の南無妙法蓮華経だけが、一切衆生を救う大法となるのです。
したがって私達は、この正法に巡り値えたことに心から感謝申し上げると共に、まず自らが真剣に仏道修行に精進し、他の人々にも妙法への信行を、教え、導く折伏行にいそしむことが、今最も肝要となるのです。
〇謗法厳誡と折伏弘通
拝読の御文にある「余事」とは、大聖人の仏法に背く邪宗の本尊や修行、それに基づく思想や言動などの謗法を指します。これについて、総本山第六十七世日顕上人は「南無妙法蓮華経を唱えることは、唯一の成仏の道である(中略)方便の教えによる様々のものを交えては、良薬に毒薬を混じえることになり、大きな誤りとなる」(すべては唱題から七八)と御指南されています。また、第二十六世日寛上人は『法華取要抄文段』に「邪法邪師の邪義を捨てて正法正師の正義に帰伏し、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち始めの謗法の重病を治して、不老不死の果報を得るなり」(御書文段五二八)と、謗法を捨て、御本尊のみを信受し、自行化他の題目を至心に唱えるところに、過去遠々劫からの謗法罪障が消滅され、即身成仏することができる、と教示されています。
私達の折伏は、他の者に邪を捨てさせて正に帰依させる尊い行動であると共に、自らに対する謗法への誡めともなります。このことからも、折伏の実践は、自他共の成仏を目指す私達にとって、欠かすことのできない仏道修行となるのです。
○日如上人御指南
特に今、世界中が新型コロナウイルス感染症によって騒然としている時、かくなる時こそ、私どもは不幸の根源たる邪義邪宗の謗法を破折し、一切衆生救済の秘法たる妙法の広大無辺なる功徳を一人でも多くの人々に説き、一意専心、折伏を行じていくことが、最も大事であることを一人ひとりがしっかりと心肝に染め、講中一結・異体同心して、敢然として折伏を行ぜられますよう心からお願い申し上げます。(大日蓮・令和三年十月号)
□まとめ
私達にとって、新型コロナウイルス感染症は確かに脅威です。しかし、正法を持つ者が一番恐れなければならないのは、災難惹起の根本原因が邪教謗法にあることを忘れ、折伏を実践する心、広布への一念が薄れてしまうことです。よって、自他の成仏のためには、大聖人の南無妙法蓮華経以外にはないことを改めて肝に銘じ、一人ひとりが自身と支部の誓願達成のため、諦めることなく折伏を実践してまいりましょう。
□住職より
昨年来よりコロナ禍によって、総本山への登山参詣、寺院参詣も制限されている状況となっております。よって私たちは、毎年数回に亘り総本山大石寺へと登山参詣し、本門戒壇の大御本尊様の功徳利益、尊い御仏智を賜り、寺院参詣によって常日頃から身の垢を払う機会の減った今、娑婆世界における悪因悪縁の強さや恐さを肝に銘じ、その因縁により自らの信心が怠惰、不信心にならないよう、新型コロナウイルス以上に気を付けるよう心掛ける必要があります。
大聖人様は『新池御書』に、「願はくは今度人間に生まれて諸事を閣いて三宝を供養し、後世菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」と仰せになられております。このように、大聖人様は私たちの求道の一念をないがしろにさせる、世の中の名聞名利や価値観、幸福の尺度、三障四魔の用きに屈することがないようありたいものであります。
先月、百歳の長寿を全うされた方の葬儀を行わせて頂きました。その方は身よりが無く縁戚関係も薄いため、成年後見人として弁護士の先生が着任され、その先生より施設に入ることなったため自宅売却をすることになり、「仏壇の魂抜きをして欲しい」との連絡を頂きました。先生が言うには、「仏壇に南無妙法蓮華経と書かれた本尊らしきものがあるので、妙眞寺に連絡をさせて頂きました」とのことでした。万が一日蓮正宗の信徒で御本尊様への御不敬がないようにと、そのお宅に伺いますと、実際は「顕本法華宗」の本尊や書物などがありましたので、一般世間の方は邪宗のものでも処分となると忌み嫌いますので、こちらとしては「謗法払い」として、宗教的な物は全て回収し、妙眞寺に持ち帰り丁重に処分致しました。
そして数ヶ月後、再度、成年後見人の弁護士の先生から、「御本人がお亡くなりになりましたので、是非葬儀を執行して頂き、相続人を探しだすまで遺骨を預かって頂けませんか」との連絡がありました。私はその旨快くお受けし、葬儀を執行しそのまま御遺骨を妙眞寺でお預りするように致しました。
改めて考えますと、亡くなられたその方はおそらく生前、日蓮正宗には縁することはなかったと思われますが、臨終を迎える前に自ずと大聖人様の正法に縁することができ、いざ臨終を迎え導師御本尊様のもと葬儀を迎えられましたことは、何とも有り難いものであるかと、今は霊山にて感慨深く思われていることと存じ上げ、少々嬉しく思った次第であります。そのことと同時に、生前真剣に信心修行に励んでいても、法統相続ができていなかったり、お独り身の方であれば遺言状などを正式に作成せずに臨終を迎えてしまい、即身成仏への肝心な葬儀を邪宗謗法によって執行されたり、葬儀は行わずに家族のみで火葬場にて荼毘に付し、そのまま納骨してしまうようなことがあったら、生前の信行実践による功徳が台無しになってしまいます。正に大聖人様が、「始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん。譬へば鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩みをはこびて、今一日に成りて歩みをさしをきては、何として都の月をば詠め候べき。何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」とのように、最期臨終を迎え身内によって無事、日蓮正宗のしきたりに則り葬儀を執行して頂き、無事、霊山浄土へと旅立つことができるように、我が寿命は決して自身で計り知ることはできないからこそ、たとえ若い方であっても御夫婦揃って、家族揃って、この日蓮正宗の信心を全うすることがいかに大事なことであるかをより実感し、一家和楽の信心を心得て頂きたく存じます。