令和3年度妙眞寺御会式御逮夜法要の砌

 只今は、令和三年『宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の年』、御会式御逮夜法要に当たり、皆々様の深信なる御参詣を賜り、共々御本尊様に読経唱題申し上げ、更に『立正安国論』を捧読申し上げ、大聖人様への御恩德に謹んで報恩謝徳申し上げた次第であります。
 更に、御参詣の皆様の無始已来の謗法罪障消滅信行倍増一切無障礙、現当二世心願満足大願成就、並びに本年度の妙眞寺支部折伏誓願目標完遂成就の御祈念を懇ろに申し上げました次第であります。

 この御会式は、宗祖日蓮大聖人様が久遠元初の御本仏様の御立場から、御自ら末法五百歳の始めに日本国へと御出現遊ばされ、弘安2年10月12日、末法の御本仏日蓮大聖人様出世の本懐として、末法尽未来際に亘る一切衆生の対境、すなわち私たちが拝すべき御本尊様として、三大秘法の随一、法華経本門寿量品の文底秘沈の大法たる妙法五字七字の題目、本門戒壇の大御本尊様を御図顕遊ばされ、その本懐を成就され、弘安5年10月13日、現在の大田区池上の池上宗仲の館において御入滅遊ばされ、三世常住の御本仏様としての境地を示され、そのお姿を寿ぐ重要な法要であります。
 そしてまた、大聖人様の御遺命たる広宣流布に、万分が一でもお役に立てるよう、更なる自行化他の信心に邁進して折伏行に前進して参ることをお誓い申し上げる、日蓮正宗僧俗にとって非常に大事な法要であります。どうか御参集の皆様方におかれましては、本年も残すところ2ヶ月余り、全身全霊をもって唱題行に励み、その功徳利益と歓喜をもって、勇猛果敢に折伏弘教に精進し、本年の大佳節を名実共にお祝い申し上げて頂きたいと存ずる次第であります。

 さて今夕は、全ての仏道修行の全てに相通じる根本行たる、唱題行の大事について、私の御師範である御先師日顕上人の御退座後、いわゆる猊座を御当職御法主日如上人猊下にお譲りした後の、我々弟子に対する御指南を拝して参りたいと存じます。 

 まず日顕上人は、「我々日蓮正宗の僧俗が大事なことは、有限の至らない我々の生命のなかに、無限の力をもった御仏意を常に拝するということだと思います。そのための唱題行です。唱題行を本当に、命懸けで真剣に行うところに御仏意をいただくことができる。そこから、この一人ひとりの立場のなかから、やるべきこと、なすべきこと、やらなければならないことが、一つひとつ出てくる、身に当たって現れてくると思う。やはりそれは、常に御仏意を拝するということが、色々な面から本当に大事だと思うのであります」と御指南であります。
 日々の日常生活を心豊かに、有意義に、幸ある人生をおくるためには、朝夕の勤行、唱題を根本にした毎日でなければ、自らが本来持っている全力を発揮することはできません。ましてや、命の奥底に眠っている秘めた力を発揮するには、唱題行が欠かせません。また、人として、信仰者として、やらなくてもよいことを排除し、本来やるべきことを見出す力もそこに存するのであります。そして、御本尊様からの尊い御仏意を拝し奉り、世の中には幸せそうな方々、心豊かに暮らしている方々、様々な祈りや願いが適う方々もいますが、それが正法正義に帰依し、その信行の実践で得たもので無ければ、やがては徳を失い、幸福な人生を失うことを知らなければなりません。世の中、上を見たらきりがありません。故に私たちは、世の中の悩み苦しんでいる方々に目を向け、正法に帰依せしめて救っていこうという深い慈悲の境界から菩提心をもって、日常生活を送るところに、大聖人様の御意があることを知るべきであります。

 次に日顕上人は、「唱題行の功徳については、大聖人様があの四百余篇の御書のなかのほとんどにおいてお示しあそばされております。仏法の深い意義の上から、さらにまた一切衆生の様々な境界における悩み、苦しみを開いておくところの根本の道、また唯一の道として南無妙法蓮華経の唱題行を、大聖人様が御一生をかけて我々に与えてくださったのであります。その源は久遠元初にあります。そして今日、末法に御本仏日蓮大聖人が凡夫のお姿をもって御出現あそばされつつ、あらゆる御苦難をされました。これがことごとく法華経の教えの上にぴたっと則っておるところのお振舞いでありました。したがって、我々凡夫がどのような立場にあろうとも、いかなる苦悩があろうとも、その苦悩を開いて幸せになっていけるというところの道を大聖人様がきちんとお開きあそばされたということを、我々は、はっきり拝すべきであります。お互いに信心をしておりますけれども、そのなかでどうしても自分に対する甘えは人間を不幸にする元であると思うのであります。仏法で言うならば『我執』ということで、いわゆる自分に対する執着であり、我れに対する不当な執着が一人ひとりに存するのであります。例えば、布施・持戒・忍辱・精進・智慧という法門があります。その一つひとりは実に広く深いものであります。研究してみると、布施行にしても、禅定行にしても、あるいは忍辱行にしても智慧行にしても、その広さはとても一生かかっても勉強しきれないほどの内容があります。まして、それを実際に体験していくことは不可能なぐらいのものがありますが、そのことごとくが妙法蓮華経の五字・七字に具わっておるのです。また、我々の迷いの凡夫は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の六道のなかで生活し、その生活のなかに様々な曲がった心がありますが、そのようなことに執われておることもすべて我執によるのであります。その六波羅密を行ずる菩薩であっても、また一分の我執、すなわち自分に対する甘えが残っております。それを一切、振り切って真の妙法のところに到達すれば、我々凡夫がそのまま即身成仏の大きな功徳を得ることができるという意味を、御書においても常に締めされる次第であります。それはすなわち、『一心欲見仏 不自借身命』の境界であります。『一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず』という次第であります。この意味において我々は今後、臨終の夕べに至るまで、否、臨終ののち未来の生に向かって、真の成仏の道、三世にわたるところの上からの尊い大きな功徳を受けつつ、法界に遊楽するところの悠々とした境界を開いていくことが大事だと思うのであります。また、仏法には『時』というものが非常に大切であります。あらゆる人々がそれぞれの立場において、その時々の時というものが環境において、立場において存在しておるのでありますが、そのなかで時をしっかり掴んでいくということも妙法の修行の上に大切だと思うのであります」と御指南であります。
 私たちの長年培った信心の経験は大事ですが、それがいつしか驕り高ぶりとなり、我意我見に染まってしまったとしたら、我儘な信心の姿となり、自分の信心の姿こそが正義であり、周りの信徒をバカにしたり揶揄したり、やがては僧侶をも誹謗中傷し、尽きるところ創価学会や顕正会、正信会のような姿になってしまいます。
 つまり、信心については、大聖人様や時の御法主上人の御指南を常に拝して信伏随従し、時に適った信心を心掛けることが何よりも肝要であります。ましてや、皆さんの信心の状況や心根は、全て十如実相に顕現され、特に如是相に顕れることは申すまでもありません。つまり、目つき顔つきにその人の真の心根が顕れてしまい、それを隠すことはできません。更に、その命が周りの人に自ずと察知、感知し、伝播され、良くも悪くも周囲の方々に影響を及ぼし、それが善悪どちらかに分かれることを知るべきであります。ですから、信心はいつの時も「初心不可忘」、初心を忘れることなく、順風満帆なるときも、悩み苦しみ悲しい時も、平穏無事なる時も、御本尊様に真剣に向き合い、尊い御仏意を賜るよう、またその御仏意のままに、正直で誠実な信心、謙虚で素直な信心を心掛け、御本尊様からお叱りを受けるようなことが無きようありたいものであります。

 最期に、日顕上人は御遷化された平成三十一年の正月、大白法の紙面上に「人の振る舞いには実に様々な段階があります。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界の六道の境界の人が実に多くいます。しかし抜きんでて仏の心で対したとき、自ずから変化があります。但相手の仏性と自分の心の仏性を信じ、妙法という仏心を確信するのみです。この心をもってあらゆる六道の衆生の心に対してみましょう。仏の心とは尊い仏性ですから、自分自身の我見我欲でも自利私欲でもありません。あらゆる六道の心にとらわれる事なく、大きな広さ深さをもってあらゆるところに小さくとらわれた心を救ってゆく。『釈尊出世の本懐は人の振る舞い』とは何と尊い教えでありましょう。皆様の折伏増進と信心修行の倍増を祈り、これにて失礼致します」と新年の御挨拶を残され、令和元年となったその年の九月二十日に安祥として御遷化遊ばされました。
 御挨拶の最後に「これにて失礼致します」と、未だかつて無かったお言葉を認められた所以が、正に御自身の96歳という寿命の最期を悟られた上でのお言葉と拝せられ、大聖人様より唯授一人血脈法水をお受け遊ばされた御歴代御法主上人の崇高な御境界を深く拝するものであります。
 この日顕上人の最期のお言葉を拝するに、常に境界高く世法における何事にも決して執われることなく、ただ広布への大きな志を立て、自身の日ごろの所作振る舞い行動発言が、そのまま折伏成就に繋がるようなものでなければなりません。このような境界に達するには並大抵の信行の実践では適うことではないと存じます。それこそ、岩をも碎く強盛なる一念心を持って、自身の我執や障魔を排除し、ただ一天四海妙法広布を目指して、与えられた人としての一期の人生、宿縁深厚にして正法に帰依することができた我が身の福徳を噛み締め、有意義且つ現当二世に亘る真の幸福なる人生を構築するためにも、しかるべき行業を修することができるよう、私たちは信心に対しては、殊に私の心なくありたいものであります。結局は自分次第であります。自分自身がどうであるか。そこを御本尊様が御照覧遊ばされているわけでありますから、自身の足下をしっかりと正しく固めつつ、広布のために自分は何ができるのか、どうあるべきかを今一度見つめ直し、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節の残り2ヶ月余りをお送り頂き、輝かしい令和4年の新春をお迎え頂けますよう心より念願申し上げ、本日の話とさせて頂きます。