御報恩御講(令和3年10月)

 『聖人御難事(しょうにんごなんじ)』         弘安二年十月一日   五十八歳
 清澄寺(せいちょうじ)と申(もう)す寺(てら)の諸仏坊(しょぶつぼう)の持(じ)仏(ぶつ)堂(どう)の南(なん)面(めん)にして、午(うま)の時(とき)に此(こ)の法(ほう)門(もん)申(もう)しはじめて今(いま)に二十七年(にじゅうしちねん)、弘(こう)安(あん)二(に)年(ねん)太歳(己卯)なり。仏は(ほとけ)四十(しじゅう)余(よ)年(ねん)、天台(てんだい)大(だい)師(し)は三十(さんじゅう)余(よ)年(ねん)、伝教(でんぎょう)大(だい)師(し)は二十(にじゅう)余(よ)年(ねん)に、出世(しゅっせ)の本懐(ほんがい)を遂(と)げ給(たま)ふ。其(そ)の中(なか)の大難(だいなん)申(もう)す計(ばか)りなし。先々(さきざき)に申(もう)すがごとし。余(よ)は二十七年(にじゅうしちねん)なり。其(そ)の間の(あいだ)大難(だいなん)は各々(おのおの)かつしろしめせり。         (御書一三九六㌻三行目~六行目)

【通釈】清澄寺という寺の諸仏坊の持仏堂の南面において、午の時に、この法門(南無妙法蓮華経)を申しはじめて今まで二十七年、弘安二年となる。釈尊は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年で出世の本懐を遂げられた。その本懐を遂げられるまでの間の大難は言い尽くせない程であり、これまで申してきたとおりである。日蓮は二十七年で(本懐を遂げるので)ある。その間の大難はそれぞれがよく知るところである。

【拝読のポイント】
〇熱原法難と出世の本懐
 大聖人身延入山後、日興上人の弘教により、熱原方面の農民達の中に次々と帰依する者が出ました。これに対し滝泉寺院主代・行智らの奸計によって惹起したのが、熱原法難です。弘安二年九月には、無実の罪を着せられた農民信徒が鎌倉に押送されるという事件が起きました。その尋問で、平左衛門尉頼綱は改宗を迫りましたが、捕らえた農民達が全く動じないことに怒り狂い、神四郎、弥五郎、弥六郎の三人を斬首してしまったのです。
 大聖人は、この入信間もない農民信徒が身軽法重の精神で妙法を受持する姿に御感あって、出世の本懐を遂げる時の到来を本抄で示されたのです。そして数日後の十月十二日、本門戒壇の大御本尊を御図顕されました。
 戒壇の大御本尊について、総本山第二十六世日寛上人は「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段・御書文段一九七)と御指南されています。私達は、大聖人の本懐である本門戒壇の大御本尊を信じ奉り、血脈御所持の御法主上人の御指南のまま、自行化他の信心に励むところに自身の成仏が叶うのです。
〇大難を乗り越え広布目指そう
 仏道修行の途上には、必ず三障四魔が競い起こり、様々な難が押し寄せてきます。それに対し大聖人は、本抄に「各々師子王の心を取り出だして、いかに人をどすともをづる事なかれ」(御書一三九七)と仰せられ、どのような迫害や難が起ころうと恐れることなく、師子王のような強盛な信心を奮い起こし、敢然と折伏を実践するよう激励されているのです。
 さらに、本抄では「彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをとす事なかれ。彼等には、たゞ一えんにをもい切れ、よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ」(同一三九八)とも仰せられて、入信間もない熱原の法華信徒を決して退転させてはならない旨、御教示されています。それはまた、育成の大事として、御法主日如上人猊下が幾度も御指南されているところでもあります。現今のコロナ禍においては、今まで以上に皆で支え合い、一天広布を目指し、勇猛果敢に折伏に挑戦してまいりましょう。
○日如上人御指南
 特に今日、新型コロナウイルス感染症によって世界中が混沌としている状況を見る時、僧俗一致・異体同心して、いよいよ強盛に自行化他の信心に励み、一人でも多くの人に妙法を下種し、もって全人類の幸せと全世界の平和を実現すべく、一天広布を目指して大折伏戦を展開し、たくましく前進していくことこそ、今、最も肝要であろうと存じます。さすれば、そこから必ず大きく未来広布への展望が開かれてくるのであります。
(大日蓮・令和三年九月号)
□まとめ
 広宣流布実現のためには、私達の折伏は欠かせません。一年で最も重要な法要である御会式には必ず参詣し、御宝前に立正安国実現へ向けた折伏の実践をお誓い申し上げ、真の御報恩を果たしてまいろうではありませんか。そして、本年終盤の信行を尽くし、支部折伏誓願目標を必ず達成してまいりましょう。

□住職より

 本年も残すところ3ヶ月余りとなりました。本年の折伏誓願目標完遂成就に向けて、法華講妙眞寺支部として最後の正念場を迎えております。こうした中でまた1つ大事なことは、我が身の信心の在り方を省みることであります。
 当然、毎日の朝晩の勤行や唱題、各家先祖への塔婆供養、御本尊様へのあらゆる形での御供養、総本山への御登山、寺院参詣、そして破邪顕正の折伏行が主な具体的実践行でありますが、コロナ禍ということもあり、思うように全ての信行の実践に全力を傾注できない状況下にあるかもしれませんが、いつの時も大事な事は唱題行にあり、謙虚で正直な信心に住することであります。
 この唱題行について御先師日顕上人は、「このお題目を唱え、読経しておることにおいて、その御本尊様の霊気が、我々の信によって身体のなかに、我々の唱えるお題目が、その功徳が、そのまま我々の身体のなかの一つひとつに、足の先から手の先まで、あるいは全身に行き渡るということを、何かひしひしと感じさせて頂いたのであります。(中略)この唱題行、あるいは勤行の功徳が、本当に全身全霊の上から感じられれば、皆様方がまた確信を持って、色々な形、あるいは言葉の上から、この唱題の功徳、日々の勤行の功徳を、確信を持って伝えられていくことができると思います。それによって、日々の生活の上に、本当に唱題・勤行の功徳が自分の生活や体に現れてくることが体験できる人が、一人でも二人でも多くなっていけば、それだけ広宣流布が前進しておるのであると思います」と御指南されております。どうか、皆様の唱題行が唱題行で終わらぬよう、全身全霊を持って真剣な唱題行に励み、功徳利益に充ち満ちた境涯を目指し、折伏成就に繋がる自行化他の唱題行に徹することが肝要であり、それを絶え間なく続けていくことが何よりも大切なことになります。
 そして、私たち日蓮正宗の僧俗の信心において、また一つ大事なことは、『依法不依人』ということであります。私たちの信仰において何よりも大事なことは、宗祖日蓮大聖人様が説かれる教えと、その出世の本懐である本門戒壇の大御本尊様への確信、大聖人様から血脈相伝される時の御法主上人に信伏随従することであります。そうした中、世の中には善良で立派な方々、世の中の誰もが尊敬して止まない方々がいると思います。しかし、大聖人様は「仏は依法不依人といましめ給へども、末代の諸人は依人不依法となりぬ」と仰せのように、どうしてもそうした方々、社会的地位や名誉のある方々に発言や行動に影響されてしまうのが世の常であります。 
 しかし、私たちはあくまでも毎日の生活上で学校の先生や、病院の医師や看護師、弁護士や会計士、税理士など、国家資格を取得した方々にお世話になることはあると思います。そうした方々を頼ることは世法上やむを得ないことであります。しかし、大聖人様が「仏の遺言に依法不依人と説かせ給ひて候へば、経の如くに説かざるをば、何にいみじき人(素晴らしい、立派な人のこと)なりとも御信用あるべからず候か」と仰せのように、必要以上に正法正義に帰依せず、邪法邪義を信ずる人を信用するべきではないことを訓誡なされており、仮に信心を行じていなくても幸福そうに見える方々は数多くいれども、それが正しい宗教に依っていない限り、最終的には道を誤ってしまうのであります。
 また、たとえ信心をしていてもその所作振る舞い、倫理道徳の面、発言等において誤った姿がある方がいたならば、そうした方々には従わない、「和して同ぜず」の姿をもって頂く事も大事な事であります。よって、私たちは全ての物事を信心の上から拝すること、判断することが大事大切なことであり、是非ともその道を違えぬよう、よくよく銘記して頂きたく存じます。