コロナ禍での信心⑨

 今、世の中はコロナ禍によって、自分自身の人生や人命の尊さ、当たり前のような毎日の生活を健康に送ることが、いかに有り難いものであるかを改めて考えさせられ、痛感されている方が沢山いると存じます。
 我が国自体、太平洋戦争後の動乱を乗り越え、高度経済成長期を迎え、前回の東京五輪が行われた頃は、国民が一丸となって戦後復興に向かって、一歩一歩前進されていたのではないでしょうか。

 近世では、大正12年9月1日の関東大震災、昭和20年3月15日の東京大空襲により、大正末から昭和初期にかけての25年の間、2度に亘り崩壊焼失した首都東京を、当時の方々は不撓不屈の精神を持って見事に復興ならしめ前回の東京五輪を開催し、今日の首都を築き上げられたことと思い、当時の国民の方々の原動力、精神力には驚かされると共に敬意を表するものであります。しかしながら昭和後期には、人々の生活が安定し、科学の進歩と共にあらゆる物々が開発製造され、やがてその勢いに飲み込まれた人々の精神的成長が追いつかなくなってはいませんか。

 実際、戦争や大きな自然災害のないことがどれだけ幸福な毎日であるかを忘れ、そうした先人の苦労、苦難の道を知らない現代人は、あらゆる欲望や豊かな暮らしを追い求め、それが拝金主義へ転化しバブル経済の発展と崩壊へと繫がります。今なお、拝金主義は人々の心に蔓延り(はびこり)、蝕み(むしばみ)、それ故日本も益々悪質な犯罪や事件が増え、そうした人の心がそのまま世相へと反映し、凄惨(せいさん)な事故や天変地夭ともいうべき自然災害などが平成の時代にから令和の今日にかけて、我が国を頻繁に襲うようになりました。

 当然、仏法の上からすれば、邪宗謗法の害毒の影響は当然のことながら、お釈迦さまが薬師経等に説かれる誹謗正法の失(とが)によって三災七難が日本を始め世界各国を襲っています。私たちは、こうした突如起こる自然災害の脅威には為す術も無く、多くの尊い命をが一時にして犠牲になっているのが現状であり、また、こうした世情の混乱も世間の方々は、人心の荒廃が依正不二(えしようふに)の原理となって、仏法の教えの通り現実となって現れていることも知らないでしょう。

 しかし、この原理、道義を深く知る唯一の存在が私たち日蓮正宗の僧俗であります。だからこそ、現在のコロナ禍を始め、人心の荒廃著しい世情の浄化矯正のため、大聖人様乃至お釈迦様が説かれる教えのもと、今生現世をいかに生きるか、いかに功徳利益に浴する毎日を送るかを仏法の教えから汲み取り、深く考え、今こそ慈悲の一念をもって破邪顕正の信心に住することが最も肝要なことであります。

 大聖人様は『聖人御難事』に、「月々日々につより給へ。すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし。我等凡夫のつたなさは経論に有る事と遠き事はをそるゝ心なし」とありますように、世の中の人々は目先の欲得に心を奪われ、世界的に知られる御釈迦様の言葉や、大聖人様の御教示に耳を傾けようともせず、逆に耳触りの良い教えを説き勧誘する新興宗教や、科学的にその教えが悉く覆されている外道の教えを、未だに正しいと思い信じ込み、幸福になるどころか不幸な人生を歩んでいるのが現状であります。ましてや、いつ来たるかわからない自らの臨終のことなど、まだまだ遠い先の事と思い臨終後の行く末のことなどは考えもしないでしょう。

 大聖人様は『新池御書』に、「たまたま人間に来たる時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行の灯は消えやすし。無益の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これたゞごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」と仰せになられているように、世間的地位や名誉、現在の言葉で言うところの上級国民を目指し、無利益(むりやく)なことばかりに執着し金銭を費やし、虚栄心に心を奪われ、人として本来送るべき人倫の道を違える人がいかに多く、自身の三毒煩悩や三障四魔に振り回され、やがては自身を滅ぼし、一家を滅ぼすことになりかねないことに気づきもしない状況であります。

 ましてや私たち日蓮正宗の僧俗も同様であります。大聖人様は同じく『新池御書』に、「皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が、中程は信心もよはく、僧をも恭敬せず、供養をもなさず、自慢して悪見をなす。これ恐るべし、恐るべし。始めより終はりまで弥信心をいたすべし。さなくして後悔やあらんずらん」と御教示であります。

 様々な経緯で日蓮正宗に帰依し、信行の実践に励むなか、例えば悩み事、果たしたい事が成就したら、信心から遠ざかり退転してみたり、信心していても大なり小なり諸難困難が我が身を襲うことによって、この信心に疑いを持つようになったり、強盛に信心に励む中、だんだん慢心が強くなったり、自分勝手な信心を築いてしまい、邪見の心に陥り信心の道を誤り、功徳を積むどころか、返って罪障を積み累ねてしまう人もいるのではないでしょうか。ですからこそ、後悔千万無きよう、日々水の流れるような信心を志し、我意我見の心を排除し、常に謙虚で正直な信心を貫くことが大事大切であります。

 そして、『兵衛志殿御書』に「此より後もいかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよはりあげてせむべし。たとい命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ」との、大聖人様の御訓誡にもありますように、信教の自由が保障される昭和憲法が発布されるまで、日蓮正宗の信仰は様々な迫害や自由な信仰が妨げられてきましたが、先師先達方は命がけで信心を貫き護られてきました。その姿を令和の今日に映し、私たちはそうした先師先達方への感謝の念と、世情の浄化矯正、コロナ禍の早期終熄、そして広布大願に向かって、一日一日を大事にして、信心を基軸とした日々を送ることが、信仰者として非常に留意すべきことであることを銘記して頂きたく心より願います。

 今月20日、第三回御忌を迎えられる御先師日顕上人はかつて、「朝は三十分早く起きればよいのです。そして一生懸命にお題目を唱えていく、そこにあなた方のその日の一日の根本的な幸せな姿を建設していく形が現れてくると思います」と、全国少年部大会の際、少年部の子供達に御指南遊ばされました。

 このお言葉の通り、まずは朝起きて朝勤行をしっかり行い、御本尊様にその日一日の幸福と無障礙を祈り、夕勤行にてその日一日の御報告と自身への御加護の報恩感謝を申し上げることが、日々怠り無く行うべき基本中の基本であり、更に時間を設けてお題目を真剣に唱えて行くという行業を続けて、功徳を積みかさねていけば、自身の境涯の向上はもとより、そこから更に化他行、すなわち折伏成就すべき更なる境界高き慈悲深く、尊い人格の構築と、あらゆる方々から慕われ愛される境遇へと変わっていきます。ここのところをしっかりと掴めておけば、信心に迷い無く、正しい信仰の実践と功徳利益溢れる最も幸福な人生が開けてくると存じます。あとは、「一切を開く鍵は唱題行にある」との日顕上人の御指南を、心中深く刻み込み、どうか一身不乱に御本尊様にお題目を唱えて行くことの大切さを感じ、日々実践して頂きたく心よりお祈り申し上げます。