御報恩御講(令和3年9月)
『如説修行抄』(にょせつしゅぎょうしょう) 文永10年5月 52歳
法華折伏(ほっけしゃくぶく)破(は)権(ごん)門(もん)理(り)の金言(きんげん)なれば、終(つい)に権教(ごんぎょう)権門(ごんもん)の輩を(やから)一人(いちにん)もなくせ(攻)めを(落)として法王(ほうおう)の家(け)人(にん)となし、天(てん)下(か)万民(ばんみん)諸乗(しょじょう)一仏乗(いちぶつじょう)と成(な)りて妙法独(ひと)りはむ(繁)昌(じょう)せん時(とき)、万民(ばんみん)一同(いちどう)に南無妙法蓮華経と唱(とな)へ奉ら(たてまつ)ば、吹(ふ)く風(かぜ)枝(えだ)をならさず、雨(あめ)土(つち)くれをくだ(砕)かず、代(よ)はぎ(羲)のう(農)の世(よ)となりて、今生に(こんじょう)は不祥(ふしょう)の災難(さいなん)を払(はら)ひて長生(ちょうせい)の術を(じゅつ)得(え)、人法(にんぽう)共(とも)に不(ふ)老(ろう)不死(ふし)の理(ことわり)顕(あら)はれん時(とき)を各々(おのおの)御(ご)らん(覧)ぜよ、現(げん)世(ぜ)安穏(あんのん)の証文(しょうもん)疑(うたが)ひ有(あ)るべからざる者(もの)なり。 (御書671㌻6行目~10行目)
【通釈】「法華折伏破権門理」の金言のとおり、ついに権教権門の者たちを一人も残らず攻め落として法王の家来となし、天下万民が諸乗一仏乗と成って、妙法のみが繁昌する時、万民が一同に南無妙法蓮華経と唱え奉るならば、吹く風は枝を鳴らさず、雨は土くれを砕くことなく、代は伏羲や神農の治世のようになり、今生には不幸な災難を払って長寿を得、人法共に不老不死の道理が顕れる時を各々御覧なさい、現世安穏の証文に疑いがあろうはずがないのである。
【拝読のポイント】
〇末法の如説修行とは折伏行
大聖人は本抄に「唯有一乗法と信ずるを如説修行の人とは仏は定めさせ給へり」(御書六七二)と仰せられ、真言や念仏等の方便の教えを捨て、唯一真実の法華経を信じ修行する人こそ、如説修行の人であるとお示しです。
末法今日において最も大事なことは、本抄に「諸経は無得道堕地獄の根源、法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ」(同六七三)と仰せられている通りに実践することです。爾前権教は無得道であるばかりか、人々を地獄に堕とす根源なのですから、このことをしっかりと言い切っていく破邪顕正の折伏こそが、末法における如説修行であり、今何をおいても実践すべきことなのです。
〇仏国土の実現に向けて
大聖人は、広宣流布の暁に出現する仏国土の相について、拝読の御文に「吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代はぎのうの世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん」と仰せられています。すなわち、大聖人の三大秘法が広宣流布した暁には、災害や天変によって人々が苦しむことのない穏やかな時代となるということです。さらに個人にあっては、災いを払い、身心ともに健康で長寿の功徳を得ることができ、不老不死の利益、つまり三世常住の成仏の境界に至ることができるのです。
この大功徳を知る私達は、悩みや苦しみの多いこの娑婆世界を仏国土へと変えていくためにも、御法主上人の御指南のもとに異体同心・講中一結して、広布に向けて前進していくことが肝要です。
○日如上人御指南
『立正安国論』の正意に照らせば、正報たる我ら衆生が一切の謗法を捨てて、実乗の一善たる三大秘法の随一、本門の本尊に帰依すれば、その不可思議広大無辺なる妙法の力用によって、我ら衆生の一人ひとりの生命が浄化され、それが個から全体へ、衆生世間に及び、社会を浄化し、やがて依報たる国土世間をも変革し、仏国土と化していくのであります。反対に、我ら衆生の生命が悪法によって濁れば、その濁りが国中に充満し、依報たる国土の上に様々な変化を現じ、天変地夭となって現れるのであります。これが『立正安国論』に示された原理であり、この原理を体して、真の世界平和と仏国土実現のため、挺身していくのが我ら本宗僧俗の大事な使命であります。(大日蓮・令和二年四月号)
□まとめ
今なおコロナ感染症予防のため、行動制限が求められています。これをもって、動かないことだけが予防とばかりに、信心活動まで止めてしまうことがあってはなりません。私達は、自身の信行を見直し、そこに懈怠などがないかを常に確認して、十月から奉修される御会式を一つの目途として、誓願達成に向けた具体的な行動を起こしてまいりましょう。そこにこそ、大聖人が仰せの「如説修行」の信心があることを銘記し、折伏・育成に力を尽くしていこうではありませんか。
□住職より
新型コロナウイルスの流行も新たな局面を迎え、各コロナ病床の逼迫により、重症化病棟や重傷者患者へのECMOの機器も、当初は重症化した高齢者に使用されてきましたが、重傷者の若年化により現場の医師たちはやむを得ずトリアージ、いわゆる命の選択を迫られる状況に陥っています。このような状況下、大聖人様の御在世当時も四箇度に及ぶ疫病の災禍のなか、宗祖日蓮大聖人様をはじめ弟子檀越方が果敢に破邪顕正の信心に励まれたように、私たちもコロナ禍に屈することのないよう、寧ろ御本尊様や諸天から守護されるような、一層の信行倍増に励む時を迎えています。
特に9月12日は大聖人様が龍ノ口の御法難を被られ、その御法難を契機に発迹顕本なされ、上行菩薩の再誕、旃陀羅が子日蓮から、末法の御本仏乃至久遠元初の御本仏様としての本来のお姿を示された、非常に意義深く重要な月であります。大聖人様は、文永8年9月12日に惹起した龍ノ口の法難の後、佐渡島へと御配流になりました。文永11年には赦免となり鎌倉に戻られ、3度目の国家諫暁をなされましたが、その志も虚しく終わり、その後身延の山に登られます。そして、龍ノ口の法難から8年後の弘安2年10月12日、本門戒壇の大御本尊様を御建立遊ばされ、出世の本懐を遂げられるに至ります。
大聖人様は本門戒壇の大御本尊様について、御歴代上人の相伝書である『御本尊七箇相承』には、「末代の凡夫、幼稚の為めに何物を以って本尊とす可きと、虚空蔵に御祈請ありし時、古僧示して言はく汝等が身を以って本尊と為す可し。明星の池を御給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影、今の大曼荼羅なり」と認められております。つまり私たちが凡夫にはお題目を中心に、十界の衆生が認めされている御本尊様ですが、人法一箇の御本尊と言われる所以は、御本尊様のお姿そのものが御本尊様なのであります。
そして、『日女御前御返事』には「竜樹・天親等、天台・妙楽等だにも顕はし給はざる大曼荼羅を、末法二百余年の比、はじめて法華弘通のはたじるしとして顕はし奉るなり。是全く日蓮が自作にあらず、多宝塔中の大牟尼世尊・分身の諸仏のすりかたぎたる本尊なり」と、末法尽未来際に亘る衆生の拝し奉るべき御本尊様として、その御境界の上から御認めなされたのであります。
更に、総本山第二十六世日寛上人様は『六巻抄』の『当流行事抄』に、「嫡々相承の曼荼羅とは本門戒壇の本尊の御事なり。故に御遺状に云わく、日興が身に宛て賜わる所の弘安二年の大本尊日目に之れを授与す」とあるように、その御法魂が大聖人様から第二祖日興上人、第三祖日目上人へと御相伝され、その後も御歴代上人がお受け遊ばされ、本門戒壇の大御本尊様を御書写されております。また、この御本尊様の御相貎について、南無妙法蓮華経のお題目の御文字が長く引かれていることは、大聖人様の大慈大悲によって、一閻浮題に必ず広宣流布すべきことを顕し、御本尊様に認めされている各王に点が付けられ、「玉」と認めされていることは、諸経に説かれる数々の王の中でも、法華守護の大王であるが故であり、お題目の下に日蓮在御判と認められているのは、「深秘なり代々の聖人悉く日蓮なり」と大聖人様が御教示なされている故であり、また大聖人様の花押では無く「在御判」と認める所以でもあります。こうしたことからも、大聖人様から受けつがれる血脈相承の御法体が、私たち凡夫には理解し得ない、尊く偉大なる御法魂であり、不相伝の日蓮宗各派の僧侶が御本尊を模写し、大聖人様の花押をそのまま書いたりする姿は、当然誤った姿であり、その本尊には功徳利益も存しないことは顕かであります。
ましてや、御歴代上人が認められた御本尊様を勝手にカラーコピーし、ニセ本尊を作成する創価学会や顕正会の姿は、あたかも日本銀行が発行する紙幣をカラーコピーして使用する姿と同様であり、最もしてはならない大謗法行為であります。どうか皆さま方にはこの深義ある御本尊様に、強盛なる信心を持って折伏成就できるような唱題行に励んで頂きたく存じます。