御報恩御講(令和3年8月)
『法蓮抄』(ほうれんしょう) 建治元年四月 54歳
孝経と(こうきょう)申(もう)すに二(に)あり。一(いち)には外(げ)典(でん)の孔(こう)子(し)と申(もう)せし聖人(せいじん)の書(しょ)に孝経(こうきょう)あり。二(に)には内典(ないでん)今(いま)の法華経(ほけきょう)是(これ)なり。内(ない)外(げ)異(こと)なれども其(そ)の意(い)は是(これ)同(おな)じ。釈尊(しゃくそん)塵点劫(じんでんごう)の間(あいだ)修行(しゅぎょう)して仏に(ほとけ)ならんとはげみしは何事(なにごと)ぞ、孝養(こうよう)の事(こと)なり。然(しか)るに六道(ろくどう)四生(ししょう)の一切衆生は(いっさいしゅじょう)皆(みな)父母(ふぼ)なり。孝(こう)養(よう)おへざりしかば仏に(ほとけ)ならせ給(たま)はず。今(いま)法華経(ほけきょう)と申(もう)すは一切衆生(いっさいしゅじょう)を仏に(ほとけ)なす秘術(ひじゅつ)まします御経な(おんきょう)り。(御書815㌻4行目~8行目)
【通釈】孝経というものに二つある。一つには外典における孔子と称する聖人の書に孝経がある。二つには内典の今の法華経である。内典・外典の違いはあるが、その意は同じである。釈尊が塵点劫の間、修行をして仏になろうと励まれたことは何のためか、それは孝養のためである。しかるに六道四生の一切衆生は、皆父母である。(その父母等への)孝養を終えないうちは、仏になられなかったのである。今、法華経というのは、一切衆生を仏にする秘術がそなわる御経である。
【拝読のポイント】
〇孝養の大事
恩を知り恩に報いるのは、人として極めて大事なことです。私達は、日頃から多くの人の支えによって生活しており、とくに親から受ける恩は非常に大きく、それに対する孝養の心は決して忘れてはなりません。
大聖人が『開目抄』に「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ」(御書五六三)と仰せのように、外道は今世のみの孝養しか説かず、三世に亘り父母を救済できるのは、仏の教えだけです。なかでも、すべての人を成仏させることができるのは、拝読の御文に「今法華経と申すは一切衆生を仏になす秘術まします御経なり」とお示しのように法華経に限ります。
私達は、末法における法華経、すなわち南無妙法蓮華経をもって両親や先祖の供養をすることにより、必ず成仏に導くことができるのですから、孝養を尽くしてまいりましょう。
〇一切衆生への報恩は破邪顕正にあり
拝読の御文に「六道四生の一切衆生は皆父母なり」と御教示です。御法主日如上人猊下は、「衆生が三世にわたって三界六道の生死を絶え間なく繰り返す、その生命流転の相からすれば、そのルーツ・因縁をたどっていくと(中略)一見、関係ないようであっても、まさに一切衆生が父母なのであるとおっしゃっているのです」(大日蓮・令和二年八月号)と指南されています。このように、過去・現在・未来という三世の命、永遠の生命観に立つとき、孝養の対象は父母や先祖のみならず、一切衆生へと広がります。よって、世の中のすべての人々に対する報恩を心がけることが大切です。
私達は、総本山第二十六世日寛上人が「身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通する、則ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり」(報恩抄文段・御書文段三八四)と御教示のように、一切衆生への報恩を果たし、真の救済を図るためにも、破邪顕正の折伏を実践していきましょう。
○日如上人御指南
今日、新型コロナ感染症によって、世界中が騒然たる状況を呈している時(中略)一人ひとりが決然として折伏に立ち上がり、一人でも多くの人々の幸せと真の世界平和の実現を願い、妙法広布に挺身していくことこそ、今、最も大事なことであると思います。大聖人様は『立正安国論』のなかで、「嗟呼悲しいかな如来誠諦の禁言に背くこと。哀れなるかな愚侶迷惑の麁語に随ふこと。早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」(御書二四七)と仰せられ、謗法の害毒によって苦悩に喘ぐ多くの人々を救済し、安穏なる仏国土を実現するため、老若男女を問わず折伏に立ち上がり、断固たる決意を持って勇猛果敢に折伏を行じていくことが最も肝要であると御教示あそばされております。(大日蓮・令和三年六月号)
□まとめ
コロナ禍での折伏は、困難が伴うかもしれませんが、盂蘭盆会や法事等の機会を通し、普段、顔を合わせない家族や親族、知人を折伏するなど、できることはまだまだあるはずです。御聖誕八百年の本年、無為に時間を過ごすことのないよう精進いたしましょう。
□住職より
仏教の基本的理念として『七仏通誡偈』に、「諸悪莫作(しよあくまくさ)・衆善奉行(しゆぜんぶぎよう)・自(じ)浄其意(じようごい)・是諸仏教(ぜしよぶつきよう)」とあります。これは、「諸々の悪を作すこと莫(なか)れ、もろもろの善を奉行し、自らの心を浄くする、是が仏の教えである」という意味であります。つまり、私たちの仏道修行の根本は、三毒煩悩溢れる娑婆世界において、常に心を浄く持ちために善行を修することは、正法に帰依しなければ適わないことであります。
要するに日々の信心修行の実践により、大聖人様が、「功徳とは六根清浄の果報なり。所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり。されば妙法蓮華経の法の師と成りて大きなる徳(さいわい)有るなり。功(く)も幸(さいわい)と云ふ事なり。又は悪を滅するを功(く)と云ひ、善を生ずるを徳(とく)と云ふなり。功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり、又六根清浄なり。法華経の説の文の如く修行するを六根清浄と意得べきなり云云」と功徳を積み累ね、眼・耳・鼻・舌・身・意に亘る六根を常に浄化することが肝要であり、そこにまた功徳利益の源が生ずるのであります。すなわち身口意の三業を浄化矯正することによって、三悪道四悪趣の境界を免れ、仏性を開かしめて功徳を成就することが日々の幸福な境涯に繫がって行くのであり、その為には「此の御本尊全く余(よ)所(そ)に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり」と仰せのように、日々御本尊様に真剣にお題目を唱え、六識の奧底に秘沈する無意識界の領域に存する、九識たる仏界の生命を涌現せしめることによって、初めて自らの六根清浄を現ずることができるのであります。
今、世の中はコロナ禍で騒然としておりますが、この疫病の災禍は諸悪うごめく世情と人々の邪な命、邪宗謗法の害毒によって起こるところ災いであります。ですから、こうした時こそ御本尊様の御冥加と御本尊様に住する諸天の御加護を頂くためにも、私たちは何が起きようが日々淡々と信行の実践に励み、間違っても世間の人々と同じように、人のうわさ話に花を咲かせたり、言わなくても良いことを吹聴したり、やらなくても良いことを行い、餓鬼・畜生界の命に堕すことがないよう、正直にして清らかな心根を持って、尊く有意義な日々を送って頂きたく存じます。
特に今月は盂蘭盆会、来月は秋季彼岸会の月であります。大聖人様が、「いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし。古徳のことばにも、心地を九識にもち、修行をば六識にせよとをしへ給ふ」と仰せのように、身口意の三業によって信行の実践に励み、九識心王真如の都たる仏性を開かしめ、各家菩提の追善供養の誠を尽くして頂き、大いなる功徳を積みかさねて頂くたく存じます。