仙歎(令和3年5月)

  
 むかし、インドに仙歎(せんたん)という人がいました。仙歎は莫大(ばくだい)な財産(ざいさん)を持っている長者(ちようじや)でしたが、仏さまの教えを正直に信じ行じていましたので、こうした財産や地位(ちい)、名誉(めいよ)に執(しゆう)着(ちやく)することはありませんでした。ましてや仙歎は、「財産や地位、名誉などは今生現世だけのもので永遠なものではなく、死んでしまえば何一つ未来世(みらいせ)に持っていくことはできないし、唯一、未来世で役立つ大事な事は仏道修行で得た功徳(くどく)であること」を知っていました。ですから、仙歎は仏道修行のなかでも特に布施行(ふせぎよう)(困っている人たちに財物(ざいもつ)を分け施して助ける修行)の功徳を仏さまから教わり、いつも困っている人には金品の施しを行い、それを惜しむことはありませんでした。よって仙歎の回りにはお金が無く、困っている人は少なくなりましたが、病気で苦しむ人がまだたくさんいました。
 そこで仙歎は、残っている財産を処分して、薬を買い集めて病気の人たちに無料で薬を差し上げました。人々は病気が治って非常に喜び、そのうわさは国内外に広まっていきました。そこで、たくさんの人たちが仙歎のもとに良薬を求めて集まってきましたので、莫大な財産もとうとうなくなってしまいました。
 仙歎は、困っている人たちを助けるようと思い、再び財産を作るために財宝を求めて旅に出ました。途中、数台の牛車(ぎゆうしや)に乗ってくる病人たちの一行(いつこう)に出会いました。仙歎は、「どうしました?どこへ行かれるのですか?」と尋ねると、病人たちは、「はい、仙歎さまというお方が良薬を恵んで下さるということを聞いて、お伺いするところです」と答えました。仙歎は、自分を頼ってはるばる訪ねてきてくれたことに感激して、なんとかして薬を差し上げたいと思いました。しかし、もうお金がありません。仙歎は王様に訳を話してお金を貸してもらい、そのお金で病人たちに薬を買い与えることができました。そうして、仙歎は人々の役に立つために、財産を求めて旅に出ました。
 やがて仙歎は、莫大な財宝を得ることが出来ましたが、一緒に行った商人たちに裏切られ、財産を奪われて古井戸に投げ込まれてしまいました。しかし、日頃から仏道修行の功徳を積みかさねてきた仙歎は、その功徳で諸天善神に守られ、ケガ一つすることなく、古井戸から逃げることができました。一方、財産を横取りした商人たちは、国に帰ってから国王に、「一緒に行った仙歎はどうしたのか?」と聞かれ、商人たちは、「はい、途中ではぐれてしまいました」と答えました。しかし、数日して仙歎がもどってきて商人たちの悪事が明らかとなり、商人たちは死刑にされることになりました。仙歎は必死に、商人たちを助けてくれるよう王様にお願いしました。王様は、仙歎が殺されるような目にあいながらも相手を恨まず、逆にその商人たちを思いやる優しさに心を打たれ、商人たちを許し、更に仙歎を自分の側近である国師として迎えることにしました。
 それから仙歎は王様と共に、人をいたわり、人の幸せを願う思いやりの心で国を治め、国民は安らかに暮らすことができ、国はますます栄えて行きました。
 さて、その仙歎は実はお釈迦さまの前世の姿でありました。お釈迦さまは、「道を求める慈悲の行いは、無限のものです。そして、真の布施行を行ずることによって、金品財物に対する執着の心、欲の心がなくなり、自然に真実の幸福の道が開けるのです」と説かれました。そして、金品財物を必要としない布施行があることも説かれました。
 これを「無財(むざい)の施(せ)」と言って、次の7つのことをいいます。
 1つめは、「捨身施(しやしんせ)」です。これは、自分の体を動かして仏法を求め、人の為に尽くすことです。〝所作仏事(しよさぶつじ)〟と言って、その人の所作振る舞いは、仏さまの心に通じて行きます。2つめは、「慈眼施(じげんせ)」です。これは〝目は心の窓〟〝目は心の鏡〟〝目は口ほどに物をいう〟といいますから、その人の心は必ず目や目つきに現れ、隠すことはできません。ですから、いつも慈(いつく)しみ、思いやりの心や優しさを持って人に接して行きましょう。3つめは、「和顔施(わがんせ)」です。これは和(なご)やかな表情をもって人と接することです。4つめは、「愛語施(あいごせ)」です。これは、あたたかく愛情ある思いやりの言葉をもって、人と接することです。乱暴な言葉、汚い言葉は止(や)めて、丁寧な言葉を使いましょう。また、人の悪口やうわさ話、ウソなどは言わないようにしましょう。また、朝晩の挨拶や、お礼の挨拶なども、相手の心に伝わるように大きな声で真心を込めてしましょう。5つめは、「心慮施(しんりよせ)」です。これは真心(まごころ)のことをいいます。他の人の幸せや不幸な出来事を心から喜べる心、一緒に悲しめる心。そのように他の人のことも自分のことのように思える、思いやりの心のことを意味します。これは、先の4つのことを行う時も、心を込めて行うことが大切です。真心のこもった行動、眼差(まなざ)し、笑顔、言葉遣(ことばづか)いが大切です。6つめは、「床座施(しようざせ)」です。場所や席を他の人に譲ることをいいます。よく電車やバスなどで、お年寄りや体の不自由な方、妊婦の方に席を譲る方を見かけます。当然、混んでいたり長く乗り物に乗っている人は、座席に座りたいと思うのが当然ですが、目の前にそうしたハンディキャップをもった方がいたならば、皆さんも自然と席を譲ることでしょう。そして7つめは、「房舎施(ぼうしやせ)」です。これは、自分の家や部屋を他の人に提供すること、利用してもらうことで、お客さんが家を訪ねてきたならば、嫌な顔ひとつせず、部屋にお通ししてゆっくりして頂いたり、泊まって頂いて、その人をもてなすことをいいます。以上の7つが物やお金を必要としない「無財の施」です。
 さて、「金品(きんぴん)の布施(ふせ)」も「無財(むざい)の布施(ふせ)」も、気をつけたいことが1つあります。それは、あくまでも、「させて頂く」という謙虚(けんきよ)な気持ちです。何でもそうですが、「やってあげた」とか、「・・・してあげた」という気持ちではなく、「させて頂いた」、「お手伝いさせて頂いた」という心持ちが大事であり、その真心こもった行動が相手の心に通じて、相手も「感謝の気持ち」を持つことができます。
 この「布施行」という仏道修行は、自分の「欲(よく)の心」を「福徳を積ませて頂こう」という清い心へと変えて、自分も何かをさせて頂こう、御本尊さまから功徳を頂けるような行動をしよう、という心を持つことが大事なことです。
 今の私たちにとって、お寺で御本尊さまに御供養する、ということがこれに当たります。これはお父さんやお母さんがお寺に来て、受付で御供養している姿を見たことがあると思いますし、皆さんのなかでもお年玉やお小遣いのなかから、御供養したことがある子もいると思います。また、お寺で皆さんとお掃除をしたり、太鼓を叩いたり、お寺のお手伝いをすることも、みな御本尊さまから功徳を頂ける大事な修行になります。そして、そうしたことを自ら進んで行うこと、少しでもお手伝いをさせて頂こうという気持ちをもって、これからも真心を込めた行動ができるようになりましょう。