宝塔(ほうとう)の火事(令和2年12月)

 むかし、摂津国(せつつのくに)(今の大阪市(おおさかし))の豊島郡(としまのごおり)に、多々院(ただのいん)というお寺があり、そこに1人の僧侶が住んでいました。その僧侶は山林の中で仏道修行をして、毎日法華経(ほけきよう)を読誦(どくじゆ)していました。その僧侶のそばには1人の男が常に仕(つか)えていて、僧侶を尊敬し供養をして、身の回りのお世話をしていましたが、ある日急病で亡(な)くなってしまいました。

 家族は深く悲しみ、棺(ひつぎ)に入れ木の上に安置しました。しかし、それから5日後、棺の中から棺のふたを叩(たた)く音が聞こえます。家族は恐る恐る棺を開けてみると、なんと亡くなったはずの男が生き返っていました。

 棺から出て家に帰った男は、自分が死んでから生き返るまでの話を、奥さんや子供たちに話しました。男は、「私が死ぬとすぐに閻魔(えんま)さまの所につれて行かれ、そこで閻魔さまは帳面(ちようめん)をめくりながら、『お前は生前(せいぜん)の罪(つみ)が重いので本来ならば地獄(じごく)に堕(お)とすところだが、このたびはその罪をゆるして、もとの国に返してやろう。その理由は、お前が長年にわたって、法華経を読誦している僧侶を真心(まごころ)から供養してきたからである。法華経はまことに尊い教えであるから、お前が法華経読誦の僧侶を供養して積んだ功徳(くどく)も大きいので、今回は地獄に堕ちるところを助けてやろう。お前はもとの国に帰ったら、いよいよ信心に励み、法華経の教えを信じ、法華経を行ずる僧侶を供養して、精進(しようじん)して行きなさい』と、私は閻魔さまから言われたあと、閻魔の庁(ちよう)を出て、人間の世界に戻ることになった。途中(とちゆう)、野山を通っている時、金・銀・瑠璃(るり)・硨磲(しやこ)・瑪瑙(めのう)・真珠・玫瑰(まいえ)の7つの宝石(ほうせき)で飾(かざ)られた立派(りつぱ)な宝塔(ほうとう)があり、その荘厳(そうごん)さは言葉では言い表せないものだった。私がその宝の塔に見とれていると、1人の男が宝塔に向かって口から火を吹き出していて、よく見ると私が仕え供養してきた僧侶だったんだよ。私は腰がぬけるほど、ビックリぎょうてんしてしまったよ。それでその時、天から声が聞こえ、『よく聞け。この宝塔は、あの僧侶が法華経宝塔品(ほうとうほん)まで読誦した時、心の中に出現した宝塔だ。しかしあの僧侶は、時々弟子や子供を厳しく叱(しか)りつけるので、その怒りの心が火となって現れ、あのようにせっかく心の中に出現させた宝塔を自ら瞋恚(しんに)(いかり)の心で焼いているのだ。もし怒りの心を静(しず)めて心おだやかに法華経を読誦するようになれば、麗(うるわ)しい宝塔が心の隅々にまで充満(じゆうまん)するであろう。お前がもとの国に帰ったならば、そのことを僧侶に報告し、怒りの心を捨てるように言いなさい』。私はこの言葉を聞き終わると同時に生き返ったんだよ」と言いました。

 この話を聞いた奥さんや子供たち、親類や知り合いの人たちは、不思議なことがあるものだと感心し、法華経の教えを信仰すること、法華経の教えを説く僧侶に供養することが、いかに功徳の大きいことかを思い知らされました。そして、男が生き返ったことを心から喜び、自分たちも法華経の信仰をしていくことを誓い合いました。そうして、さっそく男は僧侶のところへ行き、生き返った男の姿を見た僧侶は、喜びの声をあげました。そして、男の話を聞いた僧侶は心から自分を恥じ、後悔(こうかい)し、これからは決して怒りの心を起こさないよう誓い、一から修行をやり直そうと、前よりもさらに熱心に法華経を読誦するようになり、男は以前にもまして、その僧侶に仕え、真心からの供養につとめ、自分自身も法華経を読誦できるようになり、地獄に堕ちる原因となってしまう、自らの罪障(ざいしよう)を消滅(しようめつ)することにつとめました。

 その後、僧侶は怒りの気持ちがなくなり、いつもやさしく、にこやかに人々に法華経の教えを聞かせ、人々からお上人(しようにん)さま、お上人さまと慕(した)われるようになりました。やがて、寿命を迎えた僧侶は法華経を唱えながら、まるで仏さまに迎えられるかのように安らかに亡くなり、その姿は仏さまのようでした。

 皆さん、尊い法華経を信じ、読誦し、説き聞かせる僧侶を供養した人は、たとえ地獄に堕ちる罪を背負っていたとしても必ず救われるということ、また、法華経を説く僧侶であっても怒りの心があれば、自らの功徳や自分の心の中にある宝塔、つまり仏さまの命を焼いてしまうことになってしまうことがわかりましたか。 

 今、皆さんは日蓮大聖人さまが説かれた、法華経に説かれる最も深く尊い教えである南無妙法蓮華経の教えを信じ、毎日朝夕の勤行として、御本尊さまに法華経の方便品(ほうべんぽん)と寿量品(じゆりようほん)を読誦し、お題目を唱えていると思います。しかし、ただ信じるだけ、勤行や唱題をするだけでは何も変わっていきません。 

 もともと人間には貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒(さんどく)という汚(きたな)い心が、必ずみんなの心にあります。まず、貪とは、貪欲(とんよく)といって、あれが欲しい、これが欲しい、あぁしたい、こうしたいといった欲望(よくぼう)の心、瞋とは、瞋恚(しんに)といって、いつもカリカリしていたり、すぐにカッとなって怒ったりする心。癡(ち)とは愚癡(ぐち)といって、愚(おろ)かな心をもって、言わなくてもいいことを言ったり、やらなくてもいいことをしたり、平気でウソをついたり、人の悪口を言いふらしたりする心を言います。信仰をしても、こうした心や行いがあると信仰している意味もなくなり、決していいことはありません。また、自分のことばっかりを考えたり、自分の幸せや願い事だけを考えたりしていると、まるでゴジラのように火を吹いていた僧侶と同じような姿になってしまいます。 

 そうならないようにするには、自分のことだけではなく、大事な家族や友達の幸せを御本尊さまに祈ったり、御本尊さまに感謝の心をもち、御本尊さまに恩返しができるよう、真心の御供養をしたり、大聖人さまの教えを友達に教えてあげたりと、自分ができることを精一杯(せいいつぱい)することが大切です。そして、三毒の汚い心をきれいな心に変えられるよう、家族や友達への思いやりの心、みんなの幸せを願えるような心を持てるようになることが、まず大事なことです。そして、そうしたことを続けて、毎日喜びや楽しみの心があふれ、またその喜びの心を周りの人たちと分かち合うことができるようになることを目標に、来年も頑張って行きましょう。  

住職より

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